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2016年6月26日

第12回 横浜へ 宮川香山と眞葛焼を探す旅

リアルな生き物が飛び出してくるかのような強烈なインパクト――。

激動の明治に生きた陶芸家・宮川香山(みやがわこうざん)は技巧を極め、新たな陶芸の可能性に挑戦し続けました。
今回の「出かけよう、日美旅」は、宮川香山が創始した眞葛焼(まくずやき)誕生の地・横浜に、その面影を訪ねます。

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(左)宮川香山が発展させた「高浮彫」(たかうきぼり)による大花瓶。(右)主役の鷹(たか)以外にも様々な生き物が。横浜・眞葛ミュージアム。

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焼きものの発祥地は日本全国に数多くあれど、横浜とは意外な印象かもしれません。

宮川香山自身、生まれたのは京都の眞葛ヶ原(現・東山区)です。
代々陶芸を生業とする家で、幼い頃から才能を現した香山は、幕末から明治維新へ向かう激動の時代に若き日を過ごします。ちょうど社会の変化の影響を受け、京都の陶芸が衰退した時期でした。

29歳の時、薩摩(さつま)の商人・梅田半之助からの依頼をきっかけに、香山は横浜に移住します。
陶芸が国家的な輸出品に成長する可能性を信じたゆえの決断でした。
翌年、開港から約10年を経た横浜に窯を築き、眞葛焼(まくずやき)を創始します。
当時、西欧で人気を集めていたのは、金の装飾を多用する薩摩焼でした。薩摩焼を意識しつつも、香山は金彩に頼らない技法を完成させます。彫刻的な半立体による装飾、高浮彫(たかうきぼり)です。
高浮彫の作品は、フィラデルフィア万博などでの受賞を通して、世界から熱い視線を集めるようになりました。
まずは“陶芸が到達した最高峰”と言われる作品の数々を堪能しましょう。

宮川香山 眞葛ミュージアム

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眞葛ミュージアムは土日のみ開館。「海に面したこの場所で、世界に挑戦した香山が作品に込めた想いを感じてほしい」と山本博士館長。

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鼻をひくつかせているネズミや実物大のワタリガニによる装飾に目が奪われる。ちなみに、ワタリガニの花瓶の裏側にあしらわれているのはサザエ。

横浜駅東口からほど近い、海に面したヨコハマポートサイド地区にある眞葛焼専門の美術館を訪れました。
展示室に足を踏み入れるなり、小動物や植物などが作品から飛び出してくるような高浮彫の細工に目が釘付けになります。
例えば、崖で羽を休める鷹が表現された一対の大花瓶。鷹の勇壮な姿に見入りつつ、作品全体をじっくり眺めていると、時の経つのを忘れそうになります。
崖下の小滝のほとりの部分にハチドリが舞っていたり、洞穴でツキノワグマが子育てをしていたり……。細部も凝っていて、ストーリー性すら感じるほどです。

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(左)香山が完成させたもうひとつの技巧、釉下彩(ゆうかさい)の作品。(右)窯場から出土した眞葛焼の破片も展示されている。周囲で工事があると今でも出土するという。

展示空間はコンパクトですが、高浮彫作品のほか、後に香山が完成させた釉下彩(ゆうかさい/透明の釉薬の下に絵付けを施す技法)作品や茶器、晩年の水墨画など、実は驚くほど多岐にわたる制作を続けた香山の作家像がイメージできる展示になっています。

なお、横浜・馬車道にある神奈川県立歴史博物館でも常設展示で眞葛焼を見ることができます。ただし、現在同館はリニューアル中。2年後の2018年4月末から再び開館の予定です。

香山が生きた明治、「太田(窯場があった横浜の地名)の魔術師」を海外から訪問するコレクターは引きも切らなかったと伝えられるほど、眞葛焼の栄光は華々しいものでした。
1916年に初代香山が他界した後は、息子の半之助が二代目、孫の葛之助が三代目の宮川香山を継承します。
しかし、1945年の横浜大空襲で窯場が破壊され、三代香山と家族および職人計11人を失った悲劇の後、眞葛焼は歴史の表舞台から次第に姿を消し、その名前も忘れられていきました。
戦後まもなく、三代目の弟・智之助が四代目として再興をめざしますが、願いはかないませんでした。

注・このブログでは、初代宮川香山について、初代を省略して表記します。

神奈川県庁本庁舎

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「キングの塔」という愛称をもつ神奈川県庁本庁舎。

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(左)本庁舎旧貴賓室(第3応接室)の飾り棚に飾られている眞葛焼。(右)棚右下の香炉。鳳凰(ほうおう)が華やかに彩られている。

かつて世界的に知られた眞葛焼の栄光は幻だったのかと思うほど、ゆかりの場所が現在は失われています。戦争が残した爪痕の大きさを思わずにはいられません。

しかし、横浜の歴史的建造物としてよく知られる場所に、今も眞葛焼が大切に守られています。

眞葛焼が欧米の港へと旅立った横浜港。その横浜港発祥の地に面した、神奈川県庁本庁舎旧貴賓室(第3応接室)にある飾り棚に、眞葛焼の香炉などが収められています。
この旧貴賓室、調度品は建物が竣工した昭和初期のまま保たれています。その年代から、作品は二代香山によるものと推測されています。
眞葛焼の輝きはミナト横浜のランドマークを彩ってきたのです。

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(左)日本大通りを進むと目の前に横浜港。開港期にはじめて波止場ができたのはこの辺り。(右)文明開化の味、牛鍋で腹ごしらえ。

眞葛焼窯場跡、宮川香山の墓

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眞葛焼窯場跡。現在は一部のれんがが残るのみ。

マニアックかもしれませんが、横浜市内に残る眞葛焼の窯場跡をどうしても訪ねてみたくなりました。
京浜急行横浜駅から4駅、南太田駅から北東方向の小高い丘の上に、庚台(かのえだい)という場所があります。急な坂の曲がり角に面した一角がかつての窯場跡です。

洋画家・有島生馬(志賀直哉などと共に白樺派を結成した明治の小説家・有島武郎の弟)は、税関長だった父に連れられ眞葛焼窯場を子どもの頃に訪れたことがあり、「日本陶器のため」と気を吐き制作する香山の様子について「近頃のピカソの写真を見るよう」と回想しています。
「ぴかぴかと光るはげ頭」と眼光の鋭さは有島の目に強烈に焼き付いたようです。
少しでも気に入らない作品は、来客の前であろうと瞬時にたたき割るほどの完璧主義だった香山。そのため、窯場には眞葛焼の破片が砂利のように積もっていたそうです。
その苦闘の歴史に思いをはせると、窯場跡というより古戦場にいるような気分になりました。

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(左)横浜を見下ろす広大な久保山墓地。(右)香山の墓。墓碑銘は「帝室技芸員従七位宮川香山奥都城号眞葛」。

この窯場跡から起伏に富んだ道を15分くらい進むと、広大な久保山墓地に着きます。

街を見下ろす斜面に、明治以来の膨大な数の墓碑が広がるこの場所に、香山の墓はありました。
横浜に骨を埋めた陶芸家の大きな墓銘碑には、「眞葛」という号がはっきりと刻まれていました。
とにかく広大な墓地なので、お参りをする場合は事務所で場所を尋ねてからにすることをおすすめします。

三溪園

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池の周りを彩る花しょうぶは日本庭園を代表する植物。花しょうぶそのものも、眞葛焼のように明治期に欧米で人気を博した。横浜港から大量のしょうぶ根が輸出されたという。

超絶技巧とともに、香山の作品の大きな魅力は、何と言っても自然への細やかな眼差しにある気がします。

より生き生きとした表現を追求するために、眞葛焼の工房では鷹をはじめ様々な動物を飼育し、職人たちは日々観察を欠かさなかったそうです。

1880年代のはじめ、香山はそれまでの高浮彫による半立体の表現から、繊細な植物の文様の作品に作風を一変させました。
その理由には、高浮彫の制作があまりに時間的にコストがかかるものだった、ということと、欧米のコレクターの好みの変化が挙げられます。
香山が新たに生み出した、植物の微妙な質感を色彩のグラデーションでみずみずしく表現する釉下彩の作品は、シカゴ万博などで高い評価を受けます。高浮彫の作品の後も、香山が巧みに捉えた自然は海外の愛好家を魅了したのです。

香山のまなざしを追体験してみたくて、横浜駅からバスに約30分揺られて三溪園を訪ねました。
広大なこの庭園は、明治期に生糸輸出で大成功を収めた実業家・原三溪によって造成されました。
訪れた日、香山が好んで描いた花しょうぶが池のほとりで咲き誇っていました。
花しょうぶの季節が終わると、香山が最もよく作品に登場させた植物のひとつ、はすの開花シーズンが訪れます。
輸出品としての陶芸の可能性に挑戦した香山。彼が変わらず表現し続けたのは自然でした。この庭園にたたずみ、香山の作品が世界の人々の共感を呼んだ理由が実感できた気がしました。

住所/交通

●宮川香山 眞葛ミュージアム 横浜市神奈川区栄町6-1 1F-2/JR横浜駅東口から徒歩7分
●神奈川県庁本庁舎 横浜市中区日本大通1/みなとみらい線日本大通り駅県庁出口からすぐ
●眞葛焼窯場跡 横浜市南区庚台6/京浜急行南太田駅から徒歩10分
●宮川香山の墓(久保山墓地) 横浜市西区元久保町3-24/京浜急行南太田駅から徒歩25分
●三溪園 横浜市中区本牧三之谷58-1/JR横浜駅からバス30分、JR根岸駅からバス10分