北九州ラヴァーズ#20 僕の原点は北九州/Chageさん
- 2023年09月29日
ことし歌手デビュー44年のChageさん。出身は北九州市。小倉で小学5年生まで暮らしました。Chageさんにとって、ふるさと北九州はどんな場所なのか。ゆかりの地を巡りながら、たっぷり語ってもらいました。
人生初!「講師 Chage」
「Chageさん!どうぞー」北九州市制60年を記念した講演会に招かれたChageさん。歌一切なしの「講師」として招かれるのは、生まれて初めてだそう。おしゃべりだけの1時間に最初は少し緊張していた様子でしたが、幼いころ、小倉祇園太鼓のある7月が楽しくてしょうがなかったと生粋のお祭り男のエピソードを披露して場を沸かせました。
おふくろから聞いた話なんですけど、2歳くらいの時、家から秀之(本名:しゅうじ)がいなくなったと。どこに行ったっちゃろうかと探したら小倉祇園太鼓の練習場に黒山の人だかりがあって。そしたら僕がぴょんぴょん跳ねながら太鼓をたたいてて、やんややんやの拍手をもらってたと。これが僕が拍手をもらう喜びの原点ではなかろうかなと。
Chageさんは昭和33年生まれ。高度経済成長期に、北九州市で小学5年生まで過ごしました。
青空をあんまり覚えてないっていうか、なんとなくすすけてる。工場の煙ですよね、やっぱり。筑豊から石炭が運ばれてきて鉄を作って日本がどんどん急成長してた。北九州の工業地帯は日本の経済を支えたんですよ。今でも誇りに思います、すごい時に北九州にいたんだなと。あまりにも強烈な小倉で過ごした10年間、あったかい10年間ちゅうのはほんとに忘れられないんですよ。
野球少年 Chage
北九州で過ごした少年時代、どんな生活を送っていたのか、ゆかりの地をChageさんに案内してもらいました。向かったのは小倉の裁判所付近でした。当時黄金時代を迎えていた西鉄ライオンズのロゴ「NとL」の野球帽をかぶって野球をしていたそうです。
物心ついた時から野球をやってましたから。裁判所は土日休みなんで駐車場でキャッチボールができるんですよ。キャッチボールするには最適な場所で、車もないし。こういう植木は当時もありました。ここにボールが入ってよくなくすんですよ。探すの大変なんですよ。キャッチボールと球探しの時間、どっちが長いのかわかんないみたいなね(笑)
当時、野球用品はとても大切で高価なものだったと言います。
僕はとにかく兄貴のお下がりで、バットとかはふつうのスポーツ店では高くて買えないから、質屋で親父が買ってきてました。ボールは駄菓子屋で軟球を買って。グローブをね、グロースを一生懸命塗って磨いて布団の下に置いとくんですよ、そしたら形がきれいにグローブが合わさった形になるんですね。そういうことをやった覚えがありますね、それくらい大切なものだった、高価なものだったから。
裁判所から少し歩くと、家の近くの路地裏も当時の面影を残したままひっそりとありました。
ここ、変わってません。ここでキャッチボールよくやってたんです。面影あります。雰囲気は残ってます。当時のままの道路ですわ。子どもは大きい道じゃなくてこういう細い道でキャッチボールしてたんですよ。車が来ないから。こんなに狭かったんだ、当時はすごく広く感じましたけどね。ほんとに路地裏の少年ですね。
思い出いっぱい「旦過市場」
次に向かったのは旦過市場。そこにはたくさんの思い出がありました。
旦過市場、懐かしいですね。当時は入口に屋台があって、おつかいで鍋を持たされておでんとおはぎを買いに来て。すごい組み合わせでしょ?おでんとおはぎ、僕、青のりのやつ好きでね(笑)家族で来るときは親父が料理人だったんで魚とか目利きして、かっこいいなって思ったり。焼き鳥とかコロッケを食べたり。ほんとに年末年始とかすごいんですよ、もう歩けないくらいですよ。北九州の台所っていうくらいみんなここに買いに来るんですよ、安くて威勢がよくて、お店の人もおまけしてくれるし(笑)
まるで迷路のような旦過市場は、Chage少年にとって遊び場でもありました。
こういう路地に入っていって駆けずり回るわけですよ。こういうところで追いかけっこ、かくれんぼしながら店の人に怒られると。案の定怒られるということを繰り返しておりましたね。いやあ懐かしいですね、いつ来てもここは。そのまんまなんですよ、僕が子どものころのまんま。子どもの遊び場としてはかっこうの場所だったんですよ。ちょいちょい怒られてましたけどね、それでも楽しかったですね。懐かしいなあ、ほんと。もう声が聞こえてきそうですもん。
二度の火災に見舞われた旦過市場。その光景はChageさんにとってショックなものでした。
ニュースを見た時がく然としましたよね、見慣れた景色がなくなってるんで。映画館の「小倉昭和館」にも親父と映画を見に行ってましたから。なんかね「昭和館」行くと子どものころ大人な感じがして、あそこの映画館に入るだけで。あの頃はまだ映画が娯楽でたぶん怪獣シリーズとか、ゴジラとか見てました。またここが復興されるっていうことで微力ながら応援したいし、たくましく復興していくのは見届けたいですよね。活気がかえってきてほしいから。
かっこよかった大人たち
Chageさんにはもうひとつ忘れられない光景があると言います。それは現在のJR小倉総合車両センターの入口で見た景色でした。
朝、どわーっといたるところから工場の人たちが入ってくるわけなんですよ、もうすごい数なんですよ。労働者が工場になだれ込んでいく。それを子ども心に見てすごい光景だと。さんさんたる光の中を揚揚と進んでる感じがすごくするんですけども。空は曇ってたけど、働くお兄さんたちの背中が輝いていてそれをすごく覚えてます。
Chage少年が見ていたのは当時の国鉄小倉工場の朝の出勤風景。昭和30年代、およそ3000人が働いていました。
仕事が終わるとお兄さんたちはそのまま焼酎をあおるために角打ちになだれこんでいくんですよ、僕ら子どもはそろっとついていくんですよ。そしたらお兄さんたちに「おう!秀之!」とか言われて油まみれの手でさきイカとかピーナッツをくれるんですよ。それがまたうれしくて。とにかく大人たちがかっこよかった。日本全体が貧しいんですけど北九州、この街は日本の経済を“おっしょい”と持ち上げていった場所ですから活気がありましたね。
そして生まれた“NとLの野球帽”
♪ 大人たちは働いたんだ 鉄くずにまみれ働いたんだ 豊かな暮らしに憧れて 昼も夜も
咳込みながら 俺も 大人になったんだ ♪
楽曲「NとLの野球帽」の一節です。Chageさんが27年前、ふるさと北九州をテーマに書いた曲です。
NとLの野球帽をかぶってた自分の少年時代を書いてるんですけど。当時、工場で働く大人たちがほんとにかっこよくて、その背中が自分たちが日本を支えてる感じが今考えるとあるわけです。「NとLの野球帽」を歌うたんびに小倉が浮かんでくるんですよ。歌詞をそしゃくしてみるとああ、北九州で育ったんだなと。生まれ育った自分の街がとても大切なんだ、いとおしいんだとすごく感じて。だからここに住んでなかったらあの曲は生まれてないわけじゃないですか、それを考えるとこの巡りあわせはすごいと思って、ここがなかったら僕の原点はないわけだなと改めて思います。ほんとに音楽やってなかったかもしれない。
♪ 舵の壊れたこの俺は何処へ行く 迷っては 壁の写真に見つめられる
俺が笑ってる 俺が突っ立ってる 大事そうにシャッターを押す 親父を覚えてる ♪
「NとLの野球帽」はChageさんにとって励まされる楽曲だと言います。
大人になって自分がいろんな困難にぶち当たるじゃないですか、そのたびに親父が撮った写真を壁に貼ってたんですね、それを見てニコニコと笑ってる野球小僧の僕がいて、キラキラしてて。そんな写真を見て「しっかりしろ」ってことで書いた曲だから。ものすごく背中を押される楽曲ですね。
ふるさと北九州へメッセージ
「僕は祭りが好きですから、小倉祇園太鼓の祭囃子じゃないけど、やっさやれやれじゃないけども、ああいう感じでみんなで発展していくとさらにいいかなと思いますね。人も気さくだし人情もあるし、食べ物はおいしいし。堂々と胸を張って北九州の街の文化を僕は誇れると思うし、ひと時代築いた街ですから、日本を支えた街だと思いますんで。なくなってますよ、景色やいろんな僕の思い出も。でもそのマインドは残ってるわけですから前向いてポジティブにこれからも行きましょうって、一緒に歩いていきましょうっていう感じはほんとにしますよね」