2018年04月05日 (木)写真のない女の子
※2018年3月9日にNHK News Up に掲載されました。
その女性は、勤め先で8歳年下の男性と知り合い結婚。
2年後、女性が31歳の時、女の子が産まれました。待望の子どもでした。
でもあるできごとがあり、夫も女の子も、女性のもとからいなくなります。
女の子の名前は早苗と言いました。写真は1枚も残っていません。
ネットワーク報道部記者 飯田耕太
<3月10日>
夫と早苗ちゃんがいなくなったことに女性に罪は全くありませんでした。
恋愛の末に結婚した夫を大事にし、早苗ちゃんを精いっぱい育てていました。
そうした理不尽なことは残念なことに当時はよくあり、そのできごとを「戦争」と言います。
女性は鎌田十六さん。
1月16日に産まれたからこの名前になり「とむ」と読みます。待望の早苗ちゃんは、生後7か月足らずの時、十六さんの夫の茂さんと、一緒に暮らしていた母親の、うめさんと同じ日に死亡します。
東京大空襲・戦災資料センター蔵
その日は73年前の3月10日、のちに東京大空襲と呼ばれる、爆撃機から32万発の焼い弾が下町に落とされた日です。無差別爆撃の日です。
<隅田川>
十六さんたちは、焼い弾で家の辺りを火で囲まれてしまいました。早苗ちゃんを背中におぶり、茂さんやうめさんと一緒に逃げました。
しかし隅田川のほとりにやってきた時、避難してきた大勢の人に押し出されるように頭から川に転落します。
夫の茂さんが直後に飛び込んだのがわかりました。今の隅田川
とても冷たかった真冬の隅田川。
「おぎゃー」
7か月足らずの早苗ちゃんが背中で大きな声を上げます。
川の中に長くいる間に、疲れ果ててしまった十六さんは、誰かに引き上げられました。
早苗ちゃんの声がだんだんと小さくなっていったことは覚えていて、十六さんはやがて気を失ってしまいました。
<背中>
目を覚ますと、着物は冷たい水でぐっしょりとぬれていて、疲れて眠っていると思っていた早苗ちゃんの様子を近くの人に聞きました。
「赤ちゃんは亡くなっています」
そう言われました。7年前、十六さんがNHKのインタビューに答えています。「なんであたしだけが生き残ったのかなぁと思っていたら、子どもをおぶっていた私の背中がぬれていなかったんです」
「(早苗は)わたしの犠牲になったんです」
茂さんも母親のうめさんも亡くなっていたことを知るのはそのあとです。
家族の遺体を焼き、早苗ちゃんのものは、びしょぬれになった着物だけが残りました。写真は1枚もありません。
<105歳 十六さんに会いに>
十六さんはことし1月、105歳になりました。
東京国分寺市にある老人ホームにいることがわかり、会いに行きました。車いすで出迎えてくれました。「年をとったし耳が遠くて、どこまでお役に立てるかわからないけれど」
確かに補聴器をつけても、会話のやり取りは大変で、大きな声と、筆談で話を聞きました。聞きたかったことがありました。
<十六さんの戦後>
夫も子どもも母も失った十六さん。
持ち込まれた再婚話もいくつかありました。
でも結婚せず別の人生を歩みました。
戦争で親を失った“戦争孤児”がいる施設で働くことでした。
なぜ、そうした道を選んだのか。
「あのころは”浮浪児”と言っていたけど、上野の駅前の広場に行ったら親も家もなくした子どもたちがたくさんいて」
「おなかをすかせてぼろぼろの服を着ていてかわいそうになってね」写真提供:東京大空襲・戦災資料センター
「施設を逃げ出したりものを盗んでは警察の世話になったり。それがしょっちゅうで大変でしたね。でもどんなに悪いことをしてもかわいかったんです」
<ぼく うれしかったよ>
十六さんは忘れられないできごとがあると言いました。
ある晩、1人の男の子に添い寝をしてあげた時、朝方に言葉をかけられたのです。
「先生ぼくの横で寝たでしょう、ゆうべ。ぼくうれしかったよ、お母さんといっしょみたいだった」
「かわいそうだと思いましたね」
十六さんはそう話しました。後列 左から2人目が十六さん 写真提供:東京大空襲・戦災資料センター
7か月足らずしか自分の子どもの母親でいられなかった、だけどたくさんの孤児の母親になる、そうした人生になっていきました。
<みんな、私の子ども>
終戦から10年ぐらいたつと、戦争孤児を町なかで見かけなくなります。
十六さんは別の児童養護施設に移りました。
「600人ほどの子どもがいて、手が回りきらず、お風呂に入る時、4歳か5歳くらいの子どもが幼い子どもの体を洗ってあげていたの。涙が出そうになっちゃった」
70歳の頃に退職するまでに、親代わりにたくさんの子どもを育てました。写真提供:東京大空襲・戦災資料センター
退職したあとも、自宅を訪ねてくる“子ども”もいました。
「おいしいものを買ってきてくれたり、楽しい話をしてくれたり。もう孫もいるでしょうね」
「年をとって忘れちゃった名前や顔もあるけれど、元気にしているかしら。みんな自慢の私の“子ども”です」
<あの日を前に>
話を聞いたのは3月7日。
早苗ちゃんや失った家族の73回目の命日の直前です。
「あの戦争がなかったらどんな人生を過ごしていたと思いますか」
こう聞いて、私ははっとし、つらい質問をしてしまったと思いました。
十六さんはしばらく私の目を見つめていました。
“あの日がなければ別の人生があった“
そう何回も思っていたはずだと考えながら答えを待ちました。
でも十六さんは
「ごめんね、年寄りだからよくわからないの」
それだけ言いました、目は見つめたままでした。
<破れた着物>
十六さんに会った翌日、隅田川に行き、早苗ちゃんが亡くなった辺りを訪ねてみると、川幅は100メートル以上あり、流れは静かで、戦争があったことを思い出させるものは見つけられませんでした。
「東京大空襲・戦災資料センター」には、早苗ちゃんが着ていた着物が展示されていて、一部が焦げたり破れたりしていました。東京大空襲・戦災資料センター蔵
その着物は「娘が生きた証し」「自分を守ってくれた証し」として十六さんが離さずに持っていたものだと聞きました。
73年前に亡くなり、ずっと記憶の中にしか残っていない子どもへの、無念の思いを感じました。
※「東京大空襲・戦災資料センター」
東京都江東区北砂1-5-4
電話:03-5857ー5631
投稿者:飯田耕太 | 投稿時間:15時02分