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トップ  バックナンバー  2009年  10月  第20回 南の島の先生、命がけの密航記 

南の島の先生、命がけの密航記 
~教え方を求めて3000キロ~

●本放送 平成21年10月21日(水) 22:00~22:43 総合 全国
●再放送 平成21年10月28日(水)
平成21年10月28日(水)
平成22年 1月 6日(水)
08:15~08:58
16:05~16:48
16:05~16:48
BS2
総合
総合
全国
全国
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※再放送の予定は変更されることがあります。当日の新聞などでご確認ください。

配役:三原明大(島の政府文教部)役:楠年明さん(MC企画)
深佐源三(中学校教師)役:藤本幸広さん(MC企画)
森田忠光(小学校教師)役:浜口望海さん(ライターズカンパニー)

エピソード1 “密航”教師たちの危険な賭け

戦後まもない奄美の学校
戦後、アメリカを中心とする占領軍の下で民主化の進む日本。しかしそんな流れから取り残された地域があった。九州の南西海上に浮かぶ奄美群島もその一つ。終戦の半年後に日本本土から行政分離され、人や物の行き来も情報も途絶えてしまっていた。しかも奄美に赴任したアメリカの軍政官は「軍政府は独裁的であり、民主主義を教えることは現在の統治形態と相容れない」と宣言する。新しい時代の子どもたちにどんな教育をして育てていけばいいのか、焦りを募らせた教育関係者たちは、ついに一つの決断をする。それは、本土に「密航」し、「新しい教育」を持ち帰ること。中学校教師の深佐源三(35歳)と小学校教師の森田忠光(26歳)、二人の若い教師による「密航」計画が動き始めた。
 

エピソード2 “新しい教育”への長い旅路

アメリカ軍の管理する船に船員として乗り込み、本土へ向かった深佐と森田。しかしその道中には多くの困難が待ち構えていた。当時奄美で使われていたアメリカ軍発行の軍票は本土では使うことができない。奄美特産の黒糖や大島つむぎなどを密かに持ち込んで換金しようとするが、容易ではなかった。そんな二人に手を差し伸べたのは、本土に住む奄美の出身者たち。当時、本土で暮らす奄美の出身者は、奄美の人口とほぼ同じ規模、奄美が日本から分離されたことで、故郷を訪ねることもできなくなっていた。彼らの協力で行動資金を作ることに成功したふたりは目的の地、東京・文部省に向かう。
本土へ向かう教師たち(再現)
 

エピソード3 学校から始まった本土復帰への道

小学校の校庭で行われた本土復帰集会
奄美に帰った深佐と森田は、持ち帰った教科書をガリ版で刷り増しし、手分けして島中の学校に配り歩く。そして子どもたちの個性と自主性を重視する「新しい教育」を根付かせようと奮闘を続けた。しかしアメリカ軍の占領下、奄美の人びとの暮らしは困窮を極め、学校に来ることのできない子どもたちが増え続けていく。こうした状況を前に、ついに教師たちが立ち上がる。「子どもたちに自主性を説くならば、まず自分たち自身が自主的に声をあげるべきではないか」、新しい教育の理念を指針に、教師たちが始めた本土復帰運動は、やがて奄美全島を飲み込む奔流を生み出す。
 

※密航という言葉の使用について
アメリカ軍が施政権を持っている当時の状況下では、教師たちの行動は「密航」といえる。「密航」自体を無前提に賛美するものではないが、米軍によって作為的に引かれた行政上の線引きにより、それまで本土との間を自由に行き来してきた奄美の人びとの行動が「密航」とされ、処罰の対象とされるようになった理不尽さを描くとともに、分断占領下の奄美において、人びとが「密航」という手段をも使ってしたたかに生き抜き、本土復帰への道筋を作りだしていったことを積極的に評価する立場から、あえて「密航」という言葉を使用した。
当事者である深佐源三氏、森田忠光氏、三原明大氏自身もそれぞれの回想の中で、正式に許された渡航でないからこその数々の苦労を「密航」という言葉で書き記している。
 

参考文献

おもな参考文献
『名瀬市誌』上・中・下(名瀬市誌編纂委員会)
『奄美復帰史』村山家國著(南海日日新聞社)
『祖国への道』中村安太郎著(文理閣)
『軍政下奄美の密航・密貿易』佐竹京子著(南方新社)
『炎の軌跡 奄美復帰の父・泉芳朗の半生』水野修著(潮風出版社)
『戦後の奄美教育誌』名瀬市教育委員会
『全記録 分離期・軍政下時代の奄美復帰運動、文化運動』間弘志(南方新社)
『奄美教育 ~占領行政下における復帰運動と教育~』寿冨一郎(海風社)

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