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2023年6月23日

調査あれこれ 2023年06月23日 (金)

日本海中部地震から40年 北海道南西沖地震から30年 2つの大津波の教訓【研究員の視点】#494

メディア研究部(メディア動向)中丸憲一

okushirito_damage.jpg北海道南西沖地震津波の被害 (写真提供:東北大学災害科学国際研究所 津波工学研究室)

【2つの大津波の共通点】
 2023年は、日本海中部地震津波(1983年)、北海道南西沖地震津波(1993年)からそれぞれ40年、30年となります。今回はこの2つの大津波が今に伝える教訓について、かつて災害担当記者だったメディア研究者の視点から考えていきたいと思います。
この2つの津波には、共通点があります。
▼過去に何度も津波被害を受けた三陸沿岸ではない、日本海側で起きた津波だった。
▼観光地など地元に土地勘のない人が多く訪れる地域を襲った津波だった。
▼地震発生から津波到達までの時間が10分未満だった。
 この2つの災害が発生した時、当時の技術では津波警報の発表と伝達が間に合いませんでした。結果的に多くの犠牲者が出る事態となりました。
メディアの災害報道のあり方にも大きな課題を突きつけ、防災教育の重要性が指摘されました。

【日本海中部地震津波とは】

gyosen_2_W_edited.jpg日本海中部地震津波の被害 (秋田地方気象台ホームページより)

日本海中部地震が起きたのは40年前の1983年5月26日午前11時59分。マグニチュード7.7の大地震により津波が発生しました(※1)
東北大学の研究グループが、当時作成したシミュレーション動画では、この津波がどのような動きをしたのか詳しく見ることができます。

 日本海中部地震津波シミュレーション (動画提供:東北大学災害科学国際研究所 今村文彦教授)
 

地震発生後、日本海の震源付近で盛り上がった海面がほぼ東西に分かれ、高い津波となって主に秋田県と青森県の沿岸に襲来。津波の第1波は地震発生から約7分で到達しました。
その後も繰り返し津波が押し寄せ、1時間近く経過してもなかなか衰えない様子がわかります。津波は最高14mの地点まで到達したという記録が残っています。
この時、仙台管区気象台が津波警報を発表したのは、地震の発生から15分後。さらにNHKが津波警報を伝えたのが、その5分後。津波の第1波の到着から13分が経過していました(※2)。当時の技術力ではこれが限界だったと思いますが、メディアとしては情報を迅速に伝えることが責務です。しかし、結果的にそれが十分にできない中で、この津波では、秋田県と青森県、北海道であわせて100人が犠牲になりました。

【土地勘のない海岸で津波に襲われた遠足中の小学生】
犠牲者には、北秋田市の旧合川南小学校の4年生と5年生の児童13人が含まれています。子どもたちは、秋田県男鹿市の加茂青砂海岸に遠足で来ていて、ちょうどお昼のお弁当を食べていたところでした。当時のNHK社会部の記者が研究者と共同で、このときのことを記録しています。日本海中部地震の翌年に出版された本から証言を引用します。

(大地震に遭った子どもたち「日本海中部地震」の教訓 清永賢二 小出治 平井邦彦 井辺洋一著)
 午後零時ごろ 男鹿半島・賀茂青砂海岸に降りて昼食。
《一人の子どもが大声をあげるので駆けつけたところ、岩間にリュックを落としており、それを拾い上げたところに大波が来た。その後、気がついた時は、海岸で人工呼吸を受けていた》(四年担任の先生)
《海辺の方向を振り返った時、「アッ」という悲鳴が聞こえ、子どもを助けに行こうとしたところ、岩の周りの海が盛り上がってきた。二人の子どもの手をとり、助けようとしたところ、急激な力で海へ引っ張られ、体が一回転した。その時、右手の子どもの手が「スルリ」と抜けていった。》(五年担任の先生)
《わたしらでも、こんな大きな津波が来るとは少しも思ってませんでしたからね。まして、合川というところは山の中でしょう。地震と津波というのは少しも結びつけて考えなかったでしょうね。》(地元の女性・六〇歳くらい)

 子どもたちは、不意打ちで津波に遭い、一瞬のうちに波にさらわれました。また、海岸付近に住む地元の女性の話から、子どもたちは山あいの地区にある小学校に通っており、土地勘のない場所で津波に遭遇したことがわかります。

imamura_onlinecoverage.jpg東北大学災害科学国際研究所 今村文彦教授
(リモートインタビューの様子)

日本の津波研究の第一人者で、当時、日本海中部地震津波の被災地を調査した東北大学災害科学国際研究所の今村文彦教授は次のように話しています。
土地勘がなく、『地震のあとに津波が来る』という知識もなかったことで、適切な避難ができず、遠足や観光などで沿岸を訪れていた多くの方が犠牲になった。海に近い地域はもちろん、そうでない地域の人たちでも海の近くに行くことはある。全国各地で津波の防災教育を進めることの重要性を突きつけた津波災害だった
この時の津波では、放送による呼びかけで被害を防ぐことはできませんでした。津波警報の放送についてはこのあと見直しが進められましたが、今村教授が指摘する防災の知識を広げていくことは、放送のコンテンツを通じても可能です。メディアにそのことを意識させる大きなきっかけの1つが日本海中部地震だったと筆者は考えます。

【北海道南西沖地震とは】
北海道南西沖地震は、日本海中部地震から10年後の1993年7月12日午後10時17分に発生しました。北海道奥尻島の北西の沖合を震源とするマグニチュード7.8の地震により津波が発生。震源が島に近かったため、津波は地震発生後4分から5分で到達。高さ20m以上の地点まで達し、観光地として知られていた奥尻島を中心に230人が犠牲になりました(※3)


okushirito_damage2.jpg北海道奥尻島の被害(写真提供:東北大学災害科学国際研究所 津波工学研究室)

札幌管区気象台は、地震発生から5分後に津波警報を出しましたが(※4)、この時点で奥尻島にはすでに津波が到達していました。

【被害を拡大した津波の「挟みうち」】
津波の速度に加え、島や岬などの特有の地形によって津波に「挟みうち」されるような状態になったことも、多くの犠牲者が出た原因の1つです。当時、東北大学の研究グループが作成したシミュレーション動画を見てみます。

 北海道南西沖地震津波シミュレーション (動画提供:東北大学災害科学国際研究所 今村文彦教授)
 

画面中央にある岬が、奥尻島南端部に位置する青苗地区。壊滅的な被害を受けた場所です。津波はいったん地区(岬)の西側に到達したあと、南側を高速で回り込んで東側にも到達。東西から津波に挟みうちされるような状態になり、逃げ場を失った人も多かったのです。

【類似災害から読み取る教訓を伝えることの大切さ】
災害担当記者だった筆者も、これとよく似た津波災害を取材したことがあります。それはタイ南部の離島、ピピ島でのことです。ピピ島は、2004年12月26日に発生し、30万人以上が犠牲になったインド洋大津波の被災地の1つです(※5)。レオナルド・ディカプリオ主演で2000年に公開された映画「ザ・ビーチ」の舞台となったこともある人気の観光地で、当時も年末年始の休暇で多くの観光客が訪れていました。インド洋大津波が発生したとき、筆者は、仙台放送局で災害担当の記者をしていました。この大津波による被害を受けて、津波の研究者たちは調査団を結成し、筆者はその調査に同行しました。
津波発生から数日後にタイに入り、大きな被害のあった観光地のプーケットなどを取材。そのまま年が明け、2005年1月2日にピピ島に到着しました。調査の結果、ピピ島には島の北側から高さ6m、南側から高さ4mの津波がほぼ同時に押し寄せ、ホテルや土産物店などが建ち並ぶ島の中心部を襲ったことがわかりました。観光で訪れた場所で、いきなり津波が挟みうちのように襲ってきたのでは、逃げようがなかっただろうと、現場に身を置いて強く感じました。
今回のブログを書くにあたり、奥尻島を襲った津波について調べるうちに、「島が挟みうちされるように津波に襲われた」という点で、極めて類似していることに気づかされました。北海道南西沖地震の2年後、1995年に起きた阪神・淡路大震災や2011年の東日本大震災をきっかけに、メディアの災害報道は、減災を重視する伝え方に変わってきています。こうした過去の災害から類似点や教訓をくみ取り、伝えていくことの重要性を改めて感じました。

【過去の教訓の継承には課題も】
一方、北海道南西沖地震では、過去の災害の教訓を生かすことの難しさも明らかになりました。実は、奥尻島には、1983年の日本海中部地震でも津波が押し寄せていました。このとき、津波が到達したのは30分後で、2人が犠牲になりました。このため地震のあとに津波が来る危険性は住民たちも共有していました(※6)。しかし、当時、今村教授らの研究グループが行った聞き取り調査の結果からは、過去の津波の経験が裏目に出てしまったことも浮かび上がりました。「日本海中部地震のときは地震発生から30分後に津波が来たので、今回もそのくらいの時間があるだろう」と考え、避難の遅れにつながったと指摘しています。一方、この経験を生かし、すぐに逃げた人は難を逃れたということです。最短4分から5分という速さで到達した津波から逃げ切るには、一刻の猶予も許されない状況でした。今村教授によると、すぐに逃げて助かった複数の人が「揺れ方が違っていた」と答えました。具体的には、日本海中部地震のときは「縦揺れから始まり、その後横揺れが来た」が、北海道南西沖地震のときは「下からドンという強い揺れがいきなり来た」と話していたといいます。今村教授は、前者は震源から比較的離れた場合の地震、後者は「すぐ近くで起きた地震」の特徴を示していると指摘しています。
津波は毎回、形を変えて襲ってくる。発生条件が変われば、到達時間や来襲する方向、さらには災害の形態も変化する。過去の経験を生かすことは重要だが、以前と同じように来るとは限らない。気象庁の津波警報を待っていたら間に合わない場合もある。とにかく『強い揺れを感じたらすぐに逃げる』を徹底するしかない。
 過去の経験を生かすとともに、場合によってはそれにとらわれず臨機応変に行動することの大切さ。こうした知識は、平時から備えておかなければなりません。メディアとして日頃から伝えるべき重要なメッセージだと思います。

【2つの大津波の教訓をどう生かす】
 先にも触れましたが、日本海中部地震と北海道南西沖地震では、気象庁が津波警報を発表したのと、それをメディアがテレビ・ラジオで速報したのはいずれも津波到達のあとでした。結果的に多くの犠牲者が出る事態となりました。これをきっかけに気象庁は津波警報の発表方法を改善。現在では、地震発生から約3分(一部の地震については約2分)を目標に津波警報が発表され(※7)、その後、すぐにメディアが伝えるという体制になっています。
 しかし、それでも日本海中部地震は地震発生から約7分、北海道南西沖地震は4分から5分で津波が到達しており、現在の技術を用いたとしても、津波警報の発表を待ってから行動したのでは助からないおそれがあります。さらに地理に不慣れな観光地にいたとすれば、条件はさらに厳しくなります。
 この難しい課題を解決しようと、同じ日本海側である試みが行われています。山形県酒田市の沖合にある飛島です。海水浴や釣り、シュノーケリングなどを楽しむため、多くの観光客が訪れます。
飛島付近の海底には、複数の活断層が確認されており、これらの断層がずれて動いた場合、津波は最短2分で到達すると想定されています。津波警報の発表を待っていたのではとても間に合いません。2022年4月、酒田市が用いることにしたのは、最先端のテクノロジーではなく、古くからあるメディアの1つ、リーフレットです。

leaflet_5_W_edited.jpg飛島津波避難リーフレット表面 (酒田市ホームページより)

「飛島津波防災」と名付けられた縦約18cm、横約13cmのリーフレットの表面には「津波は最短2分で来襲!揺れが収まったら、すぐに高台へ避難を!!」と書かれ、避難場所やそこに通じる避難ルートも複数紹介されています。さらに、これをわかりやすく解説するため、新しいメディアであるネット動画も作成しました(※8)。

tsunamiopening.png飛島津波避難啓発映像 (酒田市ホームページより)

この動画の中では「飛島に上陸しました。港の景色もとてもきれいなんですけど、それを楽しみながらも『ひなん路』と書かれた看板をしっかり探しておきましょう」などと念押しし、島に到着したら、まず避難場所や避難ルートを確認するよう呼びかけています。津波が発生すれば、到達するまでに時間の余裕はありません。でもあらかじめ避難場所を把握しておけば、もともと土地勘のない場所でもすぐにたどり着けるという発想です。しかも“オールドメディア”であるリーフレットと、“ニューメディア”のネット動画を組み合わせることで理解を深めてもらおうとしています。

lesflet_back2.jpg飛島津波避難リーフレット裏面 (酒田市ホームページより 写真:コマツ・コーポレーション)

一方、リーフレットの裏面には、島の魅力が美しい写真とともに書かれています。通常、観光客向けに作られるリーフレットは、こうした観光スポットの紹介が主ですが、これは防災面での注意喚起を優先しているのです。今村教授は、このリーフレットと動画の作成を監修しました。その際には、日本海中部地震と北海道南西沖地震の教訓を念頭に置いていたといいます。

imamura_6_W_edited.jpg今村教授

地震や津波の防災教育は、どうしても地元の住民のみが対象になりがちだが、観光地ではその土地に不慣れな人たちが多く訪れる。特に島や岬は、津波の到達が早く、挟みうちも発生して逃げ場を失ってしまうことがある。安心して観光を楽しんでもらうためには、その地域の危険性を知り、避難場所と避難ルートを確認してもらうことで素早い避難をするための準備を整えてもらうことが重要だ。
 日本海中部地震津波から40年、北海道南西沖地震津波から30年。
多くの犠牲者が出た2つの大津波から、警報を伝えるための技術も進みました。また、インターネットやSNSで瞬時に情報が伝わる時代になりました。しかし、大規模な災害が起きれば、それらが使えなくなるおそれは常に付きまといます。そうした事態に陥っても、素早く避難して命を守ってもらわなければなりません。そのために今、メディアが貢献できることは、迅速な情報伝達とともに防災教育を進化させることだと思います。2つの津波を教訓に、飛島で作られた“オールドメディア”のリーフレットを手に取るたびに、それを強く感じます。

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(※1、3、5)日本海中部地震、北海道南西沖地震、インド洋大津波の各データについては、「気象庁ホームページ」「内閣府ホームページ」「20世紀日本 大災害の記録 監修・藤吉洋一郎」「TSUNAMI 津波から生き延びるために 財団法人沿岸技術研究センター編」などを参照した。
(※2、4)日本海中部地震、北海道南西沖地震ともに「オオツナミ」が発表されているが、「1993年北海道南西沖地震における住民の対応と災害情報の伝達-巨大津波と避難行動- 東京大学社会情報研究所『災害と情報』研究会」および「TSUNAMI 津波から生き延びるために 財団法人沿岸技術研究センター編」などは、いずれも「津波警報」と表記しているので、本稿もそれに合わせた。なお、日本海中部地震の津波警報発表とNHKの伝達については、日本海中部地震に関する報告書(第二管区海上保安本部作成)を参照した。
(※6)「1993年北海道南西沖地震における住民の対応と災害情報の伝達-巨大津波と避難行動- 東京大学社会情報研究所『災害と情報』研究会」には下記のような記述がある。
「奥尻町では、地震直後に津波を予想した人が少なくない。その大きな理由は、10年前の日本海中部地震における津波体験であろう。筆者らは、津波から辛くも逃れた人たちから、今回の災害では、日本海中部地震にくらべて地震の揺れが格段に大きかったことから、10年前よりも大きな津波がもっと早く襲ってくると直感して懸命に避難したという話をしばしば聞いたが、調査対象になった多くの人々が、大津波の急襲を直感的に予想したことを示唆している。しかし、10年前の津波経験が必ずしも有効に働いたとはいえないケースもある。というのは、10年前には地震の約30分後に津波が襲ってきていることから、地震直後に津波の到来を予想しながら、「日本海中部地震の経験から、津波が来るまでかなり余裕があると思った」人、また、津波経験が今回の避難にどう影響したかという質問でも、「日本海中部地震の経験がかえってわざわいして、津波が来るのにまだ余裕があると思い避難が遅れてしまったと思う」という人がいたからである。全体的にみれば、津波経験が被害の減少に大きく寄与したことは間違いないけれども、部分的には経験がマイナスに作用したケースもあった。」
(※7)気象庁ホームページ
(※8)https://youtu.be/5KxDdrWYMqA

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【中丸憲一】
1998年NHK入局。
盛岡局、仙台局、高知局、報道局社会部、災害・気象センターで主に災害や環境の取材・デスク業務を担当。
2022年から放送文化研究所で主任研究員として災害や環境をテーマに研究。

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