2019年10月25日 (金)あなたがいない8年


※2019年7月30日にNHK News Up に掲載されました。

彼女は、日記を書き続けました。それは二度と会えない、亡き娘にあてて書いた手紙のような日記。娘を奪った海が見える高台で、どうすることもできない感情をつづる日々。しかしその内容はいつしか、彼女自身がいまを生きるため、かけがえのないものになっていました。

ネットワーク報道部記者 後藤岳彦

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奪われたもの
彼女の娘が亡くなったのは、8年前でした。

当時、24歳だった娘。

専門学校を卒業したあと里帰りし、地元の役場に勤めていました。仕事も4年目で、そろそろ慣れてきたころ。

そして結婚。娘が婚姻届を出した時の写真を、彼女はいまでも大切に持っています。

anata.190730.2.jpgそして、娘は子どもを授かりました。女の子でした。
でもその子は生まれることなく、亡くなりました。流産でした。

孫の顔を見ることを楽しみにしていた彼女は、孫に「華」ちゃんという名前をつけ、娘と一緒に密葬しました。

娘とどう向き合えばいいか、悩んだこともありました。

娘は2か月間、仕事を休んだあと、職場に復帰。華ちゃんを失った悲しみを振り払うかのように、半年後には結婚式を挙げることにしていました。

anata.190730.3.jpg花嫁姿を楽しみにしていたやさき…あの海に、一瞬で娘を奪われたのです。

悔しい、悔しい
彼女が日記を書き始めたのは、娘を亡くしてから1年後。最初の文面には、ただ「悔しい」という思いがぶつけられていました。

anata.190730.4.jpg「ようやくお母さんペンを取る事が出来ました。それでももう涙があふれてくるよ どうして…どうして…こんなにあっけなく突然にあなたと別れる事になったんだろうと。悔しくて、悲しくて、辛くて、苦しくて。でも、あなたはもっともっと悔しいでしょうね」

anata.190730.5.jpgその後もしばらくは喪失のことばで、日記は埋めつくされていました。

「こうして月日がむなしく流れていくのですね。心の中のむなしさだけが大きくなっていくようです」

「少しずつあなたの顔がぼやけて見えます」

私のせいだ
彼女の娘は、役場の仕事をしている時に、亡くなりました。

anata.190730.6.jpg職場での娘を撮影したものは、この横顔だけです。
地元に戻って役場に就職してはどうか…そう勧めたのは、彼女自身でした。そのことで、自分を責め続けていました。
「またこの頃、後悔の念が出ています。もう一度あえるのならあやまりたいです。ごめんねと。こうなったのはお母さんのせいのようで。もし役場に入らなければ」

anata.190730.7.jpg「みんなお母さんの思いで決めていった事だよね。それがこうなったように感じます。あなたの人生を奪ってしまったようで。夜眠れなくなってしまいます。あなたに会って許してもらいたい」

「あなたがいない25才、26才、そして27才。同じ事の繰り返しだけど、あなたのいないこの家は淋しい」

試練
彼女にとっての一つの試練。それは、仕事を再開することでした。彼女の職場は、娘を奪った海だからです。

「(ワカメの)養殖棚まで(行った)。この辺にあなたが見つかったのかなあと思ったら胸が痛くなりました。海と共存するこの町で生きていくための試練なのでしょうが、苦しい」

anata.190730.8.jpg「あれから1年は踏ん張っていましたね。でも2年目となるとなぜかむなしさが増してきて手がなかなか進まない。じゃあ3年目はというとやっぱりこの頃、涙することが多い。あなたはどんなに海を見つめたのだろうと。海から見た町は灰色でした」

anata.190730.9.jpg奇跡の手紙
3年が過ぎた夏、彼女は民宿を始めることにしました。きっかけは、娘からの手紙でした。
それは遺品の中から偶然、見つかりました。

anata.190730.10.jpg海水でにじんではいましたが、消えることなく、確かにことばが残っていました。

anata.190730.11.jpg「母さん、私を生んでくれてありがとう」
娘は、生きたかった。その分まで、私は生きなければならない。

彼女が出した一つの答え、それは娘のことを誰かに話せる場を作ることでした。そのために、民宿を営むことにしたのです。
1日1組限定の小さな宿です。

anata.190730.12.jpgその宿に、彼女は娘の名前を付けました。

もちろん、民宿の経営なんて初めて。保健所などさまざまな手続きに追われました。

でも、そういったことこそが、生きる支えになると信じてスタートしました。

anata.190730.13.jpg「私はやっぱしあなたのいない人生でパーと楽しいと思えないし、楽しみがこみあげてこない。無駄な生き方をしてはいけないと思うだけです。どんなに前向きとか頑張るとか言っていても、いつも心の中に占める想いはむなしさと悲しさなのだと感じています。それでも生きることの大切さは忘れません」

anata.190730.14.jpg「みんなの前では元気にする。決して私一人が淋しい、つらい、苦しいのではない。とにかく一日一日を生きよう」

日記のことばが、変わり始めました。

クリスマスには思い出しても
日記には、民宿をめぐる出来事を書きつづることが多くなりました。

娘を亡くしてから、5回目のクリスマス。前夜に、民宿のお客さんがケーキを持ってきてくれました。

anata.190730.15.jpg「クリスマスです。といっても変わることなく。夕べのお客様はアイスケーキをもってきていただきみんなで食べました。事あるごとに思い出す。あのときはああだったよねと。あー、あなたがいたらなあとか、華ちゃんが大きくなっただろうなとか、ないものねだりのように。でもいいよね、思い出に浸ってもいいよね」
年が明けて正月、そんな自分を確認するようなことが書かれていました。

anata.190730.16.jpg「お母さんはちゃんとやっているのだろうか。不安だらけですよ。でも少しでも笑っていないとみんなも暗くなります。笑う努力をしていますよ。ちゃんと見ていてね」

「娘の名前は、未希といいます」

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民宿のお客さんとの交流は、彼女の生きるための大きな支え。前を向いて歩くきっかけになっていました。

彼女はそこで、自分の娘のことを、お客さんに語り伝えていました。

anata.190730.18.jpg「お客様に、未希さんはお母さん似と言われます。一番、お母さんがうれしい一言です」
彼女の娘の名前は、遠藤未希。

anata.190730.19.jpg遠藤未希さん
8年前、大津波に襲われた宮城県南三陸町の防災対策庁舎で、ぎりぎりまで避難を呼びかけ続け、みずからは津波の犠牲になりました。

anata.190730.20.jpg娘のためにも、自分があの時のことを語り継ぐ番だと、今は思っています。
「5年がたち、震災が忘れ去られようとしているこんにち、いまもあなたを想って涙してくれる方々がいます。お母さんは本当に強く生きなければなりませんね。あなたを通して多くの方に力を頂いている」

anata.190730.21.jpg「あなたのいないことを実感する日々。本当にいないのだと6年たってもおもいます。淋しいですよ、悲しいですよ、でも多くの人々に感謝」
町の復興は進んでいても、自分の心は取り残されている。それでも、彼女はその先を見つめられるようになりました。

anata.190730.22.jpg「夕べは夏祭りの花火大会でした。いつも来る家族連れのお客さんとお父さんとで見に行きました。私はやっぱり見られません。私の心の復興は、夏祭りに行けるようになることかな」

私は笑うのだ
みずからを責め、笑顔で生きることさえ申し訳ないと思っていた彼女。いま、自信を持って娘に報告できるようになっていました。

anata.190730.23.jpg「今日はお母さんの61才のバースデーです。もう61才ですよ。あなたの年の倍も生きています。いや、3倍近くになる。ごめんなさいね。悲しみの中にもいても生きていれば楽しいこともあります。あれから8年。お母さんは笑って生きていますよ。これを書いても涙は出ますが、笑っていられます。頑張っています」

「これからも人生を終えるまで、いまできることをするだけなんですね」

時代の名前は新しくなっても

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「5月になりました。きょうから新しい年号、令和の時代に入りました。といっても変わり様のない日常です。日々精進していくだけですね」
いま、民宿に近づくと、宿泊客と話す彼女の笑い声が響きます。
それは遠藤未希さんの母、美恵子さんの声です。

この8年余り、私が取材に訪れると、いつも「後藤さんもそうだけど、あの日から、未希を通じて多くの人に出会い、支えられてきた」と言ってくれます。

時代の名前は変わっても、被災地で生きる彼女の日常には、変わりはありません。

anata.190730.25.jpgあの小さな宿「未希の家」で、訪れた人に語り伝え、日記に思いをつづる。そんな日々が続きます。
彼女が夏祭りで笑えるようになるまで、そして彼女と同じ思いを抱えたすべての人が笑えるようになるまで、その小さな宿に通おうと思います。

投稿者:後藤岳彦 | 投稿時間:13時06分

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