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北九州ラヴァーズ#26青山真治さん/映画監督

映画に刻んだ北九州
  • 2024年03月13日

北九州市門司区出身の映画監督・青山真治さん。「Helpless」「EUREKA」「サッド ヴァケイション」など、北九州を舞台に多くの作品を手がけ、国内外から高い評価を受けてきました。しかしおととしの3月、病気のため57歳で亡くなりました。生前のインタビューや去年12月に行われた企画展などから、青山監督がふるさと北九州に抱いていた思いをひもときます。(北九州放送局 大倉美智子)

ふるさとで開催「青山真治クロニクルズ展」

2023年12月開催「青山真治クロニクルズ展」

2023年冬、北九州市で「青山真治クロニクルズ展」が開催されました。会場には愛用品や手書きの原稿など、映画監督・青山真治に迫る貴重な資料の数々が並びました。オープニングセレモニーには、妻で俳優のとよた真帆さんも駆けつけました。

俳優 とよた真帆さん

(とよた真帆さん)
青山の作品の断片とともに青山が愛した北九州、青山真治を感じていただければ幸いです。

青山真治監督

1964年に門司区で生まれた青山さんは、大学在学中に映画を撮り始め、1996年に「Helpless」で長編映画の監督としてデビューしました。代表作の「EUREKA」はバスジャック事件で心に深い傷を負った運転手と、バスに乗り合わせたきょうだいが、心の再生を求めて旅をする物語で、カンヌ映画祭で国際批評家連盟賞を受賞し、青山監督の名を世界に知らしめました。受賞式での青山さんは、はじける笑顔を見せ「世界中の人たちが認めてくれたってことが、大きな幸福になっていますね」と語っていたのが印象的でした。

カンヌ授賞式の青山監督(2000年)

“良くも悪くも北九州を描くのが僕のライフワーク”

青山監督が残した映画は25年間で約50本。デビュー作をはじめ多くの作品の舞台となったのが、ふるさと北九州でした。

青山監督(2001年)

僕にとってはすごく動きやすい、自由に呼吸しやすい場所なんです。それと同時に押しつぶされてしまいそうな気もする。その両方があって、アンビバレント(相反する)な思いを持っているのが北九州の風景です。

なかでも「北九州サーガ」と呼ばれる3部作のひとつで、2007年に公開された「サッド ヴァケイション」は、全編が北九州で撮影されました。浅野忠信さん演じる主人公が自分を捨てた母親への復讐を企て周囲を巻き込んでいくストーリーで、若戸大橋のたもとの運送会社を舞台に、社会で居場所を失った人々が集い、さまざまな人間模様が繰り広げられます。

青山監督(2007年)

北九州の風景は、僕が子どもの頃とまるっきり変わってしまっていた。当時の自分はそういう風に変わってしまった北九州を、ある種、憎んでいたというか、憎むというか悲しく見ていた。北九州を象徴するものってなんだろうって、ロケハンしながら巡ってて、若戸大橋がどーんと、これが時代の遺物として残り続ける北九州の象徴だなと、これを背景に映画を撮ればいいんだって思った。

「北九州しねま研究会」 吉武あゆみさん

青山監督と20年来の親交がある「北九州しねま研究会」の吉武あゆみさんは、北九州を中心に青山作品のロケ地を100か所以上訪れる中で、監督の「場所」を切り取る嗅覚に驚いたといいます。

吉武さん

新日鉄とかあって、日雇い労働者がとってもたくさん住んでいたし、背景の若戸大橋と、土地が持っている歴史が寄る辺のない人たちが来るところに最適なところだと見つけた。ここを撮ってくれと場所が言っていて、それに呼応して撮っているからこそ、北九州の話でもあるけど、普遍的なテーマをちゃんと撮れたんじゃないかと思います。

「サッド ヴァケイション」公開当時のインタビュー(2007年)

さらに「場所」ととともに、青山監督がこだわっていたのが「方言」です。映画の中で北九州の方言を巧みに響かせることで、セリフだけでは表しきれない情感を生み出してきました。

青山監督(2007年)

北九州というものの意義を自分なりに考えることができるようになっていった。改めて、その土地の特異性がある、映画で見たいなと思える人物像、いかにも北九州の人間、いかにも北九州の男、実際にいるとすごくうっとうしいけれど、憎みきれないろくでなしというか、しょうがねーなと言いながら付き合わざるを得ないやつ、結局そういう人間性みたいなものを表しているのは言葉なのかもしれない。少なくとも北九州でつくるときは自分が大好きな人たちをキャラクターとして出す、そこだけはこだわりたかった。

“鎧(よろい)を脱ぐ場所” 北九州

映画製作に没頭し、多忙な日々を送った青山監督ですが、北九州に戻ると幼なじみや映画ファンたちと酒を酌み交わしていたそうです。

吉武さん

北九州でお会いする監督は鎧を脱いでいる。一般の人と話すことで憩いになっていたんじゃないかと個人的には思います。吸収しに来ていたのかもしれない、ぐだぐだ話すなかで、情報を得ようとする部分もあったかもしれないですね。

監督のことを最も近くで見てきたとよたさんも、青山監督が抱いていたふるさとへの思いを語ってくれました。

とよたさん

監督と結婚してから、ここが通っていた小学校だよ、中学校だよとか、いろいろ回ったんですね。それと重ね合わせて映画をみると、監督の思い出みたいな、断片とかが感じられて、青山イコール北九州、青山もそう思っていたと思います、自分自身の大本をつくったところなので。ふと、最後は九州に帰ろうかなと話したことがあったんです。北九州で晩年を過ごそうと頭の中にはあったはずなんです、体と魂をつくったところなのですごく愛していたと思います。

「良くも悪くもありのままの北九州を描くのが僕のライフワーク」と語っていた青山監督。
彼が愛した北九州の姿はその作品の中に生き続けています。

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  • 大倉美智子

    北九州放送局・記者

    大倉美智子

    「北九州サーガ」では、ストーリーもさることながら、北九州や九州各地の風景が随所に出てくるのが見ていて楽しかったです。俳優の光石研さんが「くらすぞ、キサン!」と何度も言うのがとっても好きです。

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