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放送ヒストリー

放送ヒストリー 2023年11月24日 (金)

『いないいないばあっ!』のはじまり③ ~いないいないばあ~#513

計画管理部 久保なおみ

 「世界子どもの日(11月20日)」をご存じですか?子どもたちの相互理解と福祉の向上を目的として、国連によって制定された日で、世界各地で子どもの権利や未来に関するイベントが開かれています。
 NHKでも11月13日から25日までの間を「スゴEフェス」と題して、さまざまな番組で「こどもたちのハートをうごかそう!」をテーマに発信しています。またNHKテレビ放送開始70年となった今年、放送博物館では、2024年1月28日までNHKキャラクター展を開催しています。
 その「スゴEフェス」とNHKキャラクター展の両方に参加している『いないいないばあっ!』について、前のブログでは、具体的な制作のベースとなった研究と、1本目の試作にあった「どきどきあそび」「擬音のうた」についてご紹介しました。
 今回は2本目の試作で特に印象的だった「いないいないばあ」というコーナーについて、みていきます。

imotoyoko1.png「いないいないばあ」 絵:いもとようこ アニメーション:石田英範


【素材感を大切に】
 「いないいないばあ」は、隠れているもの(答え)は分かっているけれど、それがでてくる楽しさがあります。赤ちゃんは、最後は安全なものが出てくると分かっているから、好きなのだそうです。「きっと〇〇が隠れている(予測)」→「あれ?違うかも?(緊張)」→「やっぱりそうだった(解禁)」の面白さ。

 『いないいないばあっ!』開発プロジェクトでは、「2歳児テレビ番組研究会」の成果をふまえ、そのメンバーで当時はお茶の水女子大学の発達心理学教授だった内田伸子先生や、国立小児病院の谷村雅子先生、さらに保育園や民間の託児施設などに取材しました。そして、乳幼児は"平面を立体的に見る力が弱いので、CGは素材感を出さないと理解しにくい" "単色のやわらかな色づかい、単純な形の方が認識しやすい"などの発達の特徴を学び、制作のベースとしました。
 (詳しくは『いないいないばあっ!』のはじまり①をご覧ください)

 "素材感が大切"という観点から、番組プロジェクトでは、絵本作家のいもとようこさんの絵を採用してはどうかという案が出ました。いもとさんの絵には、温かい素材感があったからです。いもとさんに打診をした際、直接お話を伺って初めて、和紙をちぎって彩色していることが分かりました。原画はまるで、生きているような立体感でした。 

 いもとさんは以前、CMのために膨大な数の絵を描いた経験があったそうで、テレビ番組で自分の絵が使われることに、はじめは難色を示していました。けれども、原画を取り込んでCGで動かすことによって、動画用の絵は別途お願いしないこと、絵としての存在感を大切にして極力動かさないこと、動かす場合はいもとさんが必要性を納得した場合のみとすることなどを条件に、ようやく首を縦に振ってくださいました。


【動かさないアニメーション】
 原画の取り込みとアニメーションは、映像作家の石田英範さんに依頼しました。派手に動かせば動かすほど、せっかくの素材感が損なわれてしまうので、絵としての存在感を大切にするために「できるだけ動かさない」ことを方針としました。「動かす」ことの多いCGにおいて「動かさない」のは珍しく、動かさないと、なんとなく不安になったそうです。そうしてつい動かしたくなる衝動と葛藤しながら、いもとさんの絵の温かい素材感を伝えるアニメーションを目指すことになりました。


【子どもたちの反応】
 1996年1月15日と16日に試作を放送したあと、番組開発プロジェクトでは、ふだんはテレビを見せていない園や、保育の中にテレビ番組を取り入れて放送教育を進めている園など、さまざまな園を訪れて、子どもたちが番組を見る様子を観察し、その効果を検証しました。
 当時、1月から2月にかけて保育園でメモした記録が残っています。

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代表的な園の反応を、比較のために他のコーナーも入れて、抜き出してみました。

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 2本の試作番組を続けて見せてしまった園もあったので、2本目の終わりごろには飽きてしまう子もでてきましたが、いもとさんの「いないいないばあ」は子どもたちに大人気で、動物たちが「ばあ!」と顔を出したあとに笑うと、見ていた子どもたちもつられて一緒に笑う様子がたくさん見られました。

imotoyoko2.png

 こうした結果を開発プロジェクトで共有し、反応の良くなかったコーナーの統廃合を進めて2本の試作を組み合わせ、本放送へとつなげていきました。


【効果測定と番組】
 本放送が始まってからは、一般家庭を訪れ、子どもたちの様子を撮影して放映するコーナーがありましたので、その撮影の際に実際に放送を見るお子さんを見せていただいたりして、頻繁に生の反応を観察していました。集団で見ている幼稚園や保育所とはまた違って、家庭でリラックスして見ている子どもたちの反応はとても素直でした。子どもたちの様子をつぶさに観察すると、際立った反応がなくても、深く心を動かしている表情が読み取れたり、じっくり心に染み込んでいると思われるものもありました。
 そうして、興味を示さないコーナーには改良を重ね、次の制作に生かしていきました。

 最近は、SNSの書き込み等で番組の感想を得られるようになったこともあり、自分の足で反応を見に行くことが少なくなっているように思いますが、それがほんとうにテレビを見ている子どもたちの実際を表しているのか、検証する必要があります。
 また近年のメディア環境は、テレビだけではなく、スマホやタブレットによる動画視聴にも拡大し、大きく変化しています。公共メディアとしては、それらが子どもたちに与える影響を調査・分析し、良質な番組制作や、適切な届け方につなげていくことが重要だと考え、研究を進めようとしています。

 2歳児テレビ番組研究会(通称「2歳研」)立ち上げ時のメンバーで、『おかあさんといっしょ』番組制作の中心として長年プロデューサーを務めた近藤康弘さんは、インタビューで次のように答えています。(※1)
― いろんなものをリサーチするとか、そういう面白さを、もっと幼児番組には取り入れた方がいいなという気がしました。
  年間通してある水準に達するように、継続して経験を伝えると、当然マンネリになります。
  よほど周到な計画の下に新たなチャレンジをしていかないと。
  幼児番組はそれぞれ一生懸命に作っているのですが、みんなテイストが似てくる。
  引いた目で見たら、もっといろんなやり方があるだろう。
  こけてもいいから新しいほうに絶えず前向きに倒れたほうが、僕はいいような気がする。

 2歳研ができてから44年。研究者と一緒に番組を作るスタイルは珍しくなくなりましたが、多様な幼児番組が作られるようになった今こそ、"引いた目で"分析することの重要性が増してきたように思います。
 NHKにしかできない幼児番組とは何か、ニーズを把握し、それを実現していくにはどうすればいいか、これからも考えていきたいと思います。


◎こちらもぜひご覧ください
『いないいないばあっ!』のはじまり①  ~きっかけとなったテレビ研究~
『いないいないばあっ!』のはじまり②  ~どきどきあそび・擬音のうた~
 『いないいないばあっ!』が生まれるまで ~ワンワン誕生秘話~ | NHK文研


※1 「放送人の証言no.67」(2004.5) 放送人の会

【久保なおみ】
子ども番組が作りたくてNHKに入局。『いないいないばあっ!』『にほんごであそぼ』などを企画・制作。
2022年夏から現所属。月刊誌『放送研究と調査』や、ウェブサイトなどを担当。
好きな言葉は「みんなちがって みんないい」

☆こちらの記事もぜひお読みください
『にほんごであそぼ』コンサートのはじまり ~坂本龍一さんと作った福島コンサート~ #471 | NHK文研
  子ども向け造形番組の変遷~『NHK年鑑』からみた『できるかな』『つくってあそぼ』『ノージーのひらめき工房』~#485 | NHK文研

放送ヒストリー 2023年11月21日 (火)

『いないいないばあっ!』のはじまり② ~どきどきあそび・擬音のうた~#511

計画管理部 久保なおみ

 11月20日は「世界子どもの日」です。子どもたちの相互理解と福祉の向上を目的として、国連によって制定された日で、世界各地で子どもの権利や未来に関するイベントが開かれています。
 NHKでも11月13日から25日までの間を「スゴEフェス」と題して、さまざまな番組で「こどもたちのハートをうごかそう!」をテーマに発信しています。またNHKテレビ放送開始70年となった今年、放送博物館では、2024年1月28日までNHKキャラクター展を開催しています。
 その「スゴEフェス」とNHKキャラクター展の両方に参加している番組のひとつが、世界初の赤ちゃん番組である『いないいないばあっ!』です。前回のブログでは、具体的な制作のベースとなった研究をご紹介しました。番組開発プロジェクトでは、研究の成果を反映して、複数の短いコーナーから成る15分の試作番組を2本作りましたので、今回のブログでは1本目の試作の中心的なコーナーだった「どきどきあそび」と「擬音のうた」について、また次回のブログでは、2本目の試作で特に印象的だった「いないいないばあ」コーナーについて、みていきます。

dokidokiasobi1.png「どきどきあそび」 構成:きむらゆういち アニメーション:きらけいぞう


【0~2歳児の発達の特徴をふまえて~「どきどきあそび」~】
 『いないいないばあっ!』開発プロジェクトでは、「2歳児テレビ番組研究会」の成果をふまえ、そのメンバーで当時はお茶の水女子大学の発達心理学教授だった内田伸子先生や、国立小児病院の谷村雅子先生、さらに保育園や民間の託児施設などに、乳幼児の特徴を取材しました。そして、2分以内の複数のコーナーで構成することや、「感情・心・感性を揺り動かす」ことをねらいとするなど、方針を固めていきました。
 (詳しくは『いないいないばあっ!』のはじまり①をご覧ください)

 それらの取材結果やねらいをふまえて制作したコーナーのひとつが、「どきどきあそび」というアニメーションです。赤ちゃんの遊び絵本などを手がける絵本作家の、きむらゆういちさんの提案でした。「どきどきあそび」は、「追いかける・追いかけられる・つかまえる・つかまえられる・見つける・見つけられる」という"どきどき"を基本コンセプトにしていました。

〇0~2歳児の発達の特徴をふまえて「どきどきあそび」が工夫した点
・対象が多いと注視できないので、マンツーマンで直接話しかけた方がいい 
  → キャラクターが、テレビの前の子どもたちに呼びかけながらストーリーを展開していく
・繰り返し、反復することによって覚えていく
  → 「追いかける」「見つける」など、毎回ひとつの動作を繰り返して、展開を予想させる
・単色のやわらかな色づかい、単純な形の方が認識しやすい
  → キャラクターの造形を、〇△□をベースとしたものにする
・聞く力が弱く、BGMがあると、ことばをうまく聞き取れない
  → ことばと音楽とは重ねず、それぞれ単独で聞かせる
・カットの切り替えやズームは理解できず、別なものと認識してしまう
  → キャラクターの目線で、ワンカットで進行する

 そうして、見ている子どもたちにも、キャラクターと一緒に追いかけたり、追いかけられたりする感覚を体験してもらうことを目指しました。


【実現できるアニメーターを探して】
 当時はまだCGがあまり発達していなかったので、セルアニメでこのコンセプトを実現するのは、簡単なことではありませんでした。そこで、NHK内のアニメスタジオで撮影などを担当していた方に「番組が目指す世界観を実現してくれそうなアニメーターはいませんか」と尋ねたところ、きらけいぞうさんを紹介されました。きらさんは1968年からアニメーターとして活躍し、今もNHKや民放、CMの数々のアニメーションやキャラクターデザインを行っている方です。
 絵本作家のきむらさんと一緒にきらさんと初めて打ち合わせをしたとき、二人とも、とても驚いていました。なんと二人は、同じ大学・同じサークルの、先輩・後輩の間柄だったのです。そんなこともあって、きらさんはこの難題をおもしろがり、快く引き受けてくれることになりました。

 2分間、ワンカットのアニメーションをつくる。1秒間に何十枚もの動画を必要とするアニメーションでは、通常、動作のポイントとなる原画と、間をつなぐ動画の部分があり、それぞれ別の人が担当しますが、カットの切り替えもなく、キャラクターの目線で進行していく「どきどきあそび」では、ひとりの原画担当者が、すべて一筆書きのようにつなげていかなければなりませんでした。キャラクターの目線が変わっていく流れでも、背景+人物A+人物B+人物C...のように何層も重なる複雑な作画でも、何があってもワンカット。手書きの時代に、何百枚もの動画をつなげていくのは、とても大変な作業でした。そうしてできた試作「おどろかす」は、キャラクターがテレビの前の子どもたちに「しー」と話しかけながら、お友達の背後にそっと近づいていき、次々とおどろかしていく...という構成。最後は、おどろかそうと思った相手に逆におどろかされてしまう...という内容で、大人の私たちも"どきどき"してしまう、とてもすばらしい作品でした。

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【擬音のうた】
 『いないいないばあっ!』の歌を作る上でポイントとしたのは、"擬音をテーマにする"ことでした。1歳児の発達の特徴として、擬音が大好きな点が挙げられていたからです。
(詳しくは『いないいないばあっ!』のはじまり①をご覧ください)
 最初に作ったのは「それがママから聞いたこと」という歌でした(のちに「ママから聞いたこと」と改題)。作詞は三浦徳子さん。赤ちゃんがおなかの中で聞いていた、お母さんの鼓動をテーマにした歌でした。
 "擬音をテーマにする"というお題はなかなか難しく、何人かの作詞家から断られましたが、三浦徳子さんはおもしろがって、快く引き受けてくれました。

mamakarakiitakoto.PNG


【子どもたちの反応】
 1996年1月15日と16日に試作を放送したあと、番組開発プロジェクトでは、ふだんはテレビを見せていない園や、保育の中にテレビ番組を取り入れて放送教育を進めている園など、さまざまな園を訪れて、子どもたちが番組を見る様子を観察して、その効果を検証しました。
 当時、1月から2月にかけて保育園でメモした記録が残っています。

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代表的な園の反応を、比較のために他のコーナーも入れて、抜き出してみました。

231121monitor_bassui.jpg

 「どきどきあそび」では、0~2歳のどの年齢でも、どの園でも、子どもたちがじーっと注視して、次もおどろかすだろうと予測してにやっとしたり、登場人物と一緒に笑ったりする様子が多数みられました。まさに、ねらいどおりの反応でした。
 「擬音のうた」でも、体を揺すったり、ジャンプしたりしながら、子どもたちは全身で喜びを表現していました。

 三浦徳子さんは、その後も「チーしちゃおう」「ワンワンパラダイス」「カエデの木のうた」など、多くの『いないいないばあっ!』の代表曲を作詞しています。また、別の子ども向け番組『にほんごであそぼ』では、古語を取り入れた「TOBALI」や、「シェイクスピアのうた」など、奥深い詞で、子ども向けの歌の新境地を開拓しました(「亜伊林」名義で作詞)。
 今月6日に亡くなった三浦徳子さんのご冥福をお祈りするとともに、子どもたちのために作詞した歌が、これからも歌い継がれていくことを願っています。


◎次回は2本目の試作で特に印象的だった「いないいないばあ」というコーナーについて、ご紹介します。
 こちらもぜひご覧ください。
『いないいないばあっ!』のはじまり①  ~きっかけとなったテレビ研究~
『いないいないばあっ!』のはじまり③  ~いないいないばあ~
 『いないいないばあっ!』が生まれるまで ~ワンワン誕生秘話~ | NHK文研

【久保なおみ】
子ども番組が作りたくてNHKに入局。『いないいないばあっ!』『にほんごであそぼ』などを企画・制作。
2022年夏から現所属。月刊誌『放送研究と調査』や、ウェブサイトなどを担当。
好きな言葉は「みんなちがって みんないい」

☆こちらの記事もぜひお読みください
『にほんごであそぼ』コンサートのはじまり ~坂本龍一さんと作った福島コンサート~ #471 | NHK文研
  子ども向け造形番組の変遷~『NHK年鑑』からみた『できるかな』『つくってあそぼ』『ノージーのひらめき工房』~#485 | NHK文研

放送ヒストリー 2023年11月20日 (月)

『いないいないばあっ!』のはじまり① ~きっかけとなったテレビ研究~#510

計画管理部 久保なおみ

 「世界子どもの日(11月20日)」をご存じですか?子どもたちの相互理解と福祉の向上を目的として、国連によって制定された日で、世界各地で子どもの権利や未来に関するイベントが開かれています。
 NHKでも11月13日から25日までの間を「スゴEフェス」と題して、さまざまな番組で「こどもたちのハートをうごかそう!」をテーマに発信しています。またNHKテレビ放送開始70年となった今年、放送博物館では、2024年1月28日までNHKキャラクター展を開催しています。
 その「スゴEフェス」とNHKキャラクター展の両方に参加している番組のひとつが『いないいないばあっ!』です。1996年に、世界初の赤ちゃん向け番組として、放送を開始しました。0~2歳児が、かなり早い段階から日常的にテレビと接しているという研究報告を受けて、乳幼児に特化した良質な番組を作ろうと、開発に着手したのです。(詳しくはこちらのブログをご覧ください)※1
 私はディレクターとして『いないいないばあっ!』の開発を担当しましたので、今回は具体的な制作のベースとなった研究と、その成果を反映して作ったアニメーションなどについて、3回にわたってご紹介します。

inaiinaibaa_rogo.png初回放送時のロゴ

【2歳研とNHKの子ども番組~『おかあさんといっしょ』~】
 日本では1953年のテレビ放送開始時点から、テレビが子どもに及ぼす影響に対する社会的関心が高く、1950年代後半から60年代にかけて、NHK放送文化研究所、文部省、日本民間放送連盟などが、大規模な研究を実施しました。そして1970年代、80年代には、番組の内容分析研究、子どもの映像理解に関する研究など、多様な視点とアプローチによる「子どもとテレビ」研究が、多分野の研究者たちによって繰り広げられました。(※2)

 そんな中で、2歳児向け番組の開発をめざした「2歳児テレビ番組研究会」(以下「2歳研」)が発足しました。モデルになったのは、研究者と制作者が一体となって制作していたアメリカの幼児番組『セサミストリート』です。『セサミストリート』は1969年にアメリカで放送を開始した番組で、就学前教育を目的としたさまざまなコーナーがありました。当時の『おかあさんといっしょ』は制作者だけで番組を作っており、主に3歳児を対象としたコーナーで構成されていましたが、1978年に開かれた『セサミストリート』に関する国際会議をきっかけに、日本でも研究者と共同して2歳児向けのコーナーを開発してみよう、という機運が高まりました。そうして1979年4月に2歳研が誕生したのです。(※3)

 2歳研は、3種の専門家からなるチームで構成されていました。
①発達心理学者・教育心理学者
 …2歳児の生活実態・テレビ視聴の実態調査をもとに、教育目標・行動目標を作る
②メディア専門家(主としてNHKの幼児番組制作者)
 …2歳児に向いていると思われる番組を既存のものから選んだり、試作したりする
③教育工学専門家・文研の研究員
 …2歳児に視聴させて効果測定し、原理を導き出したり改善点を指摘したりする

 この3つのチームが協同して、教育目標の設定→コーナーの試作→幼児の視聴実験→分析結果の検討→コーナーの改善→放送、という流れで研究を積み重ねながら開発を進め、『おかあさんといっしょ』の「ハイ・ポーズ」「こんなこいるかな」などのコーナーを生み出しました。文研の研究員は、教育工学の専門家と協力して幼児の視聴実験を行い、その成果を番組制作に反映させました。(※4)


【『いないいないばあっ!』の開発】
 『いないいないばあっ!』を開発するにあたって、NHKの番組制作チームは、大学の発達心理学や乳幼児教育の研究者・絵本作家・造形作家・人形製作者・CG制作者・作家・アニメーター・デザイナー・シンガーソングライター・商品化担当者などで構成される「番組開発プロジェクト」を立ち上げました。
 このプロジェクトが動き出した1995年には、2歳研は既にその役割を終えていましたので、「テレビは幼児に何ができるか」という2歳研の中間報告を、番組開発に活用することにしました。

tvhayoujini.png そして、2歳研のメンバーで当時はお茶の水女子大学の発達心理学教授だった内田伸子先生や、国立小児病院の谷村雅子先生、さらに保育園や民間の託児施設などを取材した結果、2歳児とそれ以下の乳幼児とでは、発達の特徴が大きく異なることがわかり、『おかあさんといっしょ』がターゲットにしていた年層の子どもたちとは異なるアプローチで番組を制作する必要がでてきたのです。そこで番組開発プロジェクトでは、まず『いないいないばあっ!』がターゲットとする0~2歳児の特徴をまとめました。

〇取材の結果明らかになった、0~2歳児の発達の特徴
・生後12か月ごろから、ことばを聞き取るようになる
・けれども聞く力が弱く、BGMがあると、ことばをうまく聞き取れない
・対象が多いと注視できないので、マンツーマンで直接話しかけた方がいい
・カットの切り替えやズームは理解できず、別なものと認識してしまう
・集中して見るのは2分40秒が限界
・繰り返し、反復することによって覚えていく
・単色のやわらかな色づかい、単純な形の方が認識しやすい
・1歳児は擬音が大好き
・身の回りのものと接することによって、1歳2~3か月で「みたて」ができるようになる
・平面を立体的に見る力が弱いので、CGは素材感や質感を出さないと理解しにくい


【『いないいないばあっ!』がめざしたもの】
 『おかあさんといっしょ』は2歳以上を対象としていましたので、2歳研ではさまざまな「教育目標」を設定して、コーナー開発に取り入れていました。
 けれども乳幼児の母親を対象とした市場調査では、2歳未満では「知育」よりも「情操」を望む声が多かったため、0~2歳児を対象とした『いないいないばあっ!』開発プロジェクトとしては、教育的な目標を設定する前の段階として、まずは「子どもたちの感情・心・感性を揺り動かす」ことが重要なのではないか、という結論に達しました。
 幼児教育の専門家によると、幼い時に心をたくさん動かした子どもたちは、心が豊かに発達するのだそうです。運動能力を高めるためには、体を動かす練習が有効なように、感受性を高めるためには、心を動かす練習が有効であるとの見解を示していました。
 そこで開発プロジェクトでは、テレビだけで全て完結するわけではなく、親や友達など周囲の人たちと豊かに関わることによって、たくさん心を動かすことができるよう、そのきっかけとなる番組作りをめざしました。

 くしくも、今年の「スゴEフェス」のテーマは「ハートをうごかそう!」です。28年たった今も、子どもたちへの願いは変わりません。


【試作番組の制作】
 以上のような研究をふまえて、『いないいないばあっ!』開発プロジェクトでは、複数の2分以内のコーナーで構成するセグメント形式の15分番組とすることなど、番組全体の方向性を定めました。そして、個々のコーナーで研究成果を具体化すべく、2本の試作番組を作ることにしました。
 次回のブログでは、以下のように、試作番組で制作した特徴的なコーナーができるまでを紹介します。


『いないいないばあっ!』のはじまり②  ~どきどきあそび・擬音のうた~
『いないいないばあっ!』のはじまり③  ~いないいないばあ~


※1 『いないいないばあっ!』が生まれるまで ~ワンワン誕生秘話~ | NHK文研

※2 子どもとテレビ研究・50年の軌跡と考察|NHK放送文化研究所

※3 白井常・坂元昂 編「テレビは幼児に何ができるか 新しい幼児番組の開発」(1982)
  日本放送教育協会

※4 秋山隆志郎・小平さち子『おかあさんといっしょ』と幼児の視聴行動 『放送研究と調査』(1987.8)

【久保なおみ】
子ども番組が作りたくてNHKに入局。『いないいないばあっ!』『にほんごであそぼ』などを企画・制作。
2022年夏から現所属。月刊誌『放送研究と調査』や、ウェブサイトなどを担当。
好きな言葉は「みんなちがって みんないい」

☆こちらの記事もぜひお読みください
『にほんごであそぼ』コンサートのはじまり ~坂本龍一さんと作った福島コンサート~ #471 | NHK文研
  子ども向け造形番組の変遷~『NHK年鑑』からみた『できるかな』『つくってあそぼ』『ノージーのひらめき工房』~#485 | NHK文研

メディアの動き 2023年03月27日 (月)

#467 平成の放送制度改革を振り返る

 メディア研究部(メディア史研究)村上聖一

  平成(1989年~2019年)の約30年間、インターネットが普及し、放送と通信の融合が進展していく中で、放送制度にも大きな見直しが迫られました。この間、制度改革をめぐってどのような議論が行われ、どのような結論に至ったかについては、『放送研究と調査』で2回にわたってまとめましたので、以下より、ぜひお読みいただければと思います。ここでは、簡単にその内容をご紹介します。

▶ 『放送研究と調査』2023年1月号
  平成の放送制度改革を振り返る(1)放送・通信融合と法体系見直し

▶ 『放送研究と調査』2023年2月号
  平成の放送制度改革を振り返る(2)番組規律をめぐる議論

  従来の制度で問題になったのは、放送と通信が融合する中で、テレビや電話といった業態別の縦割りの法体系では、新たなサービスの創出に支障があるのではないか、という点でした。これについては、2000年代に入り、官邸主導の政策形成が進む中、総務省や放送事業者に加えて、IT戦略本部といった新たなアクター(行為主体)が政策形成に参入しました。そして、以下の図にあるように、縦割りの法体系からレイヤー型(横割り型)の法体系に転換し、規制の緩和を図るべきといった改革案が浮上しました。

2001年の法体系見直しのアイデア
kiseikaikaku.jpg(IT戦略本部IT関連規制改革専門調査会資料)

  これに対して、以下の図は、2010年に実現した放送・通信関連法の再編後の法体系です。この図を見ると、新たなアイデアが採用され、レイヤー型の法体系に移行したと言うことはできるでしょう。一方で、先のアイデアが提示されてから実際の法改正に至るまでに、10年近くの期間がかかったこともわかります。また、図からは読み取れませんが、改正内容を詳しく見ますと、放送での完全なハード・ソフト分離といった改革は見送られ、規制の見直しを含め、法改正は、既存の放送事業者の経営に大きな影響を及ぼさないものとなりました

2010年の放送・通信関連法の再編
soumusho.png(平成27年版情報通信白書)

  改革の中身が変化していった背景には、制度を抜本的に見直すアイデアは新たなアクターによって打ち出されたものの、それが具体化される段階で、所管官庁(総務省)や放送事業者といった従来の政策共同体が大きな影響力を持ったという点があります。そして、そうした政策共同体を中心に検討が進む中で、改正内容が次第に漸進的なものになっていった面があります。

  さらに、平成期の制度改革をめぐって指摘できる問題はこれだけではありません。放送制度の見直しでは、法体系の再編に加えて、メディアが多様化する中でのコンテンツ規律(番組規律)の見直しも重要な課題になりますが、制度の見直しにあたっては、その2つが切り分けられ、異なるアクターによって別々に議論されたということも指摘することができます。そして、コンテンツ規律をめぐる議論は、放送・通信融合への対応というよりも、番組をめぐる個別の問題が発端になって起きることが多く見られました

  例えば、1997年放送法改正でなされた番組審議機関の機能強化では、それに先立って起きた番組をめぐるさまざまな不祥事が存在していました。また、2010年の法体系の再編の際には、通販番組を含め、放送番組の種別の公表を義務づける規制強化がなされましたが、これもその直前の通販番組に対する批判がきっかけでした。

  しかし、放送制度の目的が、究極的には、「放送による表現の自由の確保」や「健全な民主主義の発達」(放送法1条)にあることを考えれば、法体系の見直しにしても、番組規律の見直しにしても、そうした目的を踏まえた上で、双方をどのように組み合わせれば政策目標の達成につながるのか、といった観点からの議論がより求められていたのではないかと指摘することができます。

  放送制度は、令和に入ってからも見直しが続いています。そこでは、近年の情報空間の変容を踏まえた上で、放送政策の目標を改めて確認し、制度のあり方を体系的・総合的に検討していくことが求められていると思います。

 

放送ヒストリー 2023年03月22日 (水)

#465 『いないいないばあっ!』が生まれるまで ~ワンワン誕生秘話~

計画 久保なおみ

 Eテレで放送中の『いないいないばあっ!』は、0~2歳の乳幼児を対象にした番組で、今年の4月に放送開始から28年目を迎えます。私は1995年の番組立ち上げ時にディレクターとして関わりましたので、今回は『いないいないばあっ!』が生まれた経緯について、書いてみたいと思います。
 この番組を提案した時は、『いないいないばあっ!』という番組名も、主要なキャラクターの「ワンワン」という名前も、編成から工夫がないと言われ、なかなか決まりませんでした。けれども、0~2歳児に身近で、自然と覚えられる言葉を使いたいという思いは強く、提案に書いた番組名とキャラクター名を最終的に残したまま、制作に入りました。

いないいないばあっ!

 『いないいないばあっ!』という番組が誕生したきっかけとなったのは、1989年に発行された「テレビがある時代の赤ちゃん」という研究報告でした。この研究報告は、テレビと赤ちゃんとのかかわりについて書かれたもので、国立小児病院長だった小林登氏が代表を務め、産婦人科医や小児科医、大学の研究者、NHKのプロデューサー、放送技術研究所・放送文化研究所の研究員などが共同研究を行い、その成果を報告していました。

テレビがある時代の赤ちゃん

 この報告書の存在を教えてくれたのは、当時私が所属していた『天才てれびくん』班の中村哲志プロデューサーでした。子ども番組が作りたくて NHK に入局して4年目。200人いたディレクターの中で、ただ一人子ども番組の制作を希望した私は、念願の幼児班に配属されたものの、体調を崩して『天才てれびくん』班に移されていました。そんな私に「世界初の赤ちゃん向け番組を作ってみないか」と、この報告書を渡してくださったのです。

 報告は、以下のような内容で構成されていました。

  • 映像、音の胎児の行動に及ぼす影響について
  • 映像と音声の母児に対する影響に関する研究
  • 胎児の音声発達
  • 映像と音声に対する乳児の反応行動の発達に関する研究
  • P300 (事象関連電位) を用いての乳児の認知の評価(注1)
  • 乳児の視覚機能の発達に対するテレビの影響
  • テレビと聴覚障害
  • テレビをめぐる赤ちゃんと家族の育ちあい ―生活記録事例を通して
  • 0~2歳児の対テレビ行動
  • テレビがある時代の赤ちゃん -集団調査
  • 低年齢乳幼児のテレビ視聴行動 ―行動観察
  • 乳幼児テレビ視聴行動観察のためのプレイルーム音響条件
  • 視覚・聴覚障害児のテレビ視聴行動の研究

 私たち制作者が注目したのは、0~2歳児がいる部屋のおよそ7割にテレビが置いてあり、かなり早い時期から日常的にテレビと接している、という事実でした。NHKの幼児向け番組の先駆けで、2~4歳児を対象にした『おかあさんといっしょ』では、1979年に「2歳児テレビ番組研究会」を発足させ、2歳児を対象としたコーナーの開発を行っていましたが、2歳未満では、月齢によって発達や認知の度合いが大きく異なります。当時、テレビが乳幼児に与える悪影響についても論じられはじめていたので、月齢ごとの発達段階を研究した上で、乳幼児に特化した良質な番組を作ることが急務であると思われました。

 イギリスの公共放送BBCにも『テレタビーズ』という乳幼児向け番組がありますが、放送開始は1997年ですので、『いないいないばあっ!』提案時には、まだ世界に0~2歳児を対象にした番組はありませんでした。そこで私たち制作者は、小児科医など専門家への取材や、保育の現場取材などを重ねつつ、大学の研究者・絵本作家・造形作家・人形製作者・CG制作者・作家・アニメーター・デザイナー・シンガーソングライター・商品化担当者などで構成される「番組開発プロジェクト」を立ち上げました。多方面で活躍される方々を一堂に集めてディスカッションすることにより、今までにない全く新しい番組を開発することを目指したのです。

 番組を試作するにあたって大切にしたのは、以下のような点でした。

  • 子どもの感情、心、感性を揺り動かす。
  • 参加感を得られるよう、テレビの前の子どもに直接はたらきかける。
  • 伝えたい言葉にBGMは重ねず、本物の楽器の生の音を大切にする。
  • 親子のコミュニケーションのきっかけとなることを目指す。
  • 大人のバラエティーの子ども化ではなく、子どもの世界の原点に面白さをみつける。
  • 何かを学ばせるのではなく、「こんなこともできるよ!」という視点を大切に。
  • 生活習慣が自然と身につくよう、専門的な知識に裏付けされたコーナーを作る。
  • カメラも子どもと同じ目の高さで。子どものいい表情を撮ることに命を懸ける。
  • どこまでもシンプルに。
  • 子どもは常に変化していくので、リサーチを繰り返す。

 また、0~2歳児は年齢が近い子どもに関心があるという報告もありましたので、スタジオには1歳半の子どもたちを出したいと考えました。しかしながら『おかあさんといっしょ』に出演している一般公募の3歳児でも、一定数は親から離れられずに泣いてしまいます。1歳半の子どもたちを一般公募した場合、せっかく抽選に当たっても、多くの子どもたちがカメラの前に出て来られない状況になることが予想されました。そのためスタジオの子どもたちは一般公募ではなく、オーディションで選ぶことにしました。こうして選ばれた初代のレギュラー出演者の中には、その後『ひとりでできるもん!』で3代目まいちゃんとなった伊倉愛美さんもいました。

 進行役も、ターゲットの子どもたちにより年齢が近い、小学生にしたいと考えました。コントロールのきかない1歳半の子どもたちと共演するのは、かなり至難の業だと思われましたので、当時の『天才てれびくん』のレギュラー出演者で、柔軟な対応力をみせていた「かなちゃん」こと田原加奈子さんに、出演を依頼しました。『天才てれびくん』からの卒業が決まっていた「かなちゃん」は、「できるかわからないけど、やってみる!」と、快く引き受けてくれました。

試作時の田原加奈子さんとワンワン (試作版の 田原加奈子さんとワンワン)

 スタジオで子どもたちと遊ぶ犬のキャラクター「ワンワン」も、予測不可能な動きをする1歳半の子どもたちに、臨機応変に対応しなければなりません。当時日本では、操演と声は別々の人が担当することが一般的でしたが、『セサミ・ストリート』のドキュメンタリーを観て、キャラクターの中に俳優さんが入って演じるスタイルを知りました。そこで、キャラクターの中で声も演じられる人を探していたところ、小学3年生向けの社会科番組『たんけんぼくのまち』に出演していたチョー(当時は長島雄一)さんを紹介されました。チョーさんにお会いした時、「え!?僕が(着ぐるみの)中に入るんですか?」と、とても驚かれましたが、二つ返事で承諾してくださいました。当時既にベテランだったチョーさんが、以来28年という長きにわたってワンワンを演じてくださっていることに、とても感謝しています。チョーさんは、操演のプロではないことに悩んだ時期もあったそうですが、人間くさくていいと割り切ったことで楽になり、「ワンワン」独自のスタイルにつながったと、後に話してくださいました。

本放送版のかなちゃんとワンワン (本放送版の かなちゃんとワンワン)

 星の子の「ペンタ」も、『いないいないばあっ!』初代キャラクターのひとりです。赤ちゃんは「ぱぴぷぺぽ」の破裂音が好きだという調査結果を受けて、名付けました。試作では古典芸能の文楽のように、操演者が顔を出して人形を操作する方法も試してみましたが、人形を動かしている人から声が出ているという状況が、幼い子どもたちには難解であることが分かり、本放送時には、キャラクターだけが見えるスタイルに落ち着きました。2代目がふわふわの雲の子「くぅ」(途中から「ダーダ」も)で、3代目が現在の「うーたん」です。「うーたん」は4月からステージショー『ワンワンわんだーらんど』への出演となり、『いないいないばあっ!』には新キャラクター「ぽぅぽ」が仲間入りします。

(ペンタ 試作版) (試作版の ペンタ)

 もし1995年に体調を崩していなかったら、『天才てれびくん』の班にはおらず、「テレビがある時代の赤ちゃん」という研究報告を読むこともなかったかもしれません。かなちゃんやチョーさんとの出会いを含め、ほんとうに幸運な偶然であったように思います。
 『いないいないばあっ!』は2本の試作番組を経て、1996年4月にBS2での放送を開始しました。放送開始から28年。当時番組を観ていた子どもたちが親となり、自分の子どもと一緒に観てくれている人もいます。こんなに長く楽しんでいただけるなんて、最初に作った時は思ってもみませんでした。これからもずっと愛される番組であることを願っています。

【参考記事】
子どもとテレビ研究・50年の軌跡と考察|NHK放送文化研究所

注1:P300 (事象関連電位)とは、知覚や認知処理に関連して発生する脳波のこと。
放送ヒストリー 2023年02月09日 (木)

#451長寿番組「名曲アルバム」制作の舞台裏

メディア研究部(番組研究) 河口眞朱美

モーツァルト「交響曲第38番

 今月、テレビは放送開始70年を迎えた。その中で、長い歴史を刻んでいる番組の一つが「名曲アルバム」である。放送開始は1976年、3年後には50周年を迎えるNHKの長寿番組である。5分という短い時間に、クラシックを中心とする音楽のエッセンスが詰め込まれ、作品に縁のある映像と曲にまつわるエピソードを紹介、通算およそ1300作品が放送されてきた。筆者も、当番組の制作に携わる機会を得、1999年秋にヨーロッパでロケを行い、他の業務と並行しながら6年かけて14曲完成させた経験がある。この番組の映像が資料映像と思われる向きもあるが、毎回、音楽の名所を訪ねている。筆者は、ハイビジョン放送開始の折にまとめられた「名曲100選」シリーズを中心に、サン・サーンスの「白鳥」やクライスラーの「愛の悲しみ」、バッハの「G線上のアリア」など、クラシックの名曲中の名曲を選曲、5か国でロケした。

エイク『笛の楽園』から「涙のパヴァーヌ」エイク『笛の楽園』から「涙のパヴァーヌ」

チャイコフスキー『四季』から「炉辺にて」「トロイカ」チャイコフスキー『四季』から「炉辺にて」「トロイカ」

 5分という時間が、聞き手にとって聞きやすいのか、この番組コンテンツは、CDブックでの売り上げも細く長く続く隠れたベストセラーである。放送も、フィルムからデジタル、ハイビジョン、そして4K・8Kとメディアが変わるたびに撮り方にもひと工夫加えながら、長年にわたって視聴者に届けられてきている。
 「名曲って何でも5分なんですか?」と真顔で尋ねられたこともあるが、むろん、選ばれた名曲は、1分にも満たない旋律から、優に1時間を超える交響曲なども対象になっている。ディレクターと編曲者とで知恵を出し合いながら、番組オリジナルになる方向性を決め、最終的には指揮者や演奏者との録音の場で、まとめられる。

シューベルト「未完成交響曲」

 例えば、1分に満たないものは、楽器編成を魅力的なものに変えて変奏曲にしたり、場合によっては、関連のある別作品と合わせ技でメドレーにするなど、工夫を凝らしている。大曲であれば、どの部分を引用するかによって、まるで違う作品になり得るわけだが、ベートーベンの第5交響曲「運命」であれば、冒頭の"ジャジャジャジャーン"であり、第9交響曲であれば、最終楽章の合唱付き部分と、より多くの人が聞いたことがあるであろう部分を取り上げることになる。そのエッセンスを中心にしつつ、他の要素も5分に織り込んで楽しめる作品に仕上げている。

ヨハン・シュトラウス「皇帝円舞曲」ヨハン・シュトラウス「皇帝円舞曲」

グリーグ『ペール・ギュント』から「ハリング舞曲」グリーグ『ペール・ギュント』から「ハリング舞曲」

 5分に仕上げる苦労といえば、録音の際の演奏者の苦労は半端ではない。音の放送尺としては、冒頭と最後の余韻を計算すると4分48~53秒くらいが適当な尺になるため、せっかく良い演奏をしても、この目安より長すぎたり短すぎたり、というだけでボツになってしまう。ふだんは時間など気にしない指揮者でも、ストップウォッチ片手にオーケストラに指示を出す。1曲1時間程度の収録時間だが、再生して確認する時間もあるため、結構、時間がかかる。一発でうまく収まれば、拍手喝さいで気持ちよく終わることができるのだが、なかなかそうはいかないのが収録の現場だ。

アリ・バローゾ「ブラジルの水彩画」アリ・バローゾ「ブラジルの水彩画」

 THE名曲を取り上げている「名曲アルバム」だが、むろん、隠れた名曲を紹介することもこの番組の目的の一つなので、CMソングなど、時代の空気を反映して耳にすることが増えた名曲は、その時々で紹介してきており、こんな例もある。1954年に亡くなったメキシコの作曲家バルセラータの「エル・カスカベル」は、このタイトルだけではピンとこないが、作品を聴くと多くの人が思い出すドラマがある。民放のドラマ「踊る大捜査線」、このドラマのテーマ曲冒頭が、エル・カスカベルを思い起こさせるのだ。作曲・編曲家の仕事は、デザインのパタンナーによく似ている、とある作曲家から聞いたことがあるが、記憶の集積が創造の源でもある音楽の世界では、こうしたことは決して少なくない。珍しい例ではあるが、日本では無名だったメキシコの作曲家バルセラータの名が知られるきっかけとなった。名曲アルバムならではのエピソードでもある。

放送ヒストリー 2022年12月08日 (木)

#433 戦後のNHKと児童文学作家・筒井敬介 その3 ~「初期『おかあさんといっしょ』失われた映像を探る」に関連して~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎

 児童文学作家の筒井敬介さんとNHKのかかわりについて2回にわたって紹介してきました。11月号の調査研究ノートで触れたように、これまでは主に『おかあさんといっしょ』を始めとする、幼児向け番組に焦点を当ててきましたが、筒井さんが手掛けたのは子ども向けの仕事だけではありません。
 今回は、筒井さんのご自宅に残されていた資料とNHKアーカイブスに保管される2本のラジオ番組を通して、筒井さんの幅広い仕事の一端とその原点を振り返ります。

(*本ブログに掲載される写真のコピーは禁止されています。)

社会問題へのまなざし

NHK新聞 (小西理加氏 所蔵)

 写真は、放送の普及促進を図るため1957年に発行された「NHK新聞」で、第12回芸術祭出品ドラマを手がけた作家を紹介する記事です。筒井さんの作品は『名づけてサクラ』というタイトルのラジオドラマで、同年10月25日に放送され、作品奨励賞を受賞しました。
 芸術祭への出品は、ラジオにしても、テレビにしても、歴史の浅い放送が社会的に評価されるために重要な意味を持っていました。(記事で紹介されている作家の中には、筒井さんのほかに有吉佐和子さんや木下順二さんの名前も見られます。)
 『名づけてサクラ』は筒井さんのオリジナル脚本で、戦後間もないころに進駐軍との間に生まれた、いわゆる「GIベビー」をテーマにしています。
 主人公サクラは黒人兵と日本人女性の間に生まれた女の子です。養護施設で育てられていましたが、養子縁組でアメリカに送られてしまいます。しかし、アメリカでの辛い生活に耐えきれず実の母親を探しに密航してくるという物語です。
 放送から30年後の1987年、『名づけてサクラ』は再放送されていますが、この再放送では筒井さんをスタジオに招いて当時の様子をインタビューするパートが追加収録されており、脚本執筆のきっかけや作品を仕上げるために重ねた取材のエピソードが語られています。(一部、現在では使用することが不適切とされる表現が用いられていますが、放送当時の価値観を伝える必要があると考えそのまま表記しています。)

――きっかけになったのは養子縁組です。 混血児の養子縁組ということが大変ジャーナリズムをにぎわしたし、いろんなことがありましたね。それに対する私の非常に不満があるわけですよね。/非常に混血児がひどく扱われて、色目で見られて、それをアメリカ養子縁組させたということが、じゃあそれから先どうするんだと。それはまるで棄民政策*注じゃないかと。捨て子と同じじゃないかと。/一体向こうに行った子どもたちはどうなっているんだと。そしたらもう一言「労働力だよ。労働力しかないんだよ」と、向こうがもらってくれるっていうのは。/それから婦人科の医者の話が出てきますね。本当に赤ん坊を産む時に、母親が知らないでいて、出てきたのが混血児だったという事例はね、僕は実際に集めたんです。こういうことがあったんです。それからやっぱり横須賀と横浜、下士官住宅ですね、昔の。つまり海岸の兵隊の下士官が表で生活しているわけですよね、奥様と一緒に。その住宅が全部、その当時で言えばオンリーさんというような人たちに占領されているようなところも取材に行ったですね。

 当時すでに子ども向けの作家のイメージが強かった筒井さんが、このように社会的なメッセージのある作品を書いたのは、戦時中に強いられた体験の反動によるものだと言います。

――僕がこれを書いたのは、40になってきっちりぐらいの時に書いたんだけれども、暗い、暗い青春ですね。ぼくらの青春ってのは本当に戦争だったから、押しつぶされていた青春がちょうど35から40ぐらいでやっと出てきているんですよね。そういう何か、素材とか世の中に対して何かぶつかっていこうっていうね、そういう熱がやっぱり(番組を)聞くとありますね。自分のことながらそれがありますね。

子どもも大人も区別しない

 『名づけてサクラ』のような重たいメッセージのあるドラマと、『おかあさんといっしょ』のような幼児向け番組の間には大きなギャップがあるように感じられます。筒井さんはどのような思いでこれらの仕事に向き合っていたのでしょうか。『名づけてサクラ』の再放送から7年後、1994年に放送された『わが故郷わが青春』というラジオ番組に筒井さんは出演し、生まれ育った東京・神田の町の思い出に触れながら、自らの原点について次のように話しています。

――つまり人の言うことを聞かないっていう事ですよ。非常に人の言うことをよく聞くね、惣領とかですね、それからお店の若旦那とか言うのもいますよね。 落語にも出てきたりなんかするような。僕はね、何しろね、逆のことばっかりやってね、しょうがない人間だったんですね。/江戸には、お上に対して「お上はえらいものだ」とお上にすり寄っていく人間と、それから「何が何でもお上にはおれは頭下げないぞ」という、その2つじゃないだろうけれども、僕はやっぱりお上が嫌いだったですね。

 さらに自らの作品について以下のように述べています。

――ユートピアがあるってことは非常にはっきりしているんですよね。 つまり、自分はこういう具合のところで、こういう具合に生きていきたいというイメージがはっきりしている。/だから僕の頭の中にはね、子どもも大人もなかったんですよ。 子どもも大人もなくて、楽しいものを書こう。自分のイメージをうんと広げよう。広がりゃしなかったですけどね、この年になるまで。しかし広げようという気持ちを持ちえたんですね。

 子どもも大人も区別することなく書かれた筒井さんの作品からは、生きることさえままならない時代を体験したからこそ「伝えたい」という強い思いが感じられます。先人たちがかつて体験したものとはまるで異なるものの、しかし同じように生きることが困難な今だからこそ、筒井さんの作品を読みとき、そこから学ぶことがあるように思えるのです。

筒井敬介さん 筒井敬介さん

*筒井さんが当時の養子縁組を「棄民政策」と批判した背景には、敗戦直前に北海道の開拓事業に志願した自身の体験があります。アジア・太平洋戦争末期の昭和20年3月、「本土空襲激化に伴う大災の罹災者の疎開強化」の方針が閣議決定され、戦災者の生活安定と食料の増産などを図るため、北海道は主要な集団帰農の受け入れ先として指定されました。しかし開墾する土地が少なく、参加者が農業未経験、さらに農業資材が皆無に近い状態だったことなどから営農は不可能に近かったといいます。
 筒井さんは先述の『名づけてサクラ』再放送のインタビューで次のように語っています。「なぜ北海道の移民になって行ったかっていうと、東京都に食料が入らなくなって、いつ暴動が起きるか分かんないから、民衆を北海道に捨てなきゃならないわけですよね。棄民政策ですよ。そういうものなんですよね。」政府によって切り捨てられた当事者としての意識が、筒井さんに『名づけてサクラ』を書かせたのかもしれません。

放送ヒストリー 2022年12月07日 (水)

#432 戦後のNHKと児童文学作家・筒井敬介 その2 ~「初期『おかあさんといっしょ』失われた映像を探る」に関連して~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎

 「放送研究と調査」11月号で、児童文学作家の筒井敬介さん(1917~2005)とグラフィックデザイナーで絵本作家の堀内誠一さん(1932~1987)が初期の『おかあさんといっしょ』に関わり、番組から『あかいかさがおちていた』(1965)という1冊の絵本が生み出されたことを紹介しました。実はお二人にはもう一つ共作した絵本があり、この作品も『おかあさんといっしょ』の中で番組化されていました。『かわいい とのさま』という作品です。

(*本ブログに掲載される写真のコピーは禁止されています。)

絵本版『かわいい とのさま』

 『かわいい とのさま』は1970~1971年に12回にわたって月刊誌「ワンダーブック」に発表されました(2013年に小峰書店から単行本化)。絵本『あかいかさがおちていた』が『おかあさんといっしょ』から生み出されたのとは逆で、『かわいい とのさま』は紙媒体の方が先に発表され、後にテレビ化されています。まず絵本の『かわいい とのさま』がどんな内容なのか見てみます。
 主人公のとのさまはいばりん坊でわがままなくせに泣き虫の男の子です。パパやママはおらず、なぜかお堀に住むカワウソが人に化けてばあやの役をしています。月刊誌に毎月連載されていたということもあって、ひな祭りや花火、お正月など折々の季節の行事を交えつつ、1年間を通してとのさまの成長物語を描いています。1話が見開き8ページと限られた紙面の中で、奇想天外だったり、時にはほろりとしたりする物語が展開され、堀内誠一さんの絵もほかではなかなか見られない大胆で漫画風なタッチで描かれています。

『かわいい とのさま』筒井敬介・作 堀内誠一・絵(小峰書店) 『かわいい とのさま』筒井敬介・作 堀内誠一・絵(小峰書店)

テレビ版「かわいいとのさま」

 一方、テレビ版の「かわいい とのさま」が放送されたのは1970年10月。水曜日の『おかあさんといっしょ』のコーナー「らっぽんぽん」の中のお話として、4回にわたって紹介されました。(1970年代中盤まで『おかあさんといっしょ』の内容は曜日ごとに違っていました。)

「らっぽんぽん」旗照夫、真理ヨシコ 「らっぽんぽん」旗照夫、真理ヨシコ

 「らっぽんぽん」は初代・うたのおねえさんの真理ヨシコさんとジャズシンガーの旗照夫さんが出演したコーナーですが、残念ながら映像は残っていません。台本を確認すると、スタジオをベースに人形劇や影絵などさまざまな手法を取り入れ、時には歌を交えながら、毎回さまざまな物語を紹介するという内容だったようです。細かい点で違いはあるものの、テレビ版も基本的には絵本版と同じ登場人物で、物語の要素も共通していました。
 台本のスタッフ表示には、人形美術として川本喜八郎(連続人形劇『平家物語』、人形アニメーション『死者の書』など)、小道具などの制作として加藤晃、毛利厚(『みんなのうた』の「トレロ・カモミロ」のアニメーション制作など)、振付に高見映(『できるかな』のノッポさん)など、当時ほかの幼児・子ども向け番組にも関わっていた外部クリエーターたちの名前がありました。

「かわいい とのさま」台本 「かわいい とのさま」台本(小西理加氏 所蔵)

"かわいくない"とのさま

 それにしても「わがままでいばりん坊の泣き虫」を「かわいい」と思えるでしょうか。ちっとも「かわいくない」と思うのが自然な気がします。筒井さんはどうして真逆のタイトルをつけたのでしょうか。
 『かわいい とのさま』が作られた1970年、大阪では「人類の進歩と調和」をテーマにした日本万国博覧会が開催され、日本は戦後の混乱期を乗り越え高度経済成長を果たした姿を世界にアピールしました。一方、1969年には全国の"カギっ子"が483万人に上るなど、子どもをめぐる状況もそれまでと大きく変わりつつありました。
 「かわいい とのさま」の設定は、従来とは異なる環境で育つことを余儀なくされた当時の「現代っ子」のイメージに重なるように思えます。同時に、いつの頃からか「子どもはかわいいもの」と一方的にひ護の対象とみなすようになった風潮を、反語的に「かわいい」という言葉を用いることで皮肉っているようにも読み取れます。
 筒井さんが自らの子ども観について書いた原稿が残されていました。そこには筒井さんが子どもをどのような存在としてとらえていたのかが書かれています。

――いってみれば子どもを、生物的に未発達なとか、未熟なとか考えては、作家の想像力は刺激されないのである。一人の人間として、あらゆる感性を備えた不思議な好奇心をわき立たせる人間として扱っているのです。誤解を恐れずにいえば、子どもにこれから何をおっぱじめるのか分からない怪物としての位置を与えなければ、作家は興味をもち得ないのです。

 子どもは常に社会の変化から影響を受け、大人のまなざしから無縁でいられないという点で受け身の存在です。しかし変わるのは大人の社会や価値観であって、子どものありよう自体はいつだって同じ「何をおっぱじめるのか分からない怪物」なのです。子どもは飼いならすものでも、管理するものでも、ましてや「かわいい」だけの存在でもないことを、『かわいいとのさま』を通じて筒井さんは伝えている気がします。

*3回目は12月8日(木)に掲載予定です。

放送ヒストリー 2022年12月06日 (火)

#431 戦後のNHKと児童文学作家・筒井敬介 その1 ~「初期『おかあさんといっしょ』失われた映像を探る」に関連して~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎

 「放送研究と調査」11月号では、『ぐるんぱのようちえん』などで知られるグラフィックデザイナーで絵本作家の堀内誠一さん(1932~1987)と児童文学作家の筒井敬介さん(1917~2005)が関わった初期の『おかあさんといっしょ』のコーナー「こんな絵もらった」について調査研究ノートとしてまとめました。ここでは、11月号で十分触れることができなかった筒井敬介さんとNHKとのかかわりについて、3回に分けて紹介します。

(*本ブログに掲載される写真のコピーは禁止されています。)

「字の書いてあるものを捨ててはいけない」

筒井敬介さん 筒井敬介さん

 筒井敬介さんは1948年から1966年まで18年間、NHKの契約作家として、『おかあさんといっしょ』以外にも、幼児向けラジオ番組『お話出てこい』や連続テレビドラマ『バス通り裏』など数多くの放送台本を手がけ、また児童文学作家、戯曲家としても幅広く活動しました。当時のラジオやテレビに接した世代にはよく知られた存在で、戦後の放送文化や児童文化の発展に貢献した作家の一人です。
 長女・小西理加さんによると、「字の書いてあるものを捨ててはいけない」が筒井さんの信条でした。自分が関わった番組台本や原稿だけでなく、台本を入れた封筒や卓上のメモ帳なども筒井さんは捨てずに残しており、ご家族はその整理と管理に大変な苦労をされたといいます。今回、初期『おかあさんといっしょ』の内容を検証できたのもご自宅に台本が保管されていたおかげです。
 筒井さんが戦後NHKの契約作家になり、「字の書いてあるものを捨ててはいけない」という信条を持つに至った背景には、当時の時代状況が深くかかわっているように思えます。

戦争の時代に生まれて

 第一次世界大戦が終わる前年の1917年、筒井さんは東京・神田に生まれました。十代の頃から文学書を読んだり、親に隠れて映画を見たりする中で、次第に物書きを志すようになったといいます。日中戦争が始まった1937年、大学生だった筒井さんは劇団東童の文芸演出部に入団、脚色・演出を担当するようになります。太平洋戦争が始まった1941年には、徴兵検査に合格、翌年、近衛兵として入隊しますが、病気のためまもなく除隊。1945年の東京大空襲では自宅を失い、食糧難から一時期北海道に開拓民として入植したものの5か月ほどで帰郷。その後は人民新聞に記者として勤めながら作品執筆を行うなど、日々の暮らしと作家活動を成り立たせるために苦しい時期が続きました。(このころ、「原爆の図」で知られる画家の丸木位里・俊夫妻や、黒澤明監督のスクリプターとして活躍した野上照代、画家・絵本作家のいわさきちひろとも交流があり、いわさきちひろとは1969年に絵本「ふたりのぶとうかい」を共作しています。)
 そんな折、1947年に知り合いから勧められNHKの契約作家になったのです。放送を通じて自分が書いた文章によって生計が立てられるようになったことは、三十路を迎えた筒井さんにとって大きな変化をもたらす出来事だったに違いありません。

残された資料から

 筒井さんの資料には、戦後まもない時期のNHKやラジオ放送の実態を伺うことができる資料が数多く残されています。ご遺族に許可をいただいていくつか紹介させていただきます。

講習会のテキスト 講習会のテキスト(小西理加氏 所蔵)

 この写真は、筒井さんが契約作家になるに当たって、NHKで行われた「放送台本の書き方の講習会」で使用されたテキストです。英語交じりの文章で、音楽や音響効果の用語の解説や具体例が書かれてあります。戦後の日本を民主化するために、ラジオが重要な役割を果たすと考えられた時代、放送台本を執筆する人材を育成するために、このようなテキストが作られていたのです。

ラジオ「幼児の時間」台本(1951年) ラジオ「幼児の時間」台本(1951年)(小西理加氏 所蔵)

 そのほか、印刷されたものではなく、カーボン紙で書かれたラジオ台本も複数残されていました。上の写真は、1951年に放送された『幼児の時間』という番組の台本で、「お母さんといっしょ」と題されています。テレビの『おかあさんといっしょ』の放送開始は1959年ですから、それに先立つこと8年前に、サブタイトルとはいえ同名タイトルの番組が作られていたのです。内容は、タッチャンという男の子の目を通して家族の日常を描いた一種の朗読劇で、14話分の台本が残されていました。(なお筒井さんは1953年に『おねえさんといっしょ』というラジオ番組も手がけていて、1957年には映画化されています。『おねえさんといっしょ』にもタッチャンという男の子が登場することから、2作の舞台は同じ家庭なのかもしれません。)

 あらゆるものがデジタル情報として記録・保管される現在とは異なり、当時はラジオにせよ、テレビにせよ1回放送されれば影も形も残らない時代でした。心血を注いで作り上げた作品が1回きりで消えてなくなってしまうことは、自分の考えを自由に表現することが困難だった時代を生き抜きながら、空襲によってすべてを失う経験をした筒井さんにとって耐えがたいことだったのかもしれません。筒井さんがこれだけさまざまな番組の関連資料を長年保管されていたのは、自分が生きていたことを「なかったことにされない」ための必死の抗いのように思えます。

「字の書いてあるものを捨ててはいけない」。

 私たちは果たしてこのような思いを込めて字を書いたり、言葉を使ったりしているでしょうか。言葉とは本来どのように使われるべきなのか。人にものを伝えるとはどういうことなのか。メディアを介したコミュニケーションが急速に発達し、それを当たり前のこととして受け入れ、ともすると言葉を雑に使いがちな私たちに、筒井さんはシンプルな言葉で大切なことを気付かせてくれます。

*2回目は12月7日(水)に掲載予定です。

放送ヒストリー 2022年02月16日 (水)

#369 現代アートから放送研究を見つめ直す

メディア研究部(メディア史研究) 倉田宣弥


 『放送研究は岐路に立っている。放送・テレビ〈だけ〉を研究していればいいという時代はすでに終わっている。放送研究自体を志す研究者も少なくなっている』
 こんな言葉を研究者の方から伺ったことがあります。

 急速かつ着実に、放送をめぐるメディア環境の変化は進み、テレビの放送波だけでは届けきることが難しい状況が生まれています。受け手である視聴者側の意識はもちろん、制作者側の意識も変わりつつあります。制作現場では、テレビ番組だけではなく、インターネットやリアルなイベントも含めて複層的にコンテンツを設計し、いかにして視聴者にコンテンツを届けきるかを試行錯誤する取り組みが行われています。
 こうした放送をめぐる枠組みや制作者の意識の変化に、放送研究はどう対応していけばいいのでしょうか?
 研究する対象も再構築が迫られるでしょう。既に、インターネットやソーシャルメディアなど、多様化するメディアの研究は進んでいます。一方、制作者研究においても、これまで対象としてこなかった分野、たとえば、ネット映像や現代アート作品〈も〉視野に入れ、広く映像コンテンツを見つめ直す必要性があるのではないでしょうか。つまり、総合的な「映像学」を視線の先に置いて、放送研究をとらえ直すという意識も大切になってくるのではないでしょうか。
 そんな思いを抱きながら、私は、今後の放送研究の手がかりを得られればと、2月4日から2月20日まで東京で開催されている、恵比寿映像祭を訪れました。


220216-11.png 恵比寿映像祭は、日本初の写真と映像の専門美術館である東京都写真美術館と東京都などが主催して、2009年から毎年開かれている、日本では数少ない、公立美術館による映像に特化した芸術祭です。
 これまで映像作家のジョナス・メカス、ビデオアーティストのナム・ジュン・パイク、ドキュメンタリー映画監督の土本典昭など、国内外の著名な作家の作品を集め、展示・上映を行ってきました。映像祭には、現代アートを中心に、映画、アニメーション、写真、演劇パフォーマンスなど、様々なジャンルをベースにした表現者が集まり、映像を見る視点を揺り動かし、思考を拡げる機会を与えてくれます。
 ドキュメンタリー研究を志している私は、『事実や歴史的なできごとを出発点にして、どう物語を編み、いかに多様なナラティヴ(物語の語り方)を生み出すか』という点から、二人の表現者に注目してみました。

 まず、アーティストの佐藤朋子さんです。彼女がベースにしているのは、レクチャーパフォーマンスという分野で、アーティストがひとり舞台に立ち、映像や画像や音声など様々なメディアを用いながら観客に直接語りかけるものです。演劇パフォーマンスの一分野として、1960年代に英米圏で始まり、2000年代以降、世界的に再び注目が高まって、現代アート界では「レクチャーパフォーマンスの再来」とも言える状況が生まれています。

220216-22.png 1990年に長野県で生まれた佐藤さんは、日本が近代化に向かう過程でこぼれ落ちた〈小さな〉歴史的なできごとを集め、語り直すことを作品にしてきました。彼女が重視するのはリサーチです。フィールドワークやインタビュー、文献調査などを行い、浮かび上がってきた事実を複眼的につなぎ合わせ、事実とフィクションを行き来する物語を構築し、レクチャーパフォーマンスという形で上演してきたのです。
 現在取り組んでいるプロジェクト《オバケ東京のためのインデックス》では、芸術家・岡本太郎が提案した、もうひとつの東京を構想する〈オバケ東京〉という都市論をベースにしています。岡本の思考を出発点にして、東京を〈非人間〉の視点で読み解こうとしているのです。昨年、プロジェクトの序章として行われたレクチャーパフォーマンス公演では、〈非人間〉として怪獣・ゴジラを登場させました。今回の映像祭では、ライブで行われたこの舞台を再構成。新たに撮影・編集を行い映像作品にしたものを展示しています。


220216-33.png この冬、私は、《オバケ東京のためのインデックス》シリーズの新たな章に向けた、佐藤さんのリサーチに同行する機会を二度得ることができました。
 2021年12月、彼女は、東京・有栖川宮記念公園でカラスを探していました。動物行動学者とともに、カラスの影を探し、その声に耳をそばだてていたのです。『〈非人間〉の視点から東京を見ると、都市はどんな姿を表すのか?』そんな問いを立て、都市でもっとも身近な動物のひとつ、カラスの視点から、東京を眺め直そうとしていました。
 2022年1月、彼女は、皇居前広場から明治神宮外苑まで、天皇が儀礼で移動したルートを歩いていました。同行していたのは、近代の東京における天皇にまつわる儀礼空間を研究している建築史家です。儀礼という視点から東京をとらえ直そうとしていました。

 このような専門家へのヒアリングを始めとした詳細なリサーチを行い、集めた事実を素材として構成する制作プロセス。それはまるでドキュメンタリーのディレクターの取材そのものだと感じる部分もありました。
 そして、アウトプットである公演では、一定の時間内で、リサーチで集めた歴史的な事実や言葉の引用を元に、自らの語りで物語を編んでいきます。そのスタイルは、決まった放送時間の中でインタビューとナレーションを主として物語を進行する、テレビドキュメンタリーとの類似を感じさせます。
 私が彼女の作品に注目するのは、その制作プロセスとアウトプットの、テレビドキュメンタリーとの相似と、それでも残る相違。例えば、説明せずに、要素と要素を直接ぶつけ、少しの違和感をあえて残すようなシークエンスの作り方などの中に、ドキュメンタリーを拡張させるヒントがあるのかもしれないと感じているからです。

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 二人目にご紹介するのは、タイ出身の映画監督アノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督です。アメリカのコロンビア大学の芸術学部で学んだ彼女は、卒業制作が2006年カンヌ国際映画祭で上映され、短編作品としてタイ映画史上初のカンヌ入りを果たしたとして一躍注目を集めます。その後も現代アート的な作風の作品で国際映画賞を受賞。タイを代表するアピチャッポン・ウィーラセタクン監督に続く世代として、国際的に高く評価されているひとりです。

220216-4444.png スウィチャーゴーンポン監督が関心を抱いてきたのは歴史だといいます。恵比寿映像祭では、代表的な二つの長編映画が上映されていますが、そのうちのひとつ、《暗くなるまでには》は、彼女が生まれた年に起きた、ある歴史的な事件を出発点にしています。
 1976年、バンコクにあるタマサート大学で起きた「血の水曜日事件」。学生運動をしていた若者たちが、警察や右翼集団に襲われ、少なくとも46人が虐殺されたといいます。しかし、今でもタイのマスメディアではほとんど扱われることがなく、タブーのひとつとなっています。
 この作品では、映像はリアリズムへの愛を信奉するかのように丁寧に編まれる一方で、物語は混乱と断絶を徐々にそして深く生み出していきます。
 映画は、四人の若者が線香をあげて祈るシーンから始まります。次に若者たちが、銃を持ち制服を着た人々によって床にうつぶせに並べられ虐待を受けるシーンが続きます。同じシーンで、その虐待を“演技指導”し撮影するスタッフの姿も現れます。そして二人の男女が何かから逃れるように野道を歩き、川辺に佇むシーンが連なります。
 タイトルを挟んで物語は“現代”へ。「血の水曜日事件」を生き延びた、元・学生運動の活動家の女性と、彼女をモデルに映画を作りたいと考える女性映画監督のシーンになります。(この元・活動家のエピソードは、タイ人なら、実在する著名な詩人チラナン・ピットプリーチャーさんをすぐに連想するようです)元・活動家の過去についてインタビューをしながら、映画監督は作品の構想を固めようとします。
 このまま二人の対話を元に進むかと思われた映画は、物語という骨格の関節が脱臼したかのように、別のエピソードや、既に登場したエピソードの上書きのようなシーンが連なり、時間軸も主人公も交錯していきます。

 この映画が持つ、物語が次第に破綻していくような語り方に対して、『監督は映画の文法の解体をなかば即興的に試みているのではないか』という見立てもできると思います。しかし、私は違う見立ても提示しておきたいと思います。それは物語の語り方の多様性です。
 彼女は、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督と同じく、欧米での映画や芸術の教育や理論を背景に持っています。また映画の撮影現場では、役者に精密なキャラクター設定を渡し、演出していたそうです。そんな彼女から、物語の破壊への衝動ではなく、設計された意図を読み解きたいのです。
 具体的にひとつのパートを取り上げてみたいと思います。
 先ほどご紹介した冒頭近くの元・活動家の女性と映画監督が出会うシーンについてです。映画の中盤を過ぎた60分すぎ、まったく同じ場所で二人の出会いのシーンが繰り返されます。しかしそこでは一度目のシーンとは違う役者が元・活動家と映画監督を演じているのです。セリフや身ぶりなどの細部は違いますが、シーンの大きな流れは変わりません。さらにはそのあとに、最初の俳優の組み合わせで演じられるシーンが再び現れます。
 いったいどういう意図があるのでしょうか?
 例えば、説明は一切ありませんが、映画監督が構想していた、元・活動家を主人公にした映画の完成を暗示しているのかもしれません。しかし、再び、元の役者に組み合わせに戻る構成にはうまくつながりません。
 私は、解釈をひとつにすることには慎重にならないといけないと感じます。なぜなら、この映画自体がそうした、現実とその答えを一対一で結びつけるような画一的な解釈への疑いを投げかけているように感じるからです。
 それでもあえて監督の意図の考察を続けてみましょう。
 少し抽象的な話になりますが、現代において盛んに語られる、モダニズムと呼ばれる、近代における西洋中心主義的な価値観への疑問―例えば、人間と自然との二項対立、事実はひとつであるという客観性への信頼、ひとつの正統的な歴史があり人類は進歩に向かっているという歴史観などへの疑問―がこうしたナラティヴの背景にあることを見出せるのではないでしょうか。
 この映画で用いられている独特の語り方、例えば、物語の入り口と出口がつながっていないように見えるストーリーテリング、主人公と思われた人物が途中で消え相互に交わらない人物相関図、同じ設定の人物を複数の役者が演じるキャスティングなどを通じて、監督は、これまで前提とされてきた近代的な世界観や〈わかりやすい〉物語の語り方とは違う方法を提示しようとしているのではないかと私は感じるのです。

220216-5555.png これが放送の制作現場やその研究とどう結びつくか、疑問を持たれる方が多いかもしれません。
 テレビ番組の放送前に繰り返される試写。そこで、おそらく一番耳にするのは〈わかる/わからない〉という言葉だと思います。しかし、近年、制作現場では、特に若い世代から、〈わかりやすすぎること〉への疑問の声を耳にすることが増えています。視聴者に良くも悪くも疑問が浮かぶ余地を残さないようにする、〈わかりやすさ〉を第一とする語り方に対して、一部の制作者が感じる違和感はどこから生まれているのでしょうか。
 飛躍しすぎるという指摘を覚悟していえば、アノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督作品の語り方に見られるように、世界で同時多発的に起こっている価値観の多様化が、制作者の意識にも反映され、テレビのストーリーテリングも多様性の時代を迎えているのかもしれません。典型的なストーリーテリング〈だけ〉を頼りにすることや、わかりやすさ(わかりやすすぎること)〈だけ〉に忠実になることへの慎重な姿勢も、頭の片すみに置いておく必要があるのかもしれません。

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 恵比寿映像祭を見ていて、ある言葉を思い出しました。芸術大学などでアーティスト教育の現場に立ち会う機会があるのですが、そこで指導者が発した、とても印象的な言葉です。

 『観客をもっと信頼していいんだよ。テレビ番組みたいに説明しすぎないで。観客の想像力をもっと信じて制作していいんだよ』

 必ずしも〈わかりやすい〉わけではない現代アートの映像作品。しかし、そこに見られる語り方や構成、そしてその背景を分析することで、今後の放送研究、さらにはコンテンツ制作の参考となる新たな視点を見出すことができるかもしれません。