'
日曜美術館サイトにもどる
アートシーンサイトにもどる
2020年11月 8日

コラム 辻晉堂が「オブジェ焼き」に及ぼした影響

11/8 放送「マグマを宿した彫刻家 辻晉堂」ではサグラダ・ファミリア主任彫刻家の外尾悦郎(そとおえつろう)氏が辻晉堂のかつての教え子で感化を受けたことがクローズアップされました。また、異才・辻晉堂は陶芸の分野にも影響を及ぼしています。

tsuji01.jpg
1956年の陶彫作品「時計」。1957年のサンパウロ・ビエンナーレにも出品。

「オブジェ焼き」誕生の背景に辻晉堂の陶彫があった

彫刻を始めた当初、辻はロダンの影響から出発し、卓抜した写実能力によって木彫界の重鎮、平櫛田中に「木彫界の将来辻をおいて他に期待すべき木彫人はないとまで私は口外して憚らなかつた」と言わしめました。

しかしその後辻は、私淑していた仏教学者・岸沢惟安から贈られた言葉「忘れるだけ忘れてしまって、そして残ったものを表はせ」に背中を押されるように、写すことにとらわれて作ることを止め、自由なイメージで造形をするようになりました。そして生まれたのが辻晉堂の代名詞とも言われる「陶彫(とうちょう)」の作品群です。辻晉堂は戦後、京都市立美術大学(現在の京都市立芸術大学)の助教授に抜擢されましたが(のちに教授)、大学は京の伝統的な焼物・清水焼の中心地である東山にあり、「京都の焼物産地に住んでいる関係で次第に(陶彫に)興味が高まってきた」(『泥古庵雑記』より)のでした。

陶芸に対しては専門知識も経験もなく、けれどもそんなことはお構いなしに、自由に造形をし京焼の共同窯に入れて焼いてもらいました。成形の仕方も大きさも窯業の世界の常識からすると「デタラメで乱暴」と見られ、きちんと焼けるものか……と冷ややかな目も向けられていたようです。しかし言い換えれば、常識に縛られることなくできたのです。結果、辻晉堂の陶彫の作品はグッゲンハイム美術館の学芸員の目にとまり、ニューヨークでのグループショーに展示されました。また1957年サンパウロ・ビエンナーレ、1958年はべネチア・ビエンナーレと、立て続けに海外の国際展に選ばれスポットを浴びました。

既存の通念にとらわれない辻の陶彫は、京焼の伝統的な陶芸家の家に生まれながら因習からの脱皮を図ろうとしていた若い陶芸家たちのグループにも刺激を与えました。1948年に結成された「走泥社(そうでいしゃ)」がそれで、八木一夫、鈴木治、山田光などがいました。そのリーダー格の八木一夫は辻晉堂と特に親しく(同じ京都市立美術大学の教師仲間でもあった)、年は10歳近く八木が下ですが無類の仲良しだったそうです。

八木一夫と言えば、器としての用途を捨て純粋に立体造形としての芸術性を求めた「オブジェ焼き」の創始的存在の前衛陶芸家として知られています。今日、オブジェは陶芸作品のいち表現として確立されていますが、そのルーツを辿れば八木一夫たちの「オブジェ焼き」に行き着きます。そしてその誕生の背景には、辻晉堂の陶彫が大きく関係していたのです。

tsuji02.jpg
「走泥社」の陶芸家たちはイサム・ノグチや辻晉堂から影響が濃かったと言われる。辻はイサム・ノグチとも交流があった。写真は、辻が1965年11月、東京の壹番館画廊で個展を開催したときのスナップ。左よりイサム・ノグチ、中央が辻晉堂。右は洋画家の堂本尚郎(ひさお)。

展覧会情報

「生誕110年記念 異才 辻晉堂の陶彫」
10/31-11/23
美術館「えき」KYOTO(京都)