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放送ヒストリー

放送ヒストリー 2019年01月25日 (金)

#165 組織ジャーナリズムで働くということ

メディア研究部メディア史研究) 大森淳郎


朝日新聞が2008年に出した『新聞と戦争』という本(1年間にわたる同タイトルの新聞連載をまとめたもの)があります。「時代の軋みと記者たちの身悶え」(「はじめに」より)に光をあてた力作ですが、取材班は満州事変後の日本軍の中国侵攻を追認した事実を踏まえてこう書いています。「ペンを取るか生活を取るかは、ジャーナリズムとしての覚悟の問題に帰する」。あんな新聞を出すぐらいなら、なぜ先輩たちは会社を去るという選択をしなかったのかと言っているわけです。

これに対して、作家・井上ひさしは連載を高く評価したうえで、「だが私は、個々の記者は「生活」を取らざるを得ないと思う」と書いています。軍部が社会の実権を握ってからでは、個々の記者の抵抗も、いわんや新聞社としての抵抗も事実上不可能だったのであり、そういう中で「生活」を取った記者たちを、現在の視点から簡単に批判は出来ないだろうと井上は言っています。

 さてシリーズ 戦争とラジオ〈第4回〉では、戦時中の講演放送、学校放送を牽引した2人の人物に焦点をあてました。2人は、日本放送協会に入局する前は、片や詩人として日本の帝国主義を批判し、片や教育学者として国際平和を訴えていました。しかし、入局後は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続く戦争の時代、放送によって国民を戦争に動員することこそを自らの使命として語るようになってゆきます。でもそれは、丁寧に見てゆけば、やはり「身悶え」しながらのことだった。彼らにも「生活」があった。組織人として生きてゆくために彼らは、妥協し、信念を曲げ、「身悶え」しながら、流されてゆきました。そういう彼らを批判することは容易です。でも歴史から学ぶために本当に必要なことは、彼らの苦悩や葛藤を知ることのはずです。そして自分だったらどうしていたのか考えてみることだと思います。

 まるごと国家権力に取り込まれてしまった組織ジャーナリズムに身を置きながら、個々の記者が抵抗することなど不可能だった、そう言う井上ひさしは、「そうなってしまう以前、まだ批判を書けた時代にもっと頑張れなかったか、がポイントだろう」と記しています。私たちは今、どこにいるのでしょうか。戦争直前などと言うつもりは毛頭ありませんが、でも、沖縄、原発、そして憲法、大きな課題に直面していることは間違いありません。そして私のような放送現場の第一線から退いた人間の耳にも、そういう課題に取り組もうとしている後輩たちが組織とぶつかり葛藤する声が聞こえてこないわけではありません。組織ジャーナリズム(もちろんそれはなくてはならないものです)で働くとはどういうことなのか、時代を超えた問いです。

放送ヒストリー 2018年12月21日 (金)

#160 「ゼロからの出発」 ~戦後沖縄放送史を生きる~ 

メディア研究部(メディア史研究) 吉田 功                      

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「…珊瑚礁の島、沖縄島 ―1945年3月から6月まで約4ヶ月の間、この島の上皮に吹きまくって鉄の暴風はいかに激しく、いかに荒々しく、50万人住民を飢餓と、恐怖と、死の地獄に叩き込んだことであろう…」

戦後はじまったばかりのラジオ放送で、沖縄戦の様子を克明に記した戦記「鉄の暴風」を朗読した、戦後沖縄初のアナウンサー、川平朝清さん。当時24歳だったこの青年は、その後も一貫して沖縄全土に放送を広げることに奔走しました。現在91歳になられた川平さんの証言を軸に、沖縄の放送の歴史を辿りました。『放送文化と調査』12月号をごらんください。

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戦後史、と一口に言っても、沖縄と日本本土ではまったく違います。日本本土とは異なり、米軍統治下の沖縄には、住民の人権も、法で保障された自由もありませんでした。本土と切り離され、米軍の「軍事要塞」と位置づけられたのです。
放送の形態もまったく異なります。この変遷はかなり複雑です。あまり知られていない事実もあります。
そこで3日間、のべ10時間以上にわたり、広谷鏡子研究員とともに川平朝清さんにお話を伺いました。これと合わせて、できる限り関連資料を集め、戦後沖縄放送史の歩みをときほぐしてみました。

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証言のなかで、私がもっとも印象的だったものの一つは、1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が占領から脱した日の川平さんの記憶です。
研修のため沖縄を離れ、東京に滞在していた川平さんは「強いショックを受けた」といいます。


「(東京の)新聞を見たら、『日本はいかに幸いなところであるか。ドイツのように東西に分断されず、朝鮮のように南北に分断されず』と言ってるわけですよ。奄美大島や沖縄のことは、全く触れてない。『ドイツのようにならなかった。』…とんでもない。」

日本だって、奄美、沖縄は切り離されてしまったではないか。日本本土の人は、苦しみ続けている沖縄のことなど忘れてしまったのか…。50年以上たった今でも、川平さんはその日のショックと憤りを鮮明に覚えていました。

川平さんの証言は「昔のこと」なのでしょうか。私たちにはそう思えませんでした。それはまさに今、2018年12月に直結している。
はたして、私はいま何ができるのだろう。川平さんのインタビューを終え、本稿を自分で読み返してみて、自分を問い直しています。


放送ヒストリー 2018年08月31日 (金)

#142 「燃え残り」でも

メディア研究部(メディア史研究) 大森淳郎

今から73年前の夏、日本は戦争に負けアメリカ軍に占領されることになりました。
その直前まで、鬼畜米英、一億特攻を国民に呼びかけ続けてきた旧日本放送協会がまずしたことは、膨大な局内文書の焼却でした。東京・内幸町にあった放送会館は1週間にわたって黒煙に包まれたそうです。

今、NHK放送博物館の倉庫にある戦前・戦中の史料は、その時の焼却から奇跡的に免れたものです。もちろん、その中には、これだけは遺しておこうと考えた人によって守られたものもあっただろうし、秘密裏に所有していた個人から戦後NHKに寄贈されたものもあります。でも基本的には、今、私たちが手にすることができるのは敗戦時の焼却のいわば「燃え残り」なのです。

それでも、そういう「燃え残り」を丹念に読んでゆくと、時々、一つの史料が別の史料とつながって「ああ、そうだったのか」と納得するという経験をします。点と点が線でつながり、その線は別の線と絡み合う。そうして「戦時ラジオ放送」という面が少しずつ浮かび上がってくる。

今回(『放送研究と調査』8月号「シリーズ 戦争とラジオ〈第3回〉踏みにじられた声」)もそんな体験をしました。1932年に逓信省が全受信契約者120万を対象に行ったラジオに対する希望調査。その調査を主導した田村謙治郎という官僚は1934年に日本放送協会の中央集権化を断行しますが、その際に彼が日本放送協会定時総会で行った演説の速記錄、そして日中戦争勃発の翌年に情報局が行った「思想戦講習会」に於ける田村の講義録が残っています。これらがつながって線になるとき見えてくるのは、国民をそうとは悟られないように戦争へと導こうとする田村の放送戦略です。1934年の演説で田村は、放送局の職員は、まず、ジャーナリストの思想を棄てなければならない、とまで言っています。そして、そういう田村の、つまりは政府・軍の放送戦略は日本放送協会の全体で共有されてゆくことになりました。

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日本放送協会第8回定時総会(1934年)議事速記録

古今東西を問わず、その露骨さの程度に違いはあるにしろ、権力はメディアをコントロールしようとします。だからこそ、私たちは歴史から学ばなければならないのだと思います。

権力はやろうと思えばどこまでやるのか、そしてメディアはどこまで墜ちてゆくのか、「燃え残った」史料は、それでも聞こうと思えば聞こえる声で語っています。

放送ヒストリー 2018年05月25日 (金)

#126 NHK編集・発行放送史の視点と変遷

メディア研究部(メディア史研究) 吉田 功
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上記の4冊はすべて、NHKが戦後になって編集・発行した『放送史』です。どれも1000ページを超える「大著」。最も新しい『20世紀放送史』(右下・2001年刊)は、「上巻、下巻、資料編」で、総重量6.3キロにもなります。
お恥ずかしいことに、私がこれらを初めて目にしたのはNHKに入局して10年以上たってから。「テレビ放送開始50年特別番組」の制作支援を命じられ、これらの分厚い本を手にしました。

読み始めてみるとなかなか面白い。例えば、『日本放送史(25年史)』(左上・1951年刊)には、「(ラジオは)全家庭を講演場として知恵の美果を贈り、或いは全家庭を劇場として愉楽の泉に導いた」とあり、当時、ラジオが最先端の「エンターテインメントツール」だったことがわかります。また、『放送五十年史』(左下・1977年刊)は、オイルショック、公害が深刻になっていた時代を色濃く反映しており、放送(ラジオ、テレビ)による「情報」の氾濫は、国民にとって「情報公害」だと厳しい批判を浴びている、とまで書いています。時代によって、放送の受け止め方は大きく変わるんだなあと、そのとき痛感したことを覚えています。

さて、「歴史」と聞くと、「昔の話なんだから変わるはずはないだろう」というお考えもあるでしょう。
確かに過去の出来事が変わることはありません。しかし、誰が、いつ、その過去を見つめるかによって、そのイメージやとらえ方は違ってくると考えられます。たとえば江戸時代を例に考えてみます。100年前(大正7年)においては、古くさい封建主義の時代で “乗り越える”べき過去だと考える日本人は多かったと思われます。100年後(2118年)の日本人にとっては、逆に地域社会の絆が生きていた共生社会の時代ととらえられ、“学べる過去”と映るかもしれません。
歴史のとらえ方は、時代によって大きく変わると考えられます。歴史学ではこれを「まなざし」、「歴史観」、「視点」といったりするそうです。そこで、『放送研究と調査』5月号に掲載した「NHK編集・発行『放送史』の歴史的視点と変遷」では、それぞれの時代の「放送史」をひもといて、それぞれの時代における、放送へのまなざし、とらえ方に近づこうとしています。

インターネットを含めたこれからの新しいメディアを考える上で、これまでラジオとテレビが歩んできた歴史を検証することは欠かせないと私は思っています。最先端のメディアであった放送が成し遂げたこと、またできなかった課題を洗い出すことは、次世代にとって本当に有用なメディアを創る手かがりになると考えるからです。それには、まず、先人がどんな視点をもって放送というメディアを見ていたのかを知ることが、その第一歩になるのではないかと考えました。
東京・芝浦にあった社団法人東京放送局が日本におけるラジオの第一声を発したのが、1925年。それから間もなく100年がたとうとしています。ここであらためて、放送というもの役割、存在を見つめ直すきっかけになればと願っています。

放送ヒストリー 2018年04月27日 (金)

#123 「災害報道」の後に残された"モノ"の意味 ~特別展「東日本大震災」を振り返る~

メディア研究部(メディア動向) 入江さやか
メディア研究部(メディア史研究) 東山一郎

2011年の東日本大震災の災害報道に関わったNHKの各放送局や職員の手元には、取材のメモや写真など多くの資料が残されました。これらの資料は、未曾有の大災害の報道の背景を伝える貴重な「記録」であり、「記憶」でもあります。NHKではこれらの資料を収集、時系列・項目別・地域別にアーカイブ化し、 昨年NHK放送博物館(東京都港区)で開催した特別展「東日本大震災 伝え続けるために(2017年3月7日~9月10日)においてその一部を公開しました。
こうした取り組みはNHKでは過去に例がありません。そこで、特別展の概要と開催までの経過を総括した「災害報道資料のアーカイブ化と活用の試み」『放送研究と調査』4月号に掲載しました。

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NHK放送博物館で開催された特別展の会場

一口に「災害報道の資料の収集」と言っても、収集を始めた時点で大震災から5年近くが経過しており、容易な作業ではありませんでした。記者・キャスター・カメラマンなどに広く資料の提供を呼びかけたほか、仙台局・盛岡局・福島局に直接足を運び、居室から地下の倉庫まで、時にはホコリにまみれながら「探索」しました。

「特別展」では、東日本大震災の発生した瞬間をとらえた各地の映像、取材にあたった記者やカメラマンの手記、被災地の取材前線の「引き継ぎメモ」に記された若い記者の思い、被災地などからNHKに寄せられた救援を求めるFAX、東京電力福島第一原発事故の状況を解説するためにスタジオで使用した模型など、約100点を展示しました。
特別展開催期間中の放送博物館の来場者は6万4,952人。特別展についてのアンケートを実施したところ、3,360人から回答をいただきました。「印象に残った資料や展示物は何か」という問いに対しては「東日本大震災大震災発生時の映像」25%で最も多く、次いで「被災地の写真と記者・カメラマンの手記」12%「記者の取材ノートやメモ」が9%でした。
アンケートの自由記述を整理すると、震災の記憶の風化を懸念し「これからも伝え続けてほしい」という趣旨のコメントが60件以上ありました。また、同様の展示を「全国で」「常設化して」という意見も目立ちました。

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特別展は昨年9月に閉幕しましたが、2018年2月にオープンしたNHK仙台放送局の新放送会館に設けられた恒久的な「東日本大震災メモリアルコーナー」にその一部が活用されています。さらに5月6日までは企画展「東日本大震災を伝え続けるために」も開催されています。

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NHK仙台放送局での企画展(5月6日まで)

「放送」、その中でも「報道」は、常に新しいものを追いかける仕事であるだけに、過去の資料の大半が置き去られ、消え去っていきます。しかし、それらの中にも見る人の心に響くものがあるということを私たちは学びました。
東日本大震災から7年。「伝え続けてほしい」という多くの人々の声にどのように応えていくか。これからも模索を続けていきます。

放送ヒストリー 2018年04月20日 (金)

#122 ドキュメンタリーの「作品性」 

メディア研究部(メディア史研究) 宮田 章

テレビ番組には作品性が濃いジャンル薄いジャンルがあります。

たとえばドラマは作品性が濃いジャンルです。ドラマの1カット1カットは基本的にすべて、作り手(俳優を含む)の思惑が映像・音声として具現化したもので、まぎれもない作り手の産物(作品)です。ドラマ作品を支えているのは作り手の優れた技巧(創造力)に裏付けられた表現としての魅力です。一片のフィクション(虚構)であるドラマが、現実、あるいは現実に取材した番組に伍していくためには、表現としての独自の魅力が必要です。ドラマの作り手に現実の取材力は求められませんが、魅力的な虚構を構築する創造力は必須です。

反対に、ニュースは作品性が薄いジャンルです。ニュースの中身は、ニュース記者の思惑とは関係なく存在している事実・現実です。ニュース記者の仕事はこれをできるだけ客観的に記録して人々に伝えることです。ニュースは作品ではなく記録であり、原理的に言えば、個々のニュースは、それが記録した事実の力以外に表現としての魅力をもつ必要はありません。ニュース記者に取材力は必須ですが、創造力はむしろ抑制の対象です。

では、ドキュメンタリーはどうでしょう?
結論から言うと、ドキュメンタリーはドラマのように「作品」でもあり、ニュースのように「記録」でもあるという、「どっちつかず」あるいは「どっちもあり」のジャンルです。ドキュメンタリーの作り手がいくら作品を作ろうとしても、取材対象である現実は、作り手の思惑とは違う、あるいは作り手の思惑を超えたものを必ず含んでいます。つまり、現実に取材して得た映像や音声は必ず記録性を帯びます。逆に、作り手がいくら記録を標榜しようと、ドキュメンタリーは、その作り手が(しばしば意識せずに)依拠している視点や手法の産物であることから逃れることはできません。つまり、得られた映像・音声は必ず作品性を帯びるのです。作品性と記録性が混在し、常にせめぎ合っているジャンル、それがドキュメンタリーです。

筆者(宮田)は、作品性と記録性がせめぎ合うところから生まれる、ドキュメンタリー独特の現実表現に強い魅力を感じます。ドキュメンタリーの魅力は多彩です。作品性より記録性が勝るタイプ、反対に、記録性より作品性が勝るタイプ、いずれのタイプにも多くの秀作、傑作が存在します。過去のドキュメンタリーを見ていると、この作品性と記録性のバランスは、テレビドキュメンタリーが誕生した1950~60年代から、同時録音技術が普及した70年代、そして現代に至る大きな時間の流れの中で、ゆっくり変化しているように感じます。

『放送研究と調査』4月号に発表した論考(「データから読み解くテレビドキュメンタリー研究」)は、作品性と記録性のせめぎ合いの一端を、数量的データを用いて可視化する方法を示したものです。興味を持たれた方はご一読ください。

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放送ヒストリー 2018年04月13日 (金)

#121 「ゆり戻し」としての戦前の「講談調」野球実況人気

メディア研究部(メディア史研究) 小林利行

「ジュラシック・パーク」(1993年公開)という映画をご存じですか。
DNA操作で恐竜を現代によみがえらせてテーマパークを作ったものの、恐竜が暴走してパニックになるという物語です。当時大ヒットして、今でも続編が作り続けられています。
CGを駆使したリアルな恐竜の映像が話題になった映画ですが、私にはそのこと以上に心に残っている場面があります。
恐竜をよみがえらせた科学者たちは、パーク内で恐竜が勝手に繁殖しないようにメスだけを造り出しました。しかし主人公たちは、恐竜から必死に逃れている途中で「」を見つけるのです。これは、「カエルのメスだけを長期間隔離しておくと、種の保存の本能から一部がオス化して繁殖が可能となる」という事実をベースとして原作者が創作したものですが、人間が「自然」を無理やりコントロールしようとすると、何らかの「ゆり戻し」が起こるということを強烈に印象付けた場面でした。

一見かけ離れた話なのですが、今回私が戦前の「講談調」野球実況人気の背景を調べていくうちに思い出したのが、この「自然を無理やりコントロールすること」と「ゆり戻し」の関係だったのです。

1930年前後、日本放送協会の松内則三アナウンサーの「講談調」の野球実況(以下「野球話術実況」)が大人気となりました。これはレコードにもなって、10万枚売れれば大ヒットといわれた時代に歌謡曲でもないのに15万枚も売れました。そのアナウンスは、事実を客観的に描写する“実況”というよりも、おおげさで創作的なまさに“講談”に近いものでした。
先行研究では、この人気の背景について「講談調」という日本人になじみのある口調だけに言及したものが多いのですが、私はまず「当時どんな番組がどのような割合で放送されていたか」に注目しました。

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グラフを作ってみると、娯楽番組が減少する時期と「野球話術実況」の全盛期が重なっていることが分かりました(当時、日本放送協会は “実況”を「報道」に分類していました)。
さらに調べてみると、良し悪しは別として、「娯楽」が少ないというこの状態は、聴取者の希望や外国の放送局との比較から見るとかなり不自然であることも明らかになりました。当時の聴取者調査の結果では、「娯楽」の希望が「報道」や「教養」を大きく上回っています。また、多くの欧米の放送局では、プログラムの大半を「音楽」が占めていたのです(ちなみにアメリカの聴取者調査で希望が多いのも「音楽」でした)。

これらのことから、ジュラシック・パークの「卵」にあたるのが「野球話術実況」ではないかと思ったのです。つまり「野球話術実況」は、やや無理のあった放送番組の割合の中で発生した「ゆり戻し」なのではなかということです。

『放送研究と調査』4月号では、このことを頭のすみにおいて、この時期の放送に「娯楽」が少なくなった理由や、その穴を埋めるようにエンターテインメント化した野球実況の背景について論考しています。
みなさんも、「これは一種のゆり戻しだな~」と感じられるかどうか、ぜひ一読してみてください。

最後にちょっとだけ。
「野球話術実況」の人気が終息する1934年から終戦(1945年)にかけて、「娯楽」は少ないままなのに、(少なくとも私の目には)「ゆり戻し」現象は見られなくなります。「野球話術実況」の検証を通して、これ以降のラジオ放送が、「ゆり戻し」が発生するスキさえないほど戦争遂行のために統制されたものだったと改めて感じました。

放送ヒストリー 2017年12月15日 (金)

#106 『NHK年鑑2017』を発行しました

メディア研究部(メディア史研究) 三矢惠子

『NHK年鑑』
の編集長をしています。ブログへの登場は1年ぶりとなります。
『NHK年鑑』はその名のとおり、1年に1度発行する、NHKを中心とした放送界の動きを記録した刊行物です。

2016年度の動きをまとめた『2017』版を11月10日に発行し、12月12日から、その中のNHKに関連した情報をこのホームページ上で公開しています

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『年鑑2017』

2016年度の放送界の大きなトピック、4K・8K試験放送の開始については、第2章第1節で丁寧にとりあげたほか、各部局のページでも、関連するそれぞれの取り組みを紹介しています。また、当然のことながら、番組解説でも資料編の番組時刻表でも、「スーパーハイビジョン試験放送」という項目が新たに加わっています。
ところで、社会のデジタル化が進んで便利になっても、世の中から紙の本が消える、という状況にはなっていません。電子化されたデータにはない、本ならではの使いやすさや本だからわかることがあるからでしょう。

今回の『NHK年鑑2017』では、そんな本としての使い勝手をよくする、ささやかな改善を2つ施しました。1つは、目次のレイアウトをわかりやすく変えたこと、もう1つは「年鑑」のキラーコンテンツとも言える「番組解説」を第4部として独立させ、資料編の直前に配置して探しやすくしたことです。
もっぱらネットで「年鑑」を利用してくださっている方にはピンと来ない改善かもしれませんが、本を使い慣れている方には、きっと使い勝手がよくなったと思います。

もちろん、内容的にも、『NHK年鑑』には、次のような高い資料価値があります。
 ◇創刊は1931年(当時は『ラヂオ年鑑』)と歴史が長いこと
 ◇これ1冊で放送、技術、経営、その他、NHKの全体がわかること
 ◇「番組解説」という、この本でしかわからない情報があること

『NHK年鑑』が本当に役に立つのは、刊行してすぐというよりは、少し時間が経ってからのことでしょう。“その時”に思いを馳せながら、今年も編集作業を進めました。

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(校正・編集作業風景)

放送ヒストリー 2017年11月24日 (金)

#103 「オーラル・ヒストリー」は、対話を通して歴史を紡ぐ

メディア研究部(メディア史研究) 広谷鏡子

「オーラル・ヒストリー」
と聞くと、「ん? オーラルケア? 歯磨き? そのヒストリーって何?」なんて思うのが、まず一般的な反応でしょうか。耳にしたことがあるぞ、という方は、ずばり『オーラル・ヒストリー』という著書のある、御厨貴(みくりやたかし)・東大名誉教授の名前を思い浮かべられるかもしれません。

私たちは、2025年に100年を迎える日本の「放送」の歴史を研究しています。数年前から、放送史を「オーラル」、つまり、実際に歴史の中で生きてきた人々の「口述」(=「証言」)によって記録するという研究方法に取り組んでいます。

歴史という大層なものを「口述」によって書き起こす? 実はこの研究方法は批判も受けてきました。それは、「人間の記憶なんて信用できるの? そんな曖昧なもので客観性を保てるの?」というものです。おっしゃるとおりですね。でも考えてみてください。「口述」と相対するものに「文書」がありますが、文書資料なら信用できるのでしょうか。文書資料も当時の作成者の意思によって「作られたもの」です。完全に「客観的なもの」と断じることはできませんよね。たとえば公文書なら当局の、日記であれば著者の意図や主観が入っています(私も日記をつけていますが、生意気にも後世の人々が読むことを期待して、都合の悪いことは書かなかったりします)。重要なことは、文書資料が「真実」であり、口述資料が「正しくない」と片付けてしまうべきではない、ということです。

私たちは、「歴史上の事実」だけを明らかにしたいのではありません。放送と関わった人たちが、当時何を思い、どのような未来を目指したのか、その足跡は「放送史」という大きな流れの中で、どんな役割を果たしたことになるのか。それらを知ることで、私たちは歴史には別の側面があることを発見し、歴史の実相を手繰り寄せることができるのではないでしょうか。一人ひとりの証言の蓄積が、支流をつくり、やがて注ぎ込むべき大河を壮大なものにしていくと私たちは確信しています。「オーラル・ヒストリー」によって、文書資料にはこれまで記載されてこなかった、人々の語りでしか知ることのできない豊饒な世界に、ぐっと近づけるような気がしています。

103-1124-11.jpg「証言をとる」と言うと、堅苦しい、重々しいイメージですが、インタビューでは、証言者との「対話」を重視します。準備も大変ですし、緊張もしますが、自分たちが歴史の新しい一幕を開いているのかもしれないのですから、楽しいひとときでもあります。

もうひとつ。貴重な証言ですから、「とりっ放し」にしたくありません。今後、別のテーマの研究にも活用できるよう、オリジナル音声(映像)データを「保存」するシステムも、大急ぎ整備中です。2016年度に当研究所のメンバーで作成した「『オーラル・ヒストリー』方法論・試案」『放送研究と調査』11月号に掲載していますので、合わせてご覧ください(12月1日に全文公開されます)。

100年後の人たちが、「放送」を血の通った歴史として振り返ることができますよう!

放送ヒストリー 2017年08月25日 (金)

#91 「仕方がなかった史観」を乗り越えて

メディア研究部(メディア史研究) 大森 淳郎

10年ほど前のことです。私は、あるレコード会社の倉庫に保管されていた金属マスター(レコードの原盤)を借り受け、専門業者に持ち込んで再生してもらいました。中心に穴がないので、ターンテーブルに固定するのに苦労しましたが、なんとかうまくいきました。聞こえてきたのは次のような音声でした。

今こそ、真実のお話ができます。これは、全日本国民に戦争の真相を明かす初めての番組です。これは、皆さんに直接関係のある話であり、皆さんを暗闇の世界から明るい世界に連れ戻すための話です


金属マスターに納められていたのは敗戦の4か月後、1945年12月から放送された10回シリーズのラジオ番組『真相はこうだ』でした。
GHQの手によるこの番組は、日本が敗戦にいたるまでの歴史を対話形式で描くものでした。力作と言っていいのですが、実は当時の評判は散々でした。作家、宮本百合子は、こう述べています。

「日本人は今まで発表なら発表というものを信じさせられてきました。それなのに今度は同じ信じさせたマイクそのものがけろっとして、その声で逆なことを言うということに対する不真実な感じ、事態の真実を知るということよりも同じ放送局がよくもこういうことをまあ平気で放送するというその感じですね。(中略)同じ放送局があんなちゃんぽんなことを言えるという感じがパッとくると非常に浅いところで反発するのです。そして、その反発する感じは真実の感情なのです」(「鼎談 近頃の放送に対する批判と提言」『放送文化』1946年6月号)

戦時中、日本放送協会は国民の戦意昂揚を目的とした放送を出し続けました。その「戦時ラジオ放送」を棚に上げて軍・政府を批判しても、説得力のあろうはずはなかったのです。
日本放送協会は、「戦時ラジオ放送」について自らけじめをつけようとはしませんでした。そして1950年に放送法に基づいて再出発してからも、NHKが戦時下の放送の検証に積極的にとり組んできたとは言えません。なぜなのでしょう。
おそらくその理由は、1925(大正14)年に日本のラジオ放送が、政府管理の下に出発した時まで遡ります。政府の管理下に置かれていたのだから、国が戦争に向かえば、ラジオもその国策に沿って放送するのは仕方がないことだった、というわけです。でも、本当にそうなのでしようか。


『放送研究と調査』8月号から、シリーズ「戦争とラジオ」を始めます。「仕方がなかった史観」を乗り越えて、「戦時ラジオ放送」を検証してゆきたいと思っています。
第1回は、8月(前編)・9月(後編)の2号に渡って戦時下のニュ-ス放送に焦点を当てます。戦時下のニュースは同盟通信の記事を「話し言葉」に書き換えていただけだと思われてきましたが、決してそうとは言い切れない実体が浮かび上がってきました。どうすればより国策に沿ったニュースになるか、報道部員たちは懸命に考え、同盟通信の原稿を書き換えていたのです。

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