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放送ヒストリー

放送ヒストリー 2022年12月08日 (木)

#433 戦後のNHKと児童文学作家・筒井敬介 その3 ~「初期『おかあさんといっしょ』失われた映像を探る」に関連して~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎

 児童文学作家の筒井敬介さんとNHKのかかわりについて2回にわたって紹介してきました。11月号の調査研究ノートで触れたように、これまでは主に『おかあさんといっしょ』を始めとする、幼児向け番組に焦点を当ててきましたが、筒井さんが手掛けたのは子ども向けの仕事だけではありません。
 今回は、筒井さんのご自宅に残されていた資料とNHKアーカイブスに保管される2本のラジオ番組を通して、筒井さんの幅広い仕事の一端とその原点を振り返ります。

(*本ブログに掲載される写真のコピーは禁止されています。)

社会問題へのまなざし

NHK新聞 (小西理加氏 所蔵)

 写真は、放送の普及促進を図るため1957年に発行された「NHK新聞」で、第12回芸術祭出品ドラマを手がけた作家を紹介する記事です。筒井さんの作品は『名づけてサクラ』というタイトルのラジオドラマで、同年10月25日に放送され、作品奨励賞を受賞しました。
 芸術祭への出品は、ラジオにしても、テレビにしても、歴史の浅い放送が社会的に評価されるために重要な意味を持っていました。(記事で紹介されている作家の中には、筒井さんのほかに有吉佐和子さんや木下順二さんの名前も見られます。)
 『名づけてサクラ』は筒井さんのオリジナル脚本で、戦後間もないころに進駐軍との間に生まれた、いわゆる「GIベビー」をテーマにしています。
 主人公サクラは黒人兵と日本人女性の間に生まれた女の子です。養護施設で育てられていましたが、養子縁組でアメリカに送られてしまいます。しかし、アメリカでの辛い生活に耐えきれず実の母親を探しに密航してくるという物語です。
 放送から30年後の1987年、『名づけてサクラ』は再放送されていますが、この再放送では筒井さんをスタジオに招いて当時の様子をインタビューするパートが追加収録されており、脚本執筆のきっかけや作品を仕上げるために重ねた取材のエピソードが語られています。(一部、現在では使用することが不適切とされる表現が用いられていますが、放送当時の価値観を伝える必要があると考えそのまま表記しています。)

――きっかけになったのは養子縁組です。 混血児の養子縁組ということが大変ジャーナリズムをにぎわしたし、いろんなことがありましたね。それに対する私の非常に不満があるわけですよね。/非常に混血児がひどく扱われて、色目で見られて、それをアメリカ養子縁組させたということが、じゃあそれから先どうするんだと。それはまるで棄民政策*注じゃないかと。捨て子と同じじゃないかと。/一体向こうに行った子どもたちはどうなっているんだと。そしたらもう一言「労働力だよ。労働力しかないんだよ」と、向こうがもらってくれるっていうのは。/それから婦人科の医者の話が出てきますね。本当に赤ん坊を産む時に、母親が知らないでいて、出てきたのが混血児だったという事例はね、僕は実際に集めたんです。こういうことがあったんです。それからやっぱり横須賀と横浜、下士官住宅ですね、昔の。つまり海岸の兵隊の下士官が表で生活しているわけですよね、奥様と一緒に。その住宅が全部、その当時で言えばオンリーさんというような人たちに占領されているようなところも取材に行ったですね。

 当時すでに子ども向けの作家のイメージが強かった筒井さんが、このように社会的なメッセージのある作品を書いたのは、戦時中に強いられた体験の反動によるものだと言います。

――僕がこれを書いたのは、40になってきっちりぐらいの時に書いたんだけれども、暗い、暗い青春ですね。ぼくらの青春ってのは本当に戦争だったから、押しつぶされていた青春がちょうど35から40ぐらいでやっと出てきているんですよね。そういう何か、素材とか世の中に対して何かぶつかっていこうっていうね、そういう熱がやっぱり(番組を)聞くとありますね。自分のことながらそれがありますね。

子どもも大人も区別しない

 『名づけてサクラ』のような重たいメッセージのあるドラマと、『おかあさんといっしょ』のような幼児向け番組の間には大きなギャップがあるように感じられます。筒井さんはどのような思いでこれらの仕事に向き合っていたのでしょうか。『名づけてサクラ』の再放送から7年後、1994年に放送された『わが故郷わが青春』というラジオ番組に筒井さんは出演し、生まれ育った東京・神田の町の思い出に触れながら、自らの原点について次のように話しています。

――つまり人の言うことを聞かないっていう事ですよ。非常に人の言うことをよく聞くね、惣領とかですね、それからお店の若旦那とか言うのもいますよね。 落語にも出てきたりなんかするような。僕はね、何しろね、逆のことばっかりやってね、しょうがない人間だったんですね。/江戸には、お上に対して「お上はえらいものだ」とお上にすり寄っていく人間と、それから「何が何でもお上にはおれは頭下げないぞ」という、その2つじゃないだろうけれども、僕はやっぱりお上が嫌いだったですね。

 さらに自らの作品について以下のように述べています。

――ユートピアがあるってことは非常にはっきりしているんですよね。 つまり、自分はこういう具合のところで、こういう具合に生きていきたいというイメージがはっきりしている。/だから僕の頭の中にはね、子どもも大人もなかったんですよ。 子どもも大人もなくて、楽しいものを書こう。自分のイメージをうんと広げよう。広がりゃしなかったですけどね、この年になるまで。しかし広げようという気持ちを持ちえたんですね。

 子どもも大人も区別することなく書かれた筒井さんの作品からは、生きることさえままならない時代を体験したからこそ「伝えたい」という強い思いが感じられます。先人たちがかつて体験したものとはまるで異なるものの、しかし同じように生きることが困難な今だからこそ、筒井さんの作品を読みとき、そこから学ぶことがあるように思えるのです。

筒井敬介さん 筒井敬介さん

*筒井さんが当時の養子縁組を「棄民政策」と批判した背景には、敗戦直前に北海道の開拓事業に志願した自身の体験があります。アジア・太平洋戦争末期の昭和20年3月、「本土空襲激化に伴う大災の罹災者の疎開強化」の方針が閣議決定され、戦災者の生活安定と食料の増産などを図るため、北海道は主要な集団帰農の受け入れ先として指定されました。しかし開墾する土地が少なく、参加者が農業未経験、さらに農業資材が皆無に近い状態だったことなどから営農は不可能に近かったといいます。
 筒井さんは先述の『名づけてサクラ』再放送のインタビューで次のように語っています。「なぜ北海道の移民になって行ったかっていうと、東京都に食料が入らなくなって、いつ暴動が起きるか分かんないから、民衆を北海道に捨てなきゃならないわけですよね。棄民政策ですよ。そういうものなんですよね。」政府によって切り捨てられた当事者としての意識が、筒井さんに『名づけてサクラ』を書かせたのかもしれません。

放送ヒストリー 2022年12月07日 (水)

#432 戦後のNHKと児童文学作家・筒井敬介 その2 ~「初期『おかあさんといっしょ』失われた映像を探る」に関連して~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎

 「放送研究と調査」11月号で、児童文学作家の筒井敬介さん(1917~2005)とグラフィックデザイナーで絵本作家の堀内誠一さん(1932~1987)が初期の『おかあさんといっしょ』に関わり、番組から『あかいかさがおちていた』(1965)という1冊の絵本が生み出されたことを紹介しました。実はお二人にはもう一つ共作した絵本があり、この作品も『おかあさんといっしょ』の中で番組化されていました。『かわいい とのさま』という作品です。

(*本ブログに掲載される写真のコピーは禁止されています。)

絵本版『かわいい とのさま』

 『かわいい とのさま』は1970~1971年に12回にわたって月刊誌「ワンダーブック」に発表されました(2013年に小峰書店から単行本化)。絵本『あかいかさがおちていた』が『おかあさんといっしょ』から生み出されたのとは逆で、『かわいい とのさま』は紙媒体の方が先に発表され、後にテレビ化されています。まず絵本の『かわいい とのさま』がどんな内容なのか見てみます。
 主人公のとのさまはいばりん坊でわがままなくせに泣き虫の男の子です。パパやママはおらず、なぜかお堀に住むカワウソが人に化けてばあやの役をしています。月刊誌に毎月連載されていたということもあって、ひな祭りや花火、お正月など折々の季節の行事を交えつつ、1年間を通してとのさまの成長物語を描いています。1話が見開き8ページと限られた紙面の中で、奇想天外だったり、時にはほろりとしたりする物語が展開され、堀内誠一さんの絵もほかではなかなか見られない大胆で漫画風なタッチで描かれています。

『かわいい とのさま』筒井敬介・作 堀内誠一・絵(小峰書店) 『かわいい とのさま』筒井敬介・作 堀内誠一・絵(小峰書店)

テレビ版「かわいいとのさま」

 一方、テレビ版の「かわいい とのさま」が放送されたのは1970年10月。水曜日の『おかあさんといっしょ』のコーナー「らっぽんぽん」の中のお話として、4回にわたって紹介されました。(1970年代中盤まで『おかあさんといっしょ』の内容は曜日ごとに違っていました。)

「らっぽんぽん」旗照夫、真理ヨシコ 「らっぽんぽん」旗照夫、真理ヨシコ

 「らっぽんぽん」は初代・うたのおねえさんの真理ヨシコさんとジャズシンガーの旗照夫さんが出演したコーナーですが、残念ながら映像は残っていません。台本を確認すると、スタジオをベースに人形劇や影絵などさまざまな手法を取り入れ、時には歌を交えながら、毎回さまざまな物語を紹介するという内容だったようです。細かい点で違いはあるものの、テレビ版も基本的には絵本版と同じ登場人物で、物語の要素も共通していました。
 台本のスタッフ表示には、人形美術として川本喜八郎(連続人形劇『平家物語』、人形アニメーション『死者の書』など)、小道具などの制作として加藤晃、毛利厚(『みんなのうた』の「トレロ・カモミロ」のアニメーション制作など)、振付に高見映(『できるかな』のノッポさん)など、当時ほかの幼児・子ども向け番組にも関わっていた外部クリエーターたちの名前がありました。

「かわいい とのさま」台本 「かわいい とのさま」台本(小西理加氏 所蔵)

"かわいくない"とのさま

 それにしても「わがままでいばりん坊の泣き虫」を「かわいい」と思えるでしょうか。ちっとも「かわいくない」と思うのが自然な気がします。筒井さんはどうして真逆のタイトルをつけたのでしょうか。
 『かわいい とのさま』が作られた1970年、大阪では「人類の進歩と調和」をテーマにした日本万国博覧会が開催され、日本は戦後の混乱期を乗り越え高度経済成長を果たした姿を世界にアピールしました。一方、1969年には全国の"カギっ子"が483万人に上るなど、子どもをめぐる状況もそれまでと大きく変わりつつありました。
 「かわいい とのさま」の設定は、従来とは異なる環境で育つことを余儀なくされた当時の「現代っ子」のイメージに重なるように思えます。同時に、いつの頃からか「子どもはかわいいもの」と一方的にひ護の対象とみなすようになった風潮を、反語的に「かわいい」という言葉を用いることで皮肉っているようにも読み取れます。
 筒井さんが自らの子ども観について書いた原稿が残されていました。そこには筒井さんが子どもをどのような存在としてとらえていたのかが書かれています。

――いってみれば子どもを、生物的に未発達なとか、未熟なとか考えては、作家の想像力は刺激されないのである。一人の人間として、あらゆる感性を備えた不思議な好奇心をわき立たせる人間として扱っているのです。誤解を恐れずにいえば、子どもにこれから何をおっぱじめるのか分からない怪物としての位置を与えなければ、作家は興味をもち得ないのです。

 子どもは常に社会の変化から影響を受け、大人のまなざしから無縁でいられないという点で受け身の存在です。しかし変わるのは大人の社会や価値観であって、子どものありよう自体はいつだって同じ「何をおっぱじめるのか分からない怪物」なのです。子どもは飼いならすものでも、管理するものでも、ましてや「かわいい」だけの存在でもないことを、『かわいいとのさま』を通じて筒井さんは伝えている気がします。

*3回目は12月8日(木)に掲載予定です。

放送ヒストリー 2022年12月06日 (火)

#431 戦後のNHKと児童文学作家・筒井敬介 その1 ~「初期『おかあさんといっしょ』失われた映像を探る」に関連して~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎

 「放送研究と調査」11月号では、『ぐるんぱのようちえん』などで知られるグラフィックデザイナーで絵本作家の堀内誠一さん(1932~1987)と児童文学作家の筒井敬介さん(1917~2005)が関わった初期の『おかあさんといっしょ』のコーナー「こんな絵もらった」について調査研究ノートとしてまとめました。ここでは、11月号で十分触れることができなかった筒井敬介さんとNHKとのかかわりについて、3回に分けて紹介します。

(*本ブログに掲載される写真のコピーは禁止されています。)

「字の書いてあるものを捨ててはいけない」

筒井敬介さん 筒井敬介さん

 筒井敬介さんは1948年から1966年まで18年間、NHKの契約作家として、『おかあさんといっしょ』以外にも、幼児向けラジオ番組『お話出てこい』や連続テレビドラマ『バス通り裏』など数多くの放送台本を手がけ、また児童文学作家、戯曲家としても幅広く活動しました。当時のラジオやテレビに接した世代にはよく知られた存在で、戦後の放送文化や児童文化の発展に貢献した作家の一人です。
 長女・小西理加さんによると、「字の書いてあるものを捨ててはいけない」が筒井さんの信条でした。自分が関わった番組台本や原稿だけでなく、台本を入れた封筒や卓上のメモ帳なども筒井さんは捨てずに残しており、ご家族はその整理と管理に大変な苦労をされたといいます。今回、初期『おかあさんといっしょ』の内容を検証できたのもご自宅に台本が保管されていたおかげです。
 筒井さんが戦後NHKの契約作家になり、「字の書いてあるものを捨ててはいけない」という信条を持つに至った背景には、当時の時代状況が深くかかわっているように思えます。

戦争の時代に生まれて

 第一次世界大戦が終わる前年の1917年、筒井さんは東京・神田に生まれました。十代の頃から文学書を読んだり、親に隠れて映画を見たりする中で、次第に物書きを志すようになったといいます。日中戦争が始まった1937年、大学生だった筒井さんは劇団東童の文芸演出部に入団、脚色・演出を担当するようになります。太平洋戦争が始まった1941年には、徴兵検査に合格、翌年、近衛兵として入隊しますが、病気のためまもなく除隊。1945年の東京大空襲では自宅を失い、食糧難から一時期北海道に開拓民として入植したものの5か月ほどで帰郷。その後は人民新聞に記者として勤めながら作品執筆を行うなど、日々の暮らしと作家活動を成り立たせるために苦しい時期が続きました。(このころ、「原爆の図」で知られる画家の丸木位里・俊夫妻や、黒澤明監督のスクリプターとして活躍した野上照代、画家・絵本作家のいわさきちひろとも交流があり、いわさきちひろとは1969年に絵本「ふたりのぶとうかい」を共作しています。)
 そんな折、1947年に知り合いから勧められNHKの契約作家になったのです。放送を通じて自分が書いた文章によって生計が立てられるようになったことは、三十路を迎えた筒井さんにとって大きな変化をもたらす出来事だったに違いありません。

残された資料から

 筒井さんの資料には、戦後まもない時期のNHKやラジオ放送の実態を伺うことができる資料が数多く残されています。ご遺族に許可をいただいていくつか紹介させていただきます。

講習会のテキスト 講習会のテキスト(小西理加氏 所蔵)

 この写真は、筒井さんが契約作家になるに当たって、NHKで行われた「放送台本の書き方の講習会」で使用されたテキストです。英語交じりの文章で、音楽や音響効果の用語の解説や具体例が書かれてあります。戦後の日本を民主化するために、ラジオが重要な役割を果たすと考えられた時代、放送台本を執筆する人材を育成するために、このようなテキストが作られていたのです。

ラジオ「幼児の時間」台本(1951年) ラジオ「幼児の時間」台本(1951年)(小西理加氏 所蔵)

 そのほか、印刷されたものではなく、カーボン紙で書かれたラジオ台本も複数残されていました。上の写真は、1951年に放送された『幼児の時間』という番組の台本で、「お母さんといっしょ」と題されています。テレビの『おかあさんといっしょ』の放送開始は1959年ですから、それに先立つこと8年前に、サブタイトルとはいえ同名タイトルの番組が作られていたのです。内容は、タッチャンという男の子の目を通して家族の日常を描いた一種の朗読劇で、14話分の台本が残されていました。(なお筒井さんは1953年に『おねえさんといっしょ』というラジオ番組も手がけていて、1957年には映画化されています。『おねえさんといっしょ』にもタッチャンという男の子が登場することから、2作の舞台は同じ家庭なのかもしれません。)

 あらゆるものがデジタル情報として記録・保管される現在とは異なり、当時はラジオにせよ、テレビにせよ1回放送されれば影も形も残らない時代でした。心血を注いで作り上げた作品が1回きりで消えてなくなってしまうことは、自分の考えを自由に表現することが困難だった時代を生き抜きながら、空襲によってすべてを失う経験をした筒井さんにとって耐えがたいことだったのかもしれません。筒井さんがこれだけさまざまな番組の関連資料を長年保管されていたのは、自分が生きていたことを「なかったことにされない」ための必死の抗いのように思えます。

「字の書いてあるものを捨ててはいけない」。

 私たちは果たしてこのような思いを込めて字を書いたり、言葉を使ったりしているでしょうか。言葉とは本来どのように使われるべきなのか。人にものを伝えるとはどういうことなのか。メディアを介したコミュニケーションが急速に発達し、それを当たり前のこととして受け入れ、ともすると言葉を雑に使いがちな私たちに、筒井さんはシンプルな言葉で大切なことを気付かせてくれます。

*2回目は12月7日(水)に掲載予定です。

放送ヒストリー 2022年02月16日 (水)

#369 現代アートから放送研究を見つめ直す

メディア研究部(メディア史研究) 倉田宣弥


 『放送研究は岐路に立っている。放送・テレビ〈だけ〉を研究していればいいという時代はすでに終わっている。放送研究自体を志す研究者も少なくなっている』
 こんな言葉を研究者の方から伺ったことがあります。

 急速かつ着実に、放送をめぐるメディア環境の変化は進み、テレビの放送波だけでは届けきることが難しい状況が生まれています。受け手である視聴者側の意識はもちろん、制作者側の意識も変わりつつあります。制作現場では、テレビ番組だけではなく、インターネットやリアルなイベントも含めて複層的にコンテンツを設計し、いかにして視聴者にコンテンツを届けきるかを試行錯誤する取り組みが行われています。
 こうした放送をめぐる枠組みや制作者の意識の変化に、放送研究はどう対応していけばいいのでしょうか?
 研究する対象も再構築が迫られるでしょう。既に、インターネットやソーシャルメディアなど、多様化するメディアの研究は進んでいます。一方、制作者研究においても、これまで対象としてこなかった分野、たとえば、ネット映像や現代アート作品〈も〉視野に入れ、広く映像コンテンツを見つめ直す必要性があるのではないでしょうか。つまり、総合的な「映像学」を視線の先に置いて、放送研究をとらえ直すという意識も大切になってくるのではないでしょうか。
 そんな思いを抱きながら、私は、今後の放送研究の手がかりを得られればと、2月4日から2月20日まで東京で開催されている、恵比寿映像祭を訪れました。


220216-11.png 恵比寿映像祭は、日本初の写真と映像の専門美術館である東京都写真美術館と東京都などが主催して、2009年から毎年開かれている、日本では数少ない、公立美術館による映像に特化した芸術祭です。
 これまで映像作家のジョナス・メカス、ビデオアーティストのナム・ジュン・パイク、ドキュメンタリー映画監督の土本典昭など、国内外の著名な作家の作品を集め、展示・上映を行ってきました。映像祭には、現代アートを中心に、映画、アニメーション、写真、演劇パフォーマンスなど、様々なジャンルをベースにした表現者が集まり、映像を見る視点を揺り動かし、思考を拡げる機会を与えてくれます。
 ドキュメンタリー研究を志している私は、『事実や歴史的なできごとを出発点にして、どう物語を編み、いかに多様なナラティヴ(物語の語り方)を生み出すか』という点から、二人の表現者に注目してみました。

 まず、アーティストの佐藤朋子さんです。彼女がベースにしているのは、レクチャーパフォーマンスという分野で、アーティストがひとり舞台に立ち、映像や画像や音声など様々なメディアを用いながら観客に直接語りかけるものです。演劇パフォーマンスの一分野として、1960年代に英米圏で始まり、2000年代以降、世界的に再び注目が高まって、現代アート界では「レクチャーパフォーマンスの再来」とも言える状況が生まれています。

220216-22.png 1990年に長野県で生まれた佐藤さんは、日本が近代化に向かう過程でこぼれ落ちた〈小さな〉歴史的なできごとを集め、語り直すことを作品にしてきました。彼女が重視するのはリサーチです。フィールドワークやインタビュー、文献調査などを行い、浮かび上がってきた事実を複眼的につなぎ合わせ、事実とフィクションを行き来する物語を構築し、レクチャーパフォーマンスという形で上演してきたのです。
 現在取り組んでいるプロジェクト《オバケ東京のためのインデックス》では、芸術家・岡本太郎が提案した、もうひとつの東京を構想する〈オバケ東京〉という都市論をベースにしています。岡本の思考を出発点にして、東京を〈非人間〉の視点で読み解こうとしているのです。昨年、プロジェクトの序章として行われたレクチャーパフォーマンス公演では、〈非人間〉として怪獣・ゴジラを登場させました。今回の映像祭では、ライブで行われたこの舞台を再構成。新たに撮影・編集を行い映像作品にしたものを展示しています。


220216-33.png この冬、私は、《オバケ東京のためのインデックス》シリーズの新たな章に向けた、佐藤さんのリサーチに同行する機会を二度得ることができました。
 2021年12月、彼女は、東京・有栖川宮記念公園でカラスを探していました。動物行動学者とともに、カラスの影を探し、その声に耳をそばだてていたのです。『〈非人間〉の視点から東京を見ると、都市はどんな姿を表すのか?』そんな問いを立て、都市でもっとも身近な動物のひとつ、カラスの視点から、東京を眺め直そうとしていました。
 2022年1月、彼女は、皇居前広場から明治神宮外苑まで、天皇が儀礼で移動したルートを歩いていました。同行していたのは、近代の東京における天皇にまつわる儀礼空間を研究している建築史家です。儀礼という視点から東京をとらえ直そうとしていました。

 このような専門家へのヒアリングを始めとした詳細なリサーチを行い、集めた事実を素材として構成する制作プロセス。それはまるでドキュメンタリーのディレクターの取材そのものだと感じる部分もありました。
 そして、アウトプットである公演では、一定の時間内で、リサーチで集めた歴史的な事実や言葉の引用を元に、自らの語りで物語を編んでいきます。そのスタイルは、決まった放送時間の中でインタビューとナレーションを主として物語を進行する、テレビドキュメンタリーとの類似を感じさせます。
 私が彼女の作品に注目するのは、その制作プロセスとアウトプットの、テレビドキュメンタリーとの相似と、それでも残る相違。例えば、説明せずに、要素と要素を直接ぶつけ、少しの違和感をあえて残すようなシークエンスの作り方などの中に、ドキュメンタリーを拡張させるヒントがあるのかもしれないと感じているからです。

  *  *  *  *  *

 二人目にご紹介するのは、タイ出身の映画監督アノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督です。アメリカのコロンビア大学の芸術学部で学んだ彼女は、卒業制作が2006年カンヌ国際映画祭で上映され、短編作品としてタイ映画史上初のカンヌ入りを果たしたとして一躍注目を集めます。その後も現代アート的な作風の作品で国際映画賞を受賞。タイを代表するアピチャッポン・ウィーラセタクン監督に続く世代として、国際的に高く評価されているひとりです。

220216-4444.png スウィチャーゴーンポン監督が関心を抱いてきたのは歴史だといいます。恵比寿映像祭では、代表的な二つの長編映画が上映されていますが、そのうちのひとつ、《暗くなるまでには》は、彼女が生まれた年に起きた、ある歴史的な事件を出発点にしています。
 1976年、バンコクにあるタマサート大学で起きた「血の水曜日事件」。学生運動をしていた若者たちが、警察や右翼集団に襲われ、少なくとも46人が虐殺されたといいます。しかし、今でもタイのマスメディアではほとんど扱われることがなく、タブーのひとつとなっています。
 この作品では、映像はリアリズムへの愛を信奉するかのように丁寧に編まれる一方で、物語は混乱と断絶を徐々にそして深く生み出していきます。
 映画は、四人の若者が線香をあげて祈るシーンから始まります。次に若者たちが、銃を持ち制服を着た人々によって床にうつぶせに並べられ虐待を受けるシーンが続きます。同じシーンで、その虐待を“演技指導”し撮影するスタッフの姿も現れます。そして二人の男女が何かから逃れるように野道を歩き、川辺に佇むシーンが連なります。
 タイトルを挟んで物語は“現代”へ。「血の水曜日事件」を生き延びた、元・学生運動の活動家の女性と、彼女をモデルに映画を作りたいと考える女性映画監督のシーンになります。(この元・活動家のエピソードは、タイ人なら、実在する著名な詩人チラナン・ピットプリーチャーさんをすぐに連想するようです)元・活動家の過去についてインタビューをしながら、映画監督は作品の構想を固めようとします。
 このまま二人の対話を元に進むかと思われた映画は、物語という骨格の関節が脱臼したかのように、別のエピソードや、既に登場したエピソードの上書きのようなシーンが連なり、時間軸も主人公も交錯していきます。

 この映画が持つ、物語が次第に破綻していくような語り方に対して、『監督は映画の文法の解体をなかば即興的に試みているのではないか』という見立てもできると思います。しかし、私は違う見立ても提示しておきたいと思います。それは物語の語り方の多様性です。
 彼女は、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督と同じく、欧米での映画や芸術の教育や理論を背景に持っています。また映画の撮影現場では、役者に精密なキャラクター設定を渡し、演出していたそうです。そんな彼女から、物語の破壊への衝動ではなく、設計された意図を読み解きたいのです。
 具体的にひとつのパートを取り上げてみたいと思います。
 先ほどご紹介した冒頭近くの元・活動家の女性と映画監督が出会うシーンについてです。映画の中盤を過ぎた60分すぎ、まったく同じ場所で二人の出会いのシーンが繰り返されます。しかしそこでは一度目のシーンとは違う役者が元・活動家と映画監督を演じているのです。セリフや身ぶりなどの細部は違いますが、シーンの大きな流れは変わりません。さらにはそのあとに、最初の俳優の組み合わせで演じられるシーンが再び現れます。
 いったいどういう意図があるのでしょうか?
 例えば、説明は一切ありませんが、映画監督が構想していた、元・活動家を主人公にした映画の完成を暗示しているのかもしれません。しかし、再び、元の役者に組み合わせに戻る構成にはうまくつながりません。
 私は、解釈をひとつにすることには慎重にならないといけないと感じます。なぜなら、この映画自体がそうした、現実とその答えを一対一で結びつけるような画一的な解釈への疑いを投げかけているように感じるからです。
 それでもあえて監督の意図の考察を続けてみましょう。
 少し抽象的な話になりますが、現代において盛んに語られる、モダニズムと呼ばれる、近代における西洋中心主義的な価値観への疑問―例えば、人間と自然との二項対立、事実はひとつであるという客観性への信頼、ひとつの正統的な歴史があり人類は進歩に向かっているという歴史観などへの疑問―がこうしたナラティヴの背景にあることを見出せるのではないでしょうか。
 この映画で用いられている独特の語り方、例えば、物語の入り口と出口がつながっていないように見えるストーリーテリング、主人公と思われた人物が途中で消え相互に交わらない人物相関図、同じ設定の人物を複数の役者が演じるキャスティングなどを通じて、監督は、これまで前提とされてきた近代的な世界観や〈わかりやすい〉物語の語り方とは違う方法を提示しようとしているのではないかと私は感じるのです。

220216-5555.png これが放送の制作現場やその研究とどう結びつくか、疑問を持たれる方が多いかもしれません。
 テレビ番組の放送前に繰り返される試写。そこで、おそらく一番耳にするのは〈わかる/わからない〉という言葉だと思います。しかし、近年、制作現場では、特に若い世代から、〈わかりやすすぎること〉への疑問の声を耳にすることが増えています。視聴者に良くも悪くも疑問が浮かぶ余地を残さないようにする、〈わかりやすさ〉を第一とする語り方に対して、一部の制作者が感じる違和感はどこから生まれているのでしょうか。
 飛躍しすぎるという指摘を覚悟していえば、アノーチャ・スウィチャーゴーンポン監督作品の語り方に見られるように、世界で同時多発的に起こっている価値観の多様化が、制作者の意識にも反映され、テレビのストーリーテリングも多様性の時代を迎えているのかもしれません。典型的なストーリーテリング〈だけ〉を頼りにすることや、わかりやすさ(わかりやすすぎること)〈だけ〉に忠実になることへの慎重な姿勢も、頭の片すみに置いておく必要があるのかもしれません。

  *  *  *  *  *

 恵比寿映像祭を見ていて、ある言葉を思い出しました。芸術大学などでアーティスト教育の現場に立ち会う機会があるのですが、そこで指導者が発した、とても印象的な言葉です。

 『観客をもっと信頼していいんだよ。テレビ番組みたいに説明しすぎないで。観客の想像力をもっと信じて制作していいんだよ』

 必ずしも〈わかりやすい〉わけではない現代アートの映像作品。しかし、そこに見られる語り方や構成、そしてその背景を分析することで、今後の放送研究、さらにはコンテンツ制作の参考となる新たな視点を見出すことができるかもしれません。


放送ヒストリー 2021年12月27日 (月)

#356 ラジオ第2放送90年と語学講座の歴史

メディア研究部(番組研究) 宇治橋祐之


 1931年開局のラジオ第2放送は2021年で90周年を迎えました。ラジオ放送が1波しかない時代は、例えば野球中継が延びると、予定していた時間に相場の放送(株式市況)ができず、相場の放送を優先すると、野球ファンから苦情がくるという状況でした。そこで、本来教育放送を目的として開局したラジオ第2放送で野球中継を行うなどして、聴取者の番組選択の幅を広げたのです。

 教育放送としてのラジオ第2放送の中心の一つは学校放送番組です。1941年に撮影されたこの写真は、小学校でのラジオ聴取の様子です。当時の最新メディアであるラジオから送られてくる番組を、全国の先生と子どもが聞けるようになりました。

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 学校放送番組と並んで、教育放送の中心となるのが語学講座です。ラジオで発音を聞くことができるのは、語学を学ぶ人の大きな助けとなりました。「カムカムおじさん」として知られる平川唯一さんが講師を務めたラジオ番組『英語会話』は、1946年からラジオ第1放送とラジオ第2放送で放送され、多くの聴取者を集めます。2021年11月から放送しているNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』では、このラジオ英語講座がストーリーの柱となっています。当時の講座の雰囲気はラジオ第2放送で2021年11月から放送している『ラジオで!カムカムエヴリバディ』で聞くこともできます 1)
(NHKネットラジオ「らじる★らじる」の聴き逃しサービスもあります)

 ラジオを使った語学の学習は、放送で音声を聞くだけでなく、例文や解説を掲載したテキストと併せて学ぶことで、さらに効果が高まります。ラジオの教育番組の多くはテキストが出版されています。出版元であるNHK出版は、ラジオ第2放送が開始されたのと同じ1931年に日本放送出版協会として創業。ラジオ第2放送の黎明期からテキストを出版し、今年で90周年を迎えました。創業期の英語講座のテキストや平川唯一さんの音声は、NHK出版語学テキスト90周年企画ウェブサイト「NHKテキストクロニクル」で公開されています 2)。また、NHK放送博物館では、企画展示「「カムカム英語」にいらっしゃ~い!~展示で体感!「カムカムエヴリバディ」の世界~」で、テキストの実物などを展示しています
3)。(2022116日(日)まで)

 今の若い世代の中には、ラジオやラジカセの実物を見たことがない人もいるそうですが、最近はスマートフォンで音声メディアを聞いたり、学習に利用したりする人も増えています。NHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』と合わせて、ラジオ第2放送と語学番組の歴史を振り返るのはいかがでしょうか。

 『放送研究と調査』2021年11月号「ラジオ第2放送90年 生涯学習波への広がりとインターネット展開」では、90年の歴史を振り返りつつ、特に2000年代からのインターネット展開と、語学番組・高校講座の変遷をとりあげています。よろしければご一読ください。



1) 「ラジオで!カムカムエヴリバディ」

2) 「NHKテキストクロニクル」(NHK出版)

3) NHK放送博物館 企画展示情報

放送ヒストリー 2021年05月28日 (金)

#325 「南方」の占領地で何が放送されたか

メディア研究部(メディア史研究) 村上聖一


 太平洋戦争下、日本軍が「南方」と呼ばれた東南アジアの一帯に30以上の放送局を開設していたことは、「#318 太平洋戦争下、「南方」で行われた放送を振り返る」でお伝えしましたが、今回は、どのような番組が放送されたのかを振り返ってみます。

 日本軍が占領地に多数の放送局を設けた目的としては、対敵宣伝や現地の日本人に向けた情報伝達も挙げられますが、特に重要だったのが、現地の人々に日本の占領政策を宣伝するとともに、番組を通じて日本への親近感を抱いてもらうことでした。

 しかし、そうした目的を達成するのは非常に困難なことでした。現地の多様な言語や民族事情を考慮する必要があったことに加え、そもそも住民のほとんどがラジオを持っていないという問題がありました。

 下記は、ジャワ島(インドネシア)に置かれたジャカルタ放送局の番組表です。深夜まで多くの番組が放送されていますが、放送はさまざまな言語で行われており、一つの言語当たりでみれば、日本の占領政策をストレートに宣伝できる時間はあまり多くなかったと考えられます。

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 そうした中で、現地の放送局が力を入れたのが音楽番組でした。日本軍はラジオを持っていない人々のために、街のあちこちにラジオ塔を立てて、スピーカーで番組を流していましたが、音楽番組がそうした放送の形態に適していた面があります。スピーカーを取り付けた樹木を、現地の人々が「音楽の木」と呼んで親しんでいたといった記録も残されています。

 ジャワ島の場合、クロンチョンやガムラン楽器の演奏といった現地の音楽が多く放送されました(上記の表ではコロンチョン、ガメランと表記)。以下の写真はジャワ島中部のソロ放送局が行った民族音楽の演奏中継のもようです。

210528-22png.png ソロ放送局では、写真のようなパンフレットも作って、現地の人々に放送を聴いてもらおうとしていました。女性が歌を歌っているようすがデザインされています。下部に「SOLO HOSO KYOKU」(ソロ放送局)と記されています。

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 ラジオ塔を利用して行われた放送について、戦後、取りまとめられた資料には、次のような記述が見られます。

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 しかし、これは日本側からの見方であり、現地の人々が本当のところ、どのような思いで番組を聴いていたかはわかりません。日本の軍政に対する不満が高まっていく中で、音楽番組がそれを和らげる効果を持ったかどうかは、現地の資料によって確認する必要があります。そうした点は、今後の研究課題の一つと考えているところです。

 南方で行われた現地住民向け放送については、『放送研究と調査』4月号、「南方放送史」再考② 現地住民向け放送の実態~蘭印を例に」で詳しく検討を行っています。ぜひご一読いただければと思います。


 

放送ヒストリー 2021年04月28日 (水)

#318 太平洋戦争下、「南方」で行われた放送を振り返る

メディア研究部(メディア史研究) 村上聖一


 今から約80年前、太平洋戦争では、日本の陸海軍が一時、東南アジアの広大な地域を占領しましたが、占領地に軍が多数の放送局を設置して、ラジオ放送を行っていたことはあまり知られていないと思います。『放送研究と調査』では、戦時中に放送が果たした役割を検証するため、3回シリーズで、その「南方」と呼ばれた占領地で行われた放送について振り返っています。

 1回目の3月号、「南方放送史」再考①~大東亜共栄圏構想と放送体制の整備~」では、放送開始までの経緯について検証しています。ここでは放送の概要を見ておくことにしましょう。

 地図は、1944年12月の時点で日本軍が東南アジアの占領地に置いていた放送局の場所を示したものです。これ以外にも小規模な放送局があったことから、その数は30を超えました。当時の日本放送協会の放送局(内地で放送を行っていた放送局)の数が40余りでしたので、軍が占領地での放送にいかに力を入れていたかがわかります。

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 写真は、ジャワ島(現在のインドネシア)のバンドン放送局です。立派な外観ですが、日本軍が建設したものではなく、戦前のオランダ植民地時代の放送局を接収して使っていました。

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 こうした放送局は軍が管理しましたが、実際に番組制作を担ったのは、もっぱら日本放送協会から派遣された職員とそのもとで働く現地の住民でした。放送に求められたのは、▽現地の日本人向けの情報伝達、▽連合国軍に向けられた対敵宣伝、▽占領地の住民の民心安定、の3つの役割でした。

 しかし、開戦によって突然、「南方」に送り込まれた放送局の職員が、言葉も習慣も異なる住民向けに番組を作るのは非常に難しかったと思われます。職員の多くはこれまで海外向けの放送に携わったことがない人々でした。

 さらに、放送を出したものの、そもそも現地ではラジオの受信機がほとんど普及していませんでした。このため各放送局では、写真のようなラジオ塔(放送を受信してスピーカーで周囲に流す設備)を街のあちこちに立て、現地の人々に何とかして番組を聴いてもらおうとしていました。

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 シリーズでは、史料から浮かび上がるそうしたラジオ放送の普及策に加え、放送局が具体的にどのような番組を放送していたのか、また、日本の敗色が濃くなる中、放送局の職員はどのように対応していたのかといった点について、詳しく分析しています。ぜひご一読いただければと思います。


放送ヒストリー 2020年10月16日 (金)

#277 「6人目のドリフ」って?

メディア研究部(メディア史研究) 広谷鏡子


 私の兄が大学受験に失敗した年、母は何を血迷ったか、家族全員にテレビ禁止令を発しました。そのため、我が家は1972年4月からのほぼ1年間、『8時だョ!全員集合』(TBS系列)を見ることなく過ごしたのです。月曜日、その話題で持ちきりの教室で、人気のギャグを知っている振りをして過ごすしかなかった切なさを、私はよく覚えています。家庭用ビデオもYouTubeもない時代、生放送を見ずしてそのギャグにはお目にかかれない。それほどの影響力をテレビが持っていた頃のお話です。
「放送研究と調査」9月号に掲載した論考「『6人目のドリフ』は僕らだった」、その主役は「テレビ美術」です。生放送中に派手に崩れていくセット、ちょっとキモ可愛い動物のキャラクターや着ぐるみ、独創的な小道具…。それらはすべて「美術」です。舞台上で、ドリフターズの次に光を放っていたので、「6人目のドリフ」なのです。その美術計画の中心にいた人が、TBSの山田満郎デザイナー。すでに亡くなっているので、このインタビューは、今はいない山田さんがあたかもそこにいるかのように、当時のスタッフに語ってもらうという形で行いました。スタッフの記憶を呼び覚ましたのは、図面やスケッチ、写真など、山田さんの残した緻密かつ膨大な資料でした。

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山田デザイナーによるスケッチ(第242回「ドリフの夢のマイホーム」・山田氏遺族提供)

 お話を聞いている間に、幾度か泣きそうになってしまうことがありました。働き方改革などチャンチャラおかしい当時の現場で、スタッフが流した汗や涙(時には血まで!)に、ついついもらい泣きです。しかし一番ツボだったのは、山田さんのご子息の言葉です。家族も影響を受けていたのです。論考本文の後の(注26)に載せました。よかったらこちらもご覧ください。
 毎週土曜の夜8時、たった54分間のために、スタッフも、視聴者も「全員集合」していた時代がありました。そこで流れた汗はテレビの未来のために無駄ではなかった、と信じたい気持ちになります。


放送ヒストリー 2020年09月18日 (金)

#272 電車の中で考えたこと

メディア研究部(メディア史研究) 大森淳郎


 1年ほど前のことです。電車の中で下校途中の高校生の一団が北朝鮮のアナウンサーのものまねをしてふざけていました。中々上手で、思わずニヤッとしてしまいました。でも、高校生たちが笑いながら電車から降りていった後、ちょっと嫌な後味が残りました、彼らの笑いの中に、批判とは別の、なにか人をばかにしたような侮蔑のニュアンスを感じたからです。
しかし、まあ仕方がないのかもしれません。あのアナウンサーの女性(リ・チュニさん)の朗々たるニュースの読み方は、私たちにはどうしても滑稽なものに聞こえてしまいます。
 さて、シリーズ「戦争とラジオ」第6回「国策の「宣伝者」として~アナウンサーたちの戦争~」では、戦時ラジオ放送におけるアナウンス理論の問題に焦点を当てています。北朝鮮には「放送員話術」というアナウンサーの理論書があるそうです。リ・チュニさんのアナウンスも、そこに書かれた理論に基づくものです。北朝鮮の体制を維持するためにはどんなアナウンスが相応しいのか、きっと真剣な議論があるのでしょう。日本でも同じでした。日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本放送協会のアナウンサーたちは、どうすれば戦争協力に寄与できるのか、侃々諤々の議論を重ねていました。
 ニュースの内容ではなく、その読み方によって国民を戦争に動員する。それはどんな挑戦だったのでしょうか。詳しくは拙稿をお読み下さい。


放送ヒストリー 2020年08月28日 (金)

#266 残された資料をもとに探る放送法・電波法の制定過程

メディア研究部(メディア史研究) 村上聖一

 放送局(放送事業者)が「政治的公平」などを定めた番組準則(放送法4条)に違反した場合、電波法76条に基づいて放送局の運用停止処分(いわゆる電波停止)ができるのかという問題をめぐっては、今なおさまざまな見解が見られます。
 電波法76条には確かに、「総務大臣は、免許人等がこの法律、放送法若しくはこれらの法律に基づく命令又はこれらに基づく処分に違反したときは、三月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ、又は期間を定めて運用許容時間、周波数若しくは空中線電力を制限することができる」と書かれています。
 これだけを読めば、放送法の何らかの規定に違反すれば、電波停止処分ができるようにも見えます。しかし、そもそもこの条文は番組準則違反のようなケースまで想定して制定されたのでしょうか。

 その点を検証するため、『放送研究と調査』2020年7月号「電波三法 成立直前に盛り込まれた規制強化」では、1950年の放送法・電波法の制定時にさかのぼって条文の趣旨を探りました。
 詳しくは論考をお読みいただければと思いますが、結論としては、番組準則と電波停止処分に関する検討は別々になされ、双方を結びつける議論はなされていなかったと考えられます。もっとも、議論がなかったことを証明するのは難しく、せめて国会審議の場で言及されていれば、あるいは制定過程を記録した文書が保存されていれば、といった思いを抱かざるを得ません。

 次の写真は、電波法が成立する2か月前の1950年2月に行われた検討の記録です。ただし、公文書として正式に残されたものではありません。議論に加わっていた当時の電波庁幹部がその後長く保管し、1980年代になってNHK放送文化研究所に寄贈された資料に含まれていたものです。

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検討事項が手書きで書き込まれた電波法案(右は表紙、左は電波法76条部分)
表紙には手書きで「昭和二五、二 宮ノ下審議」とあり、その横に出席者名が書かれている。
(NHK放送文化研究所所蔵 荘宏文書)


 これを読みますと、前年12月に国会に提出された電波法案や放送法案をめぐって、電波庁や衆議院法制局の幹部が箱根の温泉旅館に泊まり込み、修正の検討を行ったことがわかります。このとき、電波法76条の処分の対象として、当初の法案にはなかった「放送法違反」を新たに加える検討がなされたことが記されています。しかし、放送法案の番組準則については何も書き込みはありません。また、なぜ法案を修正するのかという点も書かれていません。

 一方、番組準則はこれとは別に、その後の国会内の協議で、「政治的公平」などに関する修正がなされたものと見られますが、その経過がはっきりわかるのは、当時、日本を占領していたGHQの文書によってです。そうした日本側とのやり取りの記録がGHQ側に残されていたケースは少なくありません。
 次の写真は、衆議院の電気通信委員会が1950年3月、法案修正についてGHQの承認を求めるために送付した文書の一部です。衆議院が作った英文の文書ですが、日本側では見つかっていません。文書はGHQによって保管されていたものがアメリカの国立公文書館に移され、それを日本の国立国会図書館が複写して公開しているものです。

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衆議院電気通信委員会・辻寛一委員長名のGSあて書簡(1950年3月16日)
(国立国会図書館所蔵 GHQ/SCAP文書)

 この文書を含め、GHQが残した資料には電波法76条と番組準則を結びつける記述は見当たりません。放送法には、一般に電波法で規定されている設備関連の規定があるため、その点もカバーするため電波法案の修正がなされた可能性が高いと思われますが、決定的な証拠はありません。
 ただ、もし仮に電波法76条の規定が番組規制につながるものとして日本側の立法担当者の間で議論になっていたとすれば、放送の民主化を求めていたGHQがまったく記録を残さないことは考えにくく、そうした点からは、番組準則違反と電波停止を結びつける議論は、少なくとも公式の場では、なされなかった可能性が高いと考えられます。

 このように放送法や電波法の成り立ちには、今なお、はっきりしない点が残されています。電波法76条をめぐってさまざまな見解があることは冒頭に触れたとおりですが、そうした相違が生じている原因の一つとして、文書が残されていないために、そもそも、なぜ電波法76条の対象に放送法違反が加えられたのかがわからないという点があると思います。
 この条文に限らず、放送法や電波法をめぐっては、「立法過程を記した文書が保存・公開されていれば、条文の趣旨が明確になり、より建設的な議論ができるのではないか」という思いを抱くことは少なくありません。日本の法律の成り立ちを振り返るうえで、GHQの文書に頼らざるをえないというのも残念なことです。
 そして、こうした問題は、必ずしも過去のものではないように思われます。どのように政策が決定され、法律ができあがってきたのかを明確にしておくためにも、公文書をきちんと保存し、公開していくことがきわめて重要ではないかと、放送法や電波法の制定過程を振り返りつつ、改めて思います。