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放送ヒストリー

放送ヒストリー 2019年05月10日 (金)

#185 「現実に負けに行く」精神

メディア研究部(メディア史研究) 宮田 章

ネット時代の昨今、人々は見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いていると言われる。自分の好みや信念に合う情報なら、それがフェイクでも現実と信じ込み、逆に自分の好みや信念に合わない現実を「そんなことあるわけがない」と否認する人も多くなっているようである。

筆者はかつてテレビドキュメンタリー(以下「ドキュメンタリー」と記す)の実作者であり、今はその制作技法の経年的な展開を研究している[i]。この小文では、多くの優れたドキュメンタリーが、その作り手の好みや信念が、現実に裏切られることをむしろ喜び、歓迎するタイプの精神から生まれたことを指摘したい思う。

優れたドキュメンタリーの作り手の多くは自己否定の達人である。ある現実についての自分の考えが、現実自体によって裏切られることを喜ぶ性格を持ち合わせている。そうでないと、その作り手は、自分の考えとは違う現実が持つ魅力を、自分の番組に取り込みにくいからである。優れたドキュメンタリーの作り手の多くは、いわば「現実に負けに行く」という気概を持っている。

「現実に負ける」ためには、「負ける」に値するだけの自分の考えを持たなければならない。優れたドキュメンタリーの作り手の多くは調べ魔である。徹底的にリサーチしてそのテーマについて自分の考えを養い、それをロケ前の番組構成案にまとめる。「どうせ負けに行くのだから」などと手を抜くことはない。構成案が的確であればあるほど、より高いレベルで現実に「負ける」ことができる。

ロケ現場についたら構成案の細かい部分は忘れる。なるべく相手のペースに合わせて、その時その場のヒト、コト、モノに接する。運良く、自分では思いもよらなかった現実の豊かさ・複雑さ・割り切れなさ・・・に触れられたなら、めでたく「負け決定」である。優れた作り手はこれを発見として歓迎する。ロケだけではない。ロケ後の編集室でも多くの発見がある。収録してきた映像と音声を多種多様に組み合わせる中で、たくさんの未知のものが生まれるからである。ドキュメンタリーの企画時を入口、放送時を出口とすれば、入口と出口で作り手の考えは変わっていなければならない。入口と出口が同じなら、わざわざドキュメンタリーなど作る必要はない。作り手が入り口で知っている程度のことは、そのテーマに関心がある者なら、大抵知っているからである。

フェイクを現実と信じ込み、現実をフェイクと否認する傾向をネットが固定・強化するばかりなら、この社会は危うい。自分の好みや信念が、現実に裏切られることをむしろ喜び、歓迎するという精神現実に負けに行く」ドキュメンタリー制作の精神は、現代において重要な意味を持っているのではないだろうか。


[i] 『放送研究と調査』2019年4月号に、NHKドキュメンタリーの制作技法の中長期的な展開」という論文を掲載しました。NHKのテレビドキュメンタリーを対象にした初めての通史です。興味のある方はご一読下さい。

放送ヒストリー 2019年04月22日 (月)

#182 公共放送の内側から見た「放送制度」

メディア研究部(メディア動向) 山田 潔


「放送法の一部を改正する法律案」が3月5日、国会に提出されました。この改正案は、NHKのテレビ放送をインターネットで常時同時に配信できるようにNHKのインターネット活用業務の対象を拡大すること、また、関連団体も含めたNHKグループの経営の適正性を確保することなどに向けた制度整備を図るものです。電波による無線放送を行ってきた公共放送NHKを、インターネット動画配信が一般化したこの時代に、どのように対応させるべきか、現時点での「放送制度」が審議されています。

私たちは『放送研究と調査』2019年2月号から「シリーズ 証言を基に読みとく放送制度」の掲載を開始しています。これまでに何度も修正され、作り上げられてきた「放送制度」の形成過程を、学識経験者や、放送事業者、行政機関の関係者などからの聞き取りを基に検証するシリーズです。

初回は、行政法学者である塩野宏・東大名誉教授の証言でした。第2回は、NHKの経営企画部門で放送制度の見直しなどに関わった元NHK監事・黒川次郎氏の証言(『放送研究と調査』2019年3月号)です。

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証言する黒川次郎氏

黒川氏は、1960年代前半の放送法改正の動きに対応してNHKが設置した放送法制研究会の若手事務局員として、同じく若手研究員だった塩野氏を含む外部有識者による制度検討を間近で経験。その後も受信料体系の見直しや衛星放送開始に伴う制度的対応など放送制度に関する幅広い業務をNHKの中心として担いました。塩野氏とほぼ同時代に、放送制度の形成過程をNHKの内側から見てきた人です。黒川氏の証言は多岐にわたりましたが、今回は1970年代半ばまでを取りまとめました。

カラー放送や衛星放送が放送制度と関係が深いのはもちろんですが、証言を聞くと、一見あまり関係がなさそうな沖縄返還、地価高騰といった事象もNHKの経営にとって大きな影響があったようです。放送制度が技術や社会情勢と密接に絡んでいることがわかります。

「平成」から「令和」へ、いよいよカウントダウンが始まっています。新しい時代、放送はどのように役割を果たしていくのでしょうか。放送制度形成の経緯を、証言を通して立体的に知ることが、今後を考える一助となればいいのですが。

少し間をあけながら、シリーズは今後も続けていきます。
当研究所が届けるアナザー・ストーリー、ぜひ楽しんでください。

放送ヒストリー 2019年03月15日 (金)

#175 シリーズ「証言を基に読み解く放送制度」 スタート ~文研が届けるアナザー・ストーリー~

メディア研究部(メディア動向) 山田 潔


平成が終わり、1つの区切りを迎えようとする中で、いろいろな角度から「昭和そして平成がどういう時代だったのか」の振り返りがなされています。

戦後の昭和から平成にかけて、表現の自由と技術革新を反映しながら大きく成長し、人々にさまざまな情報を届けてきたメディア「放送」。戦後の焼け野原で流れたNHKのラジオ放送だけから、民放ができ、テレビジョン放送開始、それがカラー化し、BS、ハイビジョン、デジタル化、4K・8K、そして今、電波による放送に加えたインターネットの本格活用が模索されています。

日本の放送は、戦前の反省に立ち、豊かで多様な番組をあまねく届ける民主的な放送を目指して、受信料による公共放送NHKと、広告収入による多くの民放という財源を異にする二元体制を中心に互いに切磋琢磨しながら自律的に進んできました。一方で、放送を行うには、電波免許が必要なことや、番組内容についての政治的公平性確保といった規律が設けられるなど、他のメディアと少し異なった制度が設けられています。また、電波や受信機に関する技術規格、放送事業者の経営のあり方などの面でもこれらの要請を前提として考えられてきました。

今回はじめたシリーズは、こうした日本の「放送制度」がどのような過程を経て形成されてきたのかまた、関係者はどのように関与したのかこれまで必ずしも明らかになっていない点を、放送制度の検討に関わった方々の証言を基に読み解こうというものです。


シリーズ第1回(『放送研究と調査』2019年2月号に掲載)は、放送制度の根幹とも言える放送法についてです。放送法は1950年の制定後、改正規模は大小さまざまですが、2018年末までに実に60回も改正され現在に至っています。改正には、所管官庁、放送事業者の担当者、国会議員、放送制度に詳しい有識者など多くの関係者がそれぞれの立場であるべき放送の姿を求めて、関与してきました。

その中でも、理論的・体系的な法制度検討における法学研究者の存在は大きいです。今回は行政法学者として長年にわたり放送法制の研究に携わり、法改正に向けた有識者会議の座長を務めるなど検討の中心となってリードされた東京大学名誉教授・塩野宏氏に、ご自身が放送法に関わり始めた1960年代を中心に伺いました。

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証言する塩野宏氏

当時、民放の成長、テレビの普及という状況を受け、政府の「臨時放送関係法制調査会」に対応するため、NHKが独自に理論的検討を行った「NHK放送法制研究会」に若き研究者として参加された塩野氏。新憲法の下、放送の重要性に鑑み、勢い込んで参加されたかと思いきや……。話は聞いてみないと分らないものです。
歩く知性のような塩野氏ですが、私たちにも分かりやすくお話してくださいました。

当研究所が届けるアナザー・ストーリー 是非のぞいてみてください。
シリーズ第2回も『放送研究と調査』2019年3月号に掲載しました。4月に当ホームページでも全文公開されます。)

放送ヒストリー 2019年01月25日 (金)

#165 組織ジャーナリズムで働くということ

メディア研究部メディア史研究) 大森淳郎


朝日新聞が2008年に出した『新聞と戦争』という本(1年間にわたる同タイトルの新聞連載をまとめたもの)があります。「時代の軋みと記者たちの身悶え」(「はじめに」より)に光をあてた力作ですが、取材班は満州事変後の日本軍の中国侵攻を追認した事実を踏まえてこう書いています。「ペンを取るか生活を取るかは、ジャーナリズムとしての覚悟の問題に帰する」。あんな新聞を出すぐらいなら、なぜ先輩たちは会社を去るという選択をしなかったのかと言っているわけです。

これに対して、作家・井上ひさしは連載を高く評価したうえで、「だが私は、個々の記者は「生活」を取らざるを得ないと思う」と書いています。軍部が社会の実権を握ってからでは、個々の記者の抵抗も、いわんや新聞社としての抵抗も事実上不可能だったのであり、そういう中で「生活」を取った記者たちを、現在の視点から簡単に批判は出来ないだろうと井上は言っています。

 さてシリーズ 戦争とラジオ〈第4回〉では、戦時中の講演放送、学校放送を牽引した2人の人物に焦点をあてました。2人は、日本放送協会に入局する前は、片や詩人として日本の帝国主義を批判し、片や教育学者として国際平和を訴えていました。しかし、入局後は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続く戦争の時代、放送によって国民を戦争に動員することこそを自らの使命として語るようになってゆきます。でもそれは、丁寧に見てゆけば、やはり「身悶え」しながらのことだった。彼らにも「生活」があった。組織人として生きてゆくために彼らは、妥協し、信念を曲げ、「身悶え」しながら、流されてゆきました。そういう彼らを批判することは容易です。でも歴史から学ぶために本当に必要なことは、彼らの苦悩や葛藤を知ることのはずです。そして自分だったらどうしていたのか考えてみることだと思います。

 まるごと国家権力に取り込まれてしまった組織ジャーナリズムに身を置きながら、個々の記者が抵抗することなど不可能だった、そう言う井上ひさしは、「そうなってしまう以前、まだ批判を書けた時代にもっと頑張れなかったか、がポイントだろう」と記しています。私たちは今、どこにいるのでしょうか。戦争直前などと言うつもりは毛頭ありませんが、でも、沖縄、原発、そして憲法、大きな課題に直面していることは間違いありません。そして私のような放送現場の第一線から退いた人間の耳にも、そういう課題に取り組もうとしている後輩たちが組織とぶつかり葛藤する声が聞こえてこないわけではありません。組織ジャーナリズム(もちろんそれはなくてはならないものです)で働くとはどういうことなのか、時代を超えた問いです。

放送ヒストリー 2018年12月21日 (金)

#160 「ゼロからの出発」 ~戦後沖縄放送史を生きる~ 

メディア研究部(メディア史研究) 吉田 功                      

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「…珊瑚礁の島、沖縄島 ―1945年3月から6月まで約4ヶ月の間、この島の上皮に吹きまくって鉄の暴風はいかに激しく、いかに荒々しく、50万人住民を飢餓と、恐怖と、死の地獄に叩き込んだことであろう…」

戦後はじまったばかりのラジオ放送で、沖縄戦の様子を克明に記した戦記「鉄の暴風」を朗読した、戦後沖縄初のアナウンサー、川平朝清さん。当時24歳だったこの青年は、その後も一貫して沖縄全土に放送を広げることに奔走しました。現在91歳になられた川平さんの証言を軸に、沖縄の放送の歴史を辿りました。『放送文化と調査』12月号をごらんください。

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戦後史、と一口に言っても、沖縄と日本本土ではまったく違います。日本本土とは異なり、米軍統治下の沖縄には、住民の人権も、法で保障された自由もありませんでした。本土と切り離され、米軍の「軍事要塞」と位置づけられたのです。
放送の形態もまったく異なります。この変遷はかなり複雑です。あまり知られていない事実もあります。
そこで3日間、のべ10時間以上にわたり、広谷鏡子研究員とともに川平朝清さんにお話を伺いました。これと合わせて、できる限り関連資料を集め、戦後沖縄放送史の歩みをときほぐしてみました。

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証言のなかで、私がもっとも印象的だったものの一つは、1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が占領から脱した日の川平さんの記憶です。
研修のため沖縄を離れ、東京に滞在していた川平さんは「強いショックを受けた」といいます。


「(東京の)新聞を見たら、『日本はいかに幸いなところであるか。ドイツのように東西に分断されず、朝鮮のように南北に分断されず』と言ってるわけですよ。奄美大島や沖縄のことは、全く触れてない。『ドイツのようにならなかった。』…とんでもない。」

日本だって、奄美、沖縄は切り離されてしまったではないか。日本本土の人は、苦しみ続けている沖縄のことなど忘れてしまったのか…。50年以上たった今でも、川平さんはその日のショックと憤りを鮮明に覚えていました。

川平さんの証言は「昔のこと」なのでしょうか。私たちにはそう思えませんでした。それはまさに今、2018年12月に直結している。
はたして、私はいま何ができるのだろう。川平さんのインタビューを終え、本稿を自分で読み返してみて、自分を問い直しています。


放送ヒストリー 2018年08月31日 (金)

#142 「燃え残り」でも

メディア研究部(メディア史研究) 大森淳郎

今から73年前の夏、日本は戦争に負けアメリカ軍に占領されることになりました。
その直前まで、鬼畜米英、一億特攻を国民に呼びかけ続けてきた旧日本放送協会がまずしたことは、膨大な局内文書の焼却でした。東京・内幸町にあった放送会館は1週間にわたって黒煙に包まれたそうです。

今、NHK放送博物館の倉庫にある戦前・戦中の史料は、その時の焼却から奇跡的に免れたものです。もちろん、その中には、これだけは遺しておこうと考えた人によって守られたものもあっただろうし、秘密裏に所有していた個人から戦後NHKに寄贈されたものもあります。でも基本的には、今、私たちが手にすることができるのは敗戦時の焼却のいわば「燃え残り」なのです。

それでも、そういう「燃え残り」を丹念に読んでゆくと、時々、一つの史料が別の史料とつながって「ああ、そうだったのか」と納得するという経験をします。点と点が線でつながり、その線は別の線と絡み合う。そうして「戦時ラジオ放送」という面が少しずつ浮かび上がってくる。

今回(『放送研究と調査』8月号「シリーズ 戦争とラジオ〈第3回〉踏みにじられた声」)もそんな体験をしました。1932年に逓信省が全受信契約者120万を対象に行ったラジオに対する希望調査。その調査を主導した田村謙治郎という官僚は1934年に日本放送協会の中央集権化を断行しますが、その際に彼が日本放送協会定時総会で行った演説の速記錄、そして日中戦争勃発の翌年に情報局が行った「思想戦講習会」に於ける田村の講義録が残っています。これらがつながって線になるとき見えてくるのは、国民をそうとは悟られないように戦争へと導こうとする田村の放送戦略です。1934年の演説で田村は、放送局の職員は、まず、ジャーナリストの思想を棄てなければならない、とまで言っています。そして、そういう田村の、つまりは政府・軍の放送戦略は日本放送協会の全体で共有されてゆくことになりました。

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日本放送協会第8回定時総会(1934年)議事速記録

古今東西を問わず、その露骨さの程度に違いはあるにしろ、権力はメディアをコントロールしようとします。だからこそ、私たちは歴史から学ばなければならないのだと思います。

権力はやろうと思えばどこまでやるのか、そしてメディアはどこまで墜ちてゆくのか、「燃え残った」史料は、それでも聞こうと思えば聞こえる声で語っています。

放送ヒストリー 2018年05月25日 (金)

#126 NHK編集・発行放送史の視点と変遷

メディア研究部(メディア史研究) 吉田 功
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上記の4冊はすべて、NHKが戦後になって編集・発行した『放送史』です。どれも1000ページを超える「大著」。最も新しい『20世紀放送史』(右下・2001年刊)は、「上巻、下巻、資料編」で、総重量6.3キロにもなります。
お恥ずかしいことに、私がこれらを初めて目にしたのはNHKに入局して10年以上たってから。「テレビ放送開始50年特別番組」の制作支援を命じられ、これらの分厚い本を手にしました。

読み始めてみるとなかなか面白い。例えば、『日本放送史(25年史)』(左上・1951年刊)には、「(ラジオは)全家庭を講演場として知恵の美果を贈り、或いは全家庭を劇場として愉楽の泉に導いた」とあり、当時、ラジオが最先端の「エンターテインメントツール」だったことがわかります。また、『放送五十年史』(左下・1977年刊)は、オイルショック、公害が深刻になっていた時代を色濃く反映しており、放送(ラジオ、テレビ)による「情報」の氾濫は、国民にとって「情報公害」だと厳しい批判を浴びている、とまで書いています。時代によって、放送の受け止め方は大きく変わるんだなあと、そのとき痛感したことを覚えています。

さて、「歴史」と聞くと、「昔の話なんだから変わるはずはないだろう」というお考えもあるでしょう。
確かに過去の出来事が変わることはありません。しかし、誰が、いつ、その過去を見つめるかによって、そのイメージやとらえ方は違ってくると考えられます。たとえば江戸時代を例に考えてみます。100年前(大正7年)においては、古くさい封建主義の時代で “乗り越える”べき過去だと考える日本人は多かったと思われます。100年後(2118年)の日本人にとっては、逆に地域社会の絆が生きていた共生社会の時代ととらえられ、“学べる過去”と映るかもしれません。
歴史のとらえ方は、時代によって大きく変わると考えられます。歴史学ではこれを「まなざし」、「歴史観」、「視点」といったりするそうです。そこで、『放送研究と調査』5月号に掲載した「NHK編集・発行『放送史』の歴史的視点と変遷」では、それぞれの時代の「放送史」をひもといて、それぞれの時代における、放送へのまなざし、とらえ方に近づこうとしています。

インターネットを含めたこれからの新しいメディアを考える上で、これまでラジオとテレビが歩んできた歴史を検証することは欠かせないと私は思っています。最先端のメディアであった放送が成し遂げたこと、またできなかった課題を洗い出すことは、次世代にとって本当に有用なメディアを創る手かがりになると考えるからです。それには、まず、先人がどんな視点をもって放送というメディアを見ていたのかを知ることが、その第一歩になるのではないかと考えました。
東京・芝浦にあった社団法人東京放送局が日本におけるラジオの第一声を発したのが、1925年。それから間もなく100年がたとうとしています。ここであらためて、放送というもの役割、存在を見つめ直すきっかけになればと願っています。

放送ヒストリー 2018年04月27日 (金)

#123 「災害報道」の後に残された"モノ"の意味 ~特別展「東日本大震災」を振り返る~

メディア研究部(メディア動向) 入江さやか
メディア研究部(メディア史研究) 東山一郎

2011年の東日本大震災の災害報道に関わったNHKの各放送局や職員の手元には、取材のメモや写真など多くの資料が残されました。これらの資料は、未曾有の大災害の報道の背景を伝える貴重な「記録」であり、「記憶」でもあります。NHKではこれらの資料を収集、時系列・項目別・地域別にアーカイブ化し、 昨年NHK放送博物館(東京都港区)で開催した特別展「東日本大震災 伝え続けるために(2017年3月7日~9月10日)においてその一部を公開しました。
こうした取り組みはNHKでは過去に例がありません。そこで、特別展の概要と開催までの経過を総括した「災害報道資料のアーカイブ化と活用の試み」『放送研究と調査』4月号に掲載しました。

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NHK放送博物館で開催された特別展の会場

一口に「災害報道の資料の収集」と言っても、収集を始めた時点で大震災から5年近くが経過しており、容易な作業ではありませんでした。記者・キャスター・カメラマンなどに広く資料の提供を呼びかけたほか、仙台局・盛岡局・福島局に直接足を運び、居室から地下の倉庫まで、時にはホコリにまみれながら「探索」しました。

「特別展」では、東日本大震災の発生した瞬間をとらえた各地の映像、取材にあたった記者やカメラマンの手記、被災地の取材前線の「引き継ぎメモ」に記された若い記者の思い、被災地などからNHKに寄せられた救援を求めるFAX、東京電力福島第一原発事故の状況を解説するためにスタジオで使用した模型など、約100点を展示しました。
特別展開催期間中の放送博物館の来場者は6万4,952人。特別展についてのアンケートを実施したところ、3,360人から回答をいただきました。「印象に残った資料や展示物は何か」という問いに対しては「東日本大震災大震災発生時の映像」25%で最も多く、次いで「被災地の写真と記者・カメラマンの手記」12%「記者の取材ノートやメモ」が9%でした。
アンケートの自由記述を整理すると、震災の記憶の風化を懸念し「これからも伝え続けてほしい」という趣旨のコメントが60件以上ありました。また、同様の展示を「全国で」「常設化して」という意見も目立ちました。

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特別展は昨年9月に閉幕しましたが、2018年2月にオープンしたNHK仙台放送局の新放送会館に設けられた恒久的な「東日本大震災メモリアルコーナー」にその一部が活用されています。さらに5月6日までは企画展「東日本大震災を伝え続けるために」も開催されています。

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NHK仙台放送局での企画展(5月6日まで)

「放送」、その中でも「報道」は、常に新しいものを追いかける仕事であるだけに、過去の資料の大半が置き去られ、消え去っていきます。しかし、それらの中にも見る人の心に響くものがあるということを私たちは学びました。
東日本大震災から7年。「伝え続けてほしい」という多くの人々の声にどのように応えていくか。これからも模索を続けていきます。

放送ヒストリー 2018年04月20日 (金)

#122 ドキュメンタリーの「作品性」 

メディア研究部(メディア史研究) 宮田 章

テレビ番組には作品性が濃いジャンル薄いジャンルがあります。

たとえばドラマは作品性が濃いジャンルです。ドラマの1カット1カットは基本的にすべて、作り手(俳優を含む)の思惑が映像・音声として具現化したもので、まぎれもない作り手の産物(作品)です。ドラマ作品を支えているのは作り手の優れた技巧(創造力)に裏付けられた表現としての魅力です。一片のフィクション(虚構)であるドラマが、現実、あるいは現実に取材した番組に伍していくためには、表現としての独自の魅力が必要です。ドラマの作り手に現実の取材力は求められませんが、魅力的な虚構を構築する創造力は必須です。

反対に、ニュースは作品性が薄いジャンルです。ニュースの中身は、ニュース記者の思惑とは関係なく存在している事実・現実です。ニュース記者の仕事はこれをできるだけ客観的に記録して人々に伝えることです。ニュースは作品ではなく記録であり、原理的に言えば、個々のニュースは、それが記録した事実の力以外に表現としての魅力をもつ必要はありません。ニュース記者に取材力は必須ですが、創造力はむしろ抑制の対象です。

では、ドキュメンタリーはどうでしょう?
結論から言うと、ドキュメンタリーはドラマのように「作品」でもあり、ニュースのように「記録」でもあるという、「どっちつかず」あるいは「どっちもあり」のジャンルです。ドキュメンタリーの作り手がいくら作品を作ろうとしても、取材対象である現実は、作り手の思惑とは違う、あるいは作り手の思惑を超えたものを必ず含んでいます。つまり、現実に取材して得た映像や音声は必ず記録性を帯びます。逆に、作り手がいくら記録を標榜しようと、ドキュメンタリーは、その作り手が(しばしば意識せずに)依拠している視点や手法の産物であることから逃れることはできません。つまり、得られた映像・音声は必ず作品性を帯びるのです。作品性と記録性が混在し、常にせめぎ合っているジャンル、それがドキュメンタリーです。

筆者(宮田)は、作品性と記録性がせめぎ合うところから生まれる、ドキュメンタリー独特の現実表現に強い魅力を感じます。ドキュメンタリーの魅力は多彩です。作品性より記録性が勝るタイプ、反対に、記録性より作品性が勝るタイプ、いずれのタイプにも多くの秀作、傑作が存在します。過去のドキュメンタリーを見ていると、この作品性と記録性のバランスは、テレビドキュメンタリーが誕生した1950~60年代から、同時録音技術が普及した70年代、そして現代に至る大きな時間の流れの中で、ゆっくり変化しているように感じます。

『放送研究と調査』4月号に発表した論考(「データから読み解くテレビドキュメンタリー研究」)は、作品性と記録性のせめぎ合いの一端を、数量的データを用いて可視化する方法を示したものです。興味を持たれた方はご一読ください。

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放送ヒストリー 2018年04月13日 (金)

#121 「ゆり戻し」としての戦前の「講談調」野球実況人気

メディア研究部(メディア史研究) 小林利行

「ジュラシック・パーク」(1993年公開)という映画をご存じですか。
DNA操作で恐竜を現代によみがえらせてテーマパークを作ったものの、恐竜が暴走してパニックになるという物語です。当時大ヒットして、今でも続編が作り続けられています。
CGを駆使したリアルな恐竜の映像が話題になった映画ですが、私にはそのこと以上に心に残っている場面があります。
恐竜をよみがえらせた科学者たちは、パーク内で恐竜が勝手に繁殖しないようにメスだけを造り出しました。しかし主人公たちは、恐竜から必死に逃れている途中で「」を見つけるのです。これは、「カエルのメスだけを長期間隔離しておくと、種の保存の本能から一部がオス化して繁殖が可能となる」という事実をベースとして原作者が創作したものですが、人間が「自然」を無理やりコントロールしようとすると、何らかの「ゆり戻し」が起こるということを強烈に印象付けた場面でした。

一見かけ離れた話なのですが、今回私が戦前の「講談調」野球実況人気の背景を調べていくうちに思い出したのが、この「自然を無理やりコントロールすること」と「ゆり戻し」の関係だったのです。

1930年前後、日本放送協会の松内則三アナウンサーの「講談調」の野球実況(以下「野球話術実況」)が大人気となりました。これはレコードにもなって、10万枚売れれば大ヒットといわれた時代に歌謡曲でもないのに15万枚も売れました。そのアナウンスは、事実を客観的に描写する“実況”というよりも、おおげさで創作的なまさに“講談”に近いものでした。
先行研究では、この人気の背景について「講談調」という日本人になじみのある口調だけに言及したものが多いのですが、私はまず「当時どんな番組がどのような割合で放送されていたか」に注目しました。

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グラフを作ってみると、娯楽番組が減少する時期と「野球話術実況」の全盛期が重なっていることが分かりました(当時、日本放送協会は “実況”を「報道」に分類していました)。
さらに調べてみると、良し悪しは別として、「娯楽」が少ないというこの状態は、聴取者の希望や外国の放送局との比較から見るとかなり不自然であることも明らかになりました。当時の聴取者調査の結果では、「娯楽」の希望が「報道」や「教養」を大きく上回っています。また、多くの欧米の放送局では、プログラムの大半を「音楽」が占めていたのです(ちなみにアメリカの聴取者調査で希望が多いのも「音楽」でした)。

これらのことから、ジュラシック・パークの「卵」にあたるのが「野球話術実況」ではないかと思ったのです。つまり「野球話術実況」は、やや無理のあった放送番組の割合の中で発生した「ゆり戻し」なのではなかということです。

『放送研究と調査』4月号では、このことを頭のすみにおいて、この時期の放送に「娯楽」が少なくなった理由や、その穴を埋めるようにエンターテインメント化した野球実況の背景について論考しています。
みなさんも、「これは一種のゆり戻しだな~」と感じられるかどうか、ぜひ一読してみてください。

最後にちょっとだけ。
「野球話術実況」の人気が終息する1934年から終戦(1945年)にかけて、「娯楽」は少ないままなのに、(少なくとも私の目には)「ゆり戻し」現象は見られなくなります。「野球話術実況」の検証を通して、これ以降のラジオ放送が、「ゆり戻し」が発生するスキさえないほど戦争遂行のために統制されたものだったと改めて感じました。