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放送ヒストリー

放送ヒストリー 2019年12月10日 (火)

#223 カーラジオから聞こえてきたのは・・・

メディア研究部(メディア史)大森淳郎

初任地、富山での思い出です。
ある冬の嵐の日、富山湾岸を雨漏りのする中古のスズキジムニーで飛ばしていました。
何の取材だったか思い出せないのですが、うまく取材が進んでいなかったことだけは確かです。暗い空とうねる波。冬の日本海は、眺めているだけで気持ちが塞ぎますが、仕事もうまくいっていないとなればなおさらです。そんなときでした、付けっぱなしにしていたカーラジオから突然、不思議な女性の声が聞こえてきたのは。

あなたたちは騙されているのです・・・・。

北朝鮮の謀略放送でした。もっと色々なこと(アメリカ帝国主義がどうだとか、日本はその傀儡であるとか)を聴いたはずですが、今でも鮮明に覚えているのは「あなたたちは騙されているのです」という印象的なフレーズだけです。普通なら、笑い飛ばすか、面白い経験を誰に話そうかとニンマリするところですが、そのときはこう思いました。「騙されている?なるほど、そうかもしれないな」。きっと心身ともに疲弊しきっていたのです。
でも、今でもこうは思います。私たちは、北朝鮮の人々(全部ではありません)が騙されていると考えるけど、あちらから見ればその逆なんだろうな。私は北朝鮮の社会がよいものとは思いませんが、価値の体系はいつも相対的なものです。

さて、なぜ、こんな遠い昔の出来事を思い出したかといえば、『放送研究と調査』11.12月号に掲載したシリーズ戦争とラジオ第5回「“慰安”と“指導” ~放送人・奥屋熊郎の闘い~」を書くにあたって、同じようなことを考えたからです。
奥屋熊郎は日本の放送の基礎を築いた1人です。ラジオ体操、野球中継、国民歌謡・・・。奥屋が開拓した放送分野は枚挙に暇がありません。希有な構想力と実行力を兼ね備えた大プロデューサーでした。そしてリルケやベートーベンを愛する芸術肌の人物でした。奥屋は、太平洋戦争の真っ只中の1943年、大阪中央放送局(BK)放送部長の地位を棄てて日本放送協会を去っています。ファナティックな軍国主義に染め上げられたラジオ放送に堪えられなくなったからでした。でも、そんな奥屋ですが、日中戦争から太平洋戦争初期にかけては、BKで戦争の旗振り役を積極的に担っていました。おそらく、日本の社会全体が右に向かって地滑りを起こした1930年代、奥屋自身も、ごく普通の国を愛する1人として社会の地盤もろともに右に転がり落ちたのだと思います、そのことは、奥屋自身には見えない。彼もまた日本という1つの価値体系の住人だからです。でも、だからといって奥屋が免責されるわけではない。彼は社会に大きな影響力をもつメディアの人間でした。大衆に働きかけて、社会の地盤をまるごと右に地滑りさせた1人でもあるのです。

メディアで働く人間も社会の地盤に立っている。でも、ときにはその地盤そのものをメディアが動かす場合もある・・・。そんなことを考えているとき、ふと遠い昔の思い出が蘇ったしだいです。
冬の日本海、なんだか悪く書いてしまいましたが、天気が良ければ海越しに立山連峰を望む絶景です。そして、魚がうまい!


放送ヒストリー 2019年11月15日 (金)

#219 教育テレビ60年を番組のグループごとに振り返る

メディア研究部(番組研究)宇治橋祐之

1959年1月、日本初の教育専門テレビ局として開局したNHK教育テレビは、2019年で開局60年を迎えました。現在は唯一の教育専門局として「教育番組75%以上、教養番組15%以上」という編成比率で放送を続けています。こうした編成の変遷の全体像については『放送研究と調査』2019年1月号「教育テレビ60年 生涯学習波への広がりとインターネット展開」をご覧ください。

教育番組の比率が高いのが教育テレビの大きな特徴ですが、番組の内容をグループに分けてみると、高校講座などの講座番組や語学番組、幼児向けや青少年向けの番組だけでなく、趣味・実用番組、芸術・芸能番組、科学・健康番組、産業・経済番組など、さまざまなジャンルの番組を放送してきました。

また、かつては番組を家庭で見るだけでなく、学校の授業のように集団で視聴する「テレビ市民セミナー」や「市民大学講座」が各地で開かれていたのも、教育テレビならではの特色でした。

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テレビ利用の市民大学講座(1970年代)

放送文化研究所では、教育テレビ40年の際に番組を16のグループに分類して、その変遷をまとめました。それを引き継ぐ形で60年の変遷を『放送研究と調査』10月号から、3回シリーズで連載しています。

それぞれの番組グループごとに60年の番組の変遷を表にまとめてみると、前半の30年と後半の30年では大きな違いが見られました。例えば最初の30年は番組のタイトルが変わらず10年以上続くことも多かったのですが、後半の30年は3~5年ごとに変わることが増えてきました。

タイトルそのものも開局初期の『技能講座』が趣味どきっ!、『日曜大学』が『知る楽』、『婦人学級』が『すくすく子育て』、『社会福祉の時間』がハートネットTVというように、「講座」「大学」「学級」「時間」という、学校の授業や指導をイメージさせるタイトルから、カタカナや擬音を入れた、視聴者の感情に寄り添うものに変化してきています。

近年は「Eテレ」の愛称が定着し知的エンターテインメントを目指す番組が増えてきましたが、教育テレビの60年の変化を知っておくことは、この先の教育メディアで変えるべきものと守るべきもの、「不易流行」を考える上で大切だと思います。


放送ヒストリー 2019年10月11日 (金)

#212 「外地」で行われた放送の記録

メディア研究部(メディア史)村上聖一


戦前から戦時中にかけて、中国大陸や台湾、南洋諸島といったさまざまな場所で、日本語のラジオ放送が行われていました。
NHK放送文化研究所では、1960年代以降、いわゆる「外地」と呼ばれた地域を中心に、放送に関する文書や証言の収集を進め、史料集を編纂してきました(写真)。史料集はNHK放送博物館や国立国会図書館で手にすることができますが、その存在はあまり知られていませんので、現在、『放送研究と調査』「放送史料探訪」のコーナーで概要の紹介を行っています。

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左上から、『放送史料集 豊原放送局』(1971年)、『放送史料集 パラオ放送局』(1972年)、
『外地放送史資料 満州編(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)』(1979年~1980年)
『放送史料集 台湾
放送協会』(1998年)



このうち、『放送史料集 パラオ放送局』は、南洋諸島のコロール島(現・パラオ共和国)に設けられたパラオ放送局(1941年9月~1944年8月)の史料をまとめたものです。今ではリゾート地としてのイメージも強いパラオですが、当時は、日本放送協会による海外向け放送の一大中継拠点であり、宣伝戦の最前線でした。


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開局記念の絵はがき入れ(『放送史料集 パラオ放送局』口絵ページから)


ただ、史料集を見ますと、パラオ放送局では、島民向けのニュースや、島の子どもたちが出演して唱歌を歌う番組など、地元向けの放送も行われていたこともわかります。パラオ放送局は、1944年7月末のアメリカ軍の空襲によって放送停止に追い込まれましたが、それまで南洋諸島に新たな文化を普及させようと、多様な取り組みをしていたことが史料集からは浮かび上がります。

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パラオ放送局の外観(『放送史料集 パラオ放送局』口絵ページから)

一方で、史料集を編纂できるだけの文書が残された放送局は多くはありません。戦時中には、フィリピンやビルマ(現・ミャンマー)でも放送が行われていましたが、激しい戦闘を経て、残された記録は限られています。朝鮮放送協会(1932年~1945年)に関する史料も、収集できたものは少なく、放送文化研究所では史料集編纂には至っていません。
しかし、戦前・戦時中に日本が関係した放送の記録は、さまざまな国・地域の文書館や図書館などに残されている可能性はあります。放送が果たした歴史的な役割を検証するためにも、残された史料の収集は今なお重要な課題になっています。

 『放送研究と調査』に掲載した「放送史料探訪」は、以下からご覧いただけます。

【NHK放送文化研究所 放送史研究】
https://www.nhk.or.jp/bunken/research/history/index.html



放送ヒストリー 2019年05月10日 (金)

#185 「現実に負けに行く」精神

メディア研究部(メディア史研究) 宮田 章

ネット時代の昨今、人々は見たいものだけを見て、聞きたいことだけを聞いていると言われる。自分の好みや信念に合う情報なら、それがフェイクでも現実と信じ込み、逆に自分の好みや信念に合わない現実を「そんなことあるわけがない」と否認する人も多くなっているようである。

筆者はかつてテレビドキュメンタリー(以下「ドキュメンタリー」と記す)の実作者であり、今はその制作技法の経年的な展開を研究している[i]。この小文では、多くの優れたドキュメンタリーが、その作り手の好みや信念が、現実に裏切られることをむしろ喜び、歓迎するタイプの精神から生まれたことを指摘したい思う。

優れたドキュメンタリーの作り手の多くは自己否定の達人である。ある現実についての自分の考えが、現実自体によって裏切られることを喜ぶ性格を持ち合わせている。そうでないと、その作り手は、自分の考えとは違う現実が持つ魅力を、自分の番組に取り込みにくいからである。優れたドキュメンタリーの作り手の多くは、いわば「現実に負けに行く」という気概を持っている。

「現実に負ける」ためには、「負ける」に値するだけの自分の考えを持たなければならない。優れたドキュメンタリーの作り手の多くは調べ魔である。徹底的にリサーチしてそのテーマについて自分の考えを養い、それをロケ前の番組構成案にまとめる。「どうせ負けに行くのだから」などと手を抜くことはない。構成案が的確であればあるほど、より高いレベルで現実に「負ける」ことができる。

ロケ現場についたら構成案の細かい部分は忘れる。なるべく相手のペースに合わせて、その時その場のヒト、コト、モノに接する。運良く、自分では思いもよらなかった現実の豊かさ・複雑さ・割り切れなさ・・・に触れられたなら、めでたく「負け決定」である。優れた作り手はこれを発見として歓迎する。ロケだけではない。ロケ後の編集室でも多くの発見がある。収録してきた映像と音声を多種多様に組み合わせる中で、たくさんの未知のものが生まれるからである。ドキュメンタリーの企画時を入口、放送時を出口とすれば、入口と出口で作り手の考えは変わっていなければならない。入口と出口が同じなら、わざわざドキュメンタリーなど作る必要はない。作り手が入り口で知っている程度のことは、そのテーマに関心がある者なら、大抵知っているからである。

フェイクを現実と信じ込み、現実をフェイクと否認する傾向をネットが固定・強化するばかりなら、この社会は危うい。自分の好みや信念が、現実に裏切られることをむしろ喜び、歓迎するという精神現実に負けに行く」ドキュメンタリー制作の精神は、現代において重要な意味を持っているのではないだろうか。


[i] 『放送研究と調査』2019年4月号に、NHKドキュメンタリーの制作技法の中長期的な展開」という論文を掲載しました。NHKのテレビドキュメンタリーを対象にした初めての通史です。興味のある方はご一読下さい。

放送ヒストリー 2019年04月22日 (月)

#182 公共放送の内側から見た「放送制度」

メディア研究部(メディア動向) 山田 潔


「放送法の一部を改正する法律案」が3月5日、国会に提出されました。この改正案は、NHKのテレビ放送をインターネットで常時同時に配信できるようにNHKのインターネット活用業務の対象を拡大すること、また、関連団体も含めたNHKグループの経営の適正性を確保することなどに向けた制度整備を図るものです。電波による無線放送を行ってきた公共放送NHKを、インターネット動画配信が一般化したこの時代に、どのように対応させるべきか、現時点での「放送制度」が審議されています。

私たちは『放送研究と調査』2019年2月号から「シリーズ 証言を基に読みとく放送制度」の掲載を開始しています。これまでに何度も修正され、作り上げられてきた「放送制度」の形成過程を、学識経験者や、放送事業者、行政機関の関係者などからの聞き取りを基に検証するシリーズです。

初回は、行政法学者である塩野宏・東大名誉教授の証言でした。第2回は、NHKの経営企画部門で放送制度の見直しなどに関わった元NHK監事・黒川次郎氏の証言(『放送研究と調査』2019年3月号)です。

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証言する黒川次郎氏

黒川氏は、1960年代前半の放送法改正の動きに対応してNHKが設置した放送法制研究会の若手事務局員として、同じく若手研究員だった塩野氏を含む外部有識者による制度検討を間近で経験。その後も受信料体系の見直しや衛星放送開始に伴う制度的対応など放送制度に関する幅広い業務をNHKの中心として担いました。塩野氏とほぼ同時代に、放送制度の形成過程をNHKの内側から見てきた人です。黒川氏の証言は多岐にわたりましたが、今回は1970年代半ばまでを取りまとめました。

カラー放送や衛星放送が放送制度と関係が深いのはもちろんですが、証言を聞くと、一見あまり関係がなさそうな沖縄返還、地価高騰といった事象もNHKの経営にとって大きな影響があったようです。放送制度が技術や社会情勢と密接に絡んでいることがわかります。

「平成」から「令和」へ、いよいよカウントダウンが始まっています。新しい時代、放送はどのように役割を果たしていくのでしょうか。放送制度形成の経緯を、証言を通して立体的に知ることが、今後を考える一助となればいいのですが。

少し間をあけながら、シリーズは今後も続けていきます。
当研究所が届けるアナザー・ストーリー、ぜひ楽しんでください。

放送ヒストリー 2019年03月15日 (金)

#175 シリーズ「証言を基に読み解く放送制度」 スタート ~文研が届けるアナザー・ストーリー~

メディア研究部(メディア動向) 山田 潔


平成が終わり、1つの区切りを迎えようとする中で、いろいろな角度から「昭和そして平成がどういう時代だったのか」の振り返りがなされています。

戦後の昭和から平成にかけて、表現の自由と技術革新を反映しながら大きく成長し、人々にさまざまな情報を届けてきたメディア「放送」。戦後の焼け野原で流れたNHKのラジオ放送だけから、民放ができ、テレビジョン放送開始、それがカラー化し、BS、ハイビジョン、デジタル化、4K・8K、そして今、電波による放送に加えたインターネットの本格活用が模索されています。

日本の放送は、戦前の反省に立ち、豊かで多様な番組をあまねく届ける民主的な放送を目指して、受信料による公共放送NHKと、広告収入による多くの民放という財源を異にする二元体制を中心に互いに切磋琢磨しながら自律的に進んできました。一方で、放送を行うには、電波免許が必要なことや、番組内容についての政治的公平性確保といった規律が設けられるなど、他のメディアと少し異なった制度が設けられています。また、電波や受信機に関する技術規格、放送事業者の経営のあり方などの面でもこれらの要請を前提として考えられてきました。

今回はじめたシリーズは、こうした日本の「放送制度」がどのような過程を経て形成されてきたのかまた、関係者はどのように関与したのかこれまで必ずしも明らかになっていない点を、放送制度の検討に関わった方々の証言を基に読み解こうというものです。


シリーズ第1回(『放送研究と調査』2019年2月号に掲載)は、放送制度の根幹とも言える放送法についてです。放送法は1950年の制定後、改正規模は大小さまざまですが、2018年末までに実に60回も改正され現在に至っています。改正には、所管官庁、放送事業者の担当者、国会議員、放送制度に詳しい有識者など多くの関係者がそれぞれの立場であるべき放送の姿を求めて、関与してきました。

その中でも、理論的・体系的な法制度検討における法学研究者の存在は大きいです。今回は行政法学者として長年にわたり放送法制の研究に携わり、法改正に向けた有識者会議の座長を務めるなど検討の中心となってリードされた東京大学名誉教授・塩野宏氏に、ご自身が放送法に関わり始めた1960年代を中心に伺いました。

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証言する塩野宏氏

当時、民放の成長、テレビの普及という状況を受け、政府の「臨時放送関係法制調査会」に対応するため、NHKが独自に理論的検討を行った「NHK放送法制研究会」に若き研究者として参加された塩野氏。新憲法の下、放送の重要性に鑑み、勢い込んで参加されたかと思いきや……。話は聞いてみないと分らないものです。
歩く知性のような塩野氏ですが、私たちにも分かりやすくお話してくださいました。

当研究所が届けるアナザー・ストーリー 是非のぞいてみてください。
シリーズ第2回も『放送研究と調査』2019年3月号に掲載しました。4月に当ホームページでも全文公開されます。)

放送ヒストリー 2019年01月25日 (金)

#165 組織ジャーナリズムで働くということ

メディア研究部メディア史研究) 大森淳郎


朝日新聞が2008年に出した『新聞と戦争』という本(1年間にわたる同タイトルの新聞連載をまとめたもの)があります。「時代の軋みと記者たちの身悶え」(「はじめに」より)に光をあてた力作ですが、取材班は満州事変後の日本軍の中国侵攻を追認した事実を踏まえてこう書いています。「ペンを取るか生活を取るかは、ジャーナリズムとしての覚悟の問題に帰する」。あんな新聞を出すぐらいなら、なぜ先輩たちは会社を去るという選択をしなかったのかと言っているわけです。

これに対して、作家・井上ひさしは連載を高く評価したうえで、「だが私は、個々の記者は「生活」を取らざるを得ないと思う」と書いています。軍部が社会の実権を握ってからでは、個々の記者の抵抗も、いわんや新聞社としての抵抗も事実上不可能だったのであり、そういう中で「生活」を取った記者たちを、現在の視点から簡単に批判は出来ないだろうと井上は言っています。

 さてシリーズ 戦争とラジオ〈第4回〉では、戦時中の講演放送、学校放送を牽引した2人の人物に焦点をあてました。2人は、日本放送協会に入局する前は、片や詩人として日本の帝国主義を批判し、片や教育学者として国際平和を訴えていました。しかし、入局後は、満州事変、日中戦争、太平洋戦争と続く戦争の時代、放送によって国民を戦争に動員することこそを自らの使命として語るようになってゆきます。でもそれは、丁寧に見てゆけば、やはり「身悶え」しながらのことだった。彼らにも「生活」があった。組織人として生きてゆくために彼らは、妥協し、信念を曲げ、「身悶え」しながら、流されてゆきました。そういう彼らを批判することは容易です。でも歴史から学ぶために本当に必要なことは、彼らの苦悩や葛藤を知ることのはずです。そして自分だったらどうしていたのか考えてみることだと思います。

 まるごと国家権力に取り込まれてしまった組織ジャーナリズムに身を置きながら、個々の記者が抵抗することなど不可能だった、そう言う井上ひさしは、「そうなってしまう以前、まだ批判を書けた時代にもっと頑張れなかったか、がポイントだろう」と記しています。私たちは今、どこにいるのでしょうか。戦争直前などと言うつもりは毛頭ありませんが、でも、沖縄、原発、そして憲法、大きな課題に直面していることは間違いありません。そして私のような放送現場の第一線から退いた人間の耳にも、そういう課題に取り組もうとしている後輩たちが組織とぶつかり葛藤する声が聞こえてこないわけではありません。組織ジャーナリズム(もちろんそれはなくてはならないものです)で働くとはどういうことなのか、時代を超えた問いです。

放送ヒストリー 2018年12月21日 (金)

#160 「ゼロからの出発」 ~戦後沖縄放送史を生きる~ 

メディア研究部(メディア史研究) 吉田 功                      

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「…珊瑚礁の島、沖縄島 ―1945年3月から6月まで約4ヶ月の間、この島の上皮に吹きまくって鉄の暴風はいかに激しく、いかに荒々しく、50万人住民を飢餓と、恐怖と、死の地獄に叩き込んだことであろう…」

戦後はじまったばかりのラジオ放送で、沖縄戦の様子を克明に記した戦記「鉄の暴風」を朗読した、戦後沖縄初のアナウンサー、川平朝清さん。当時24歳だったこの青年は、その後も一貫して沖縄全土に放送を広げることに奔走しました。現在91歳になられた川平さんの証言を軸に、沖縄の放送の歴史を辿りました。『放送文化と調査』12月号をごらんください。

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戦後史、と一口に言っても、沖縄と日本本土ではまったく違います。日本本土とは異なり、米軍統治下の沖縄には、住民の人権も、法で保障された自由もありませんでした。本土と切り離され、米軍の「軍事要塞」と位置づけられたのです。
放送の形態もまったく異なります。この変遷はかなり複雑です。あまり知られていない事実もあります。
そこで3日間、のべ10時間以上にわたり、広谷鏡子研究員とともに川平朝清さんにお話を伺いました。これと合わせて、できる限り関連資料を集め、戦後沖縄放送史の歩みをときほぐしてみました。

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証言のなかで、私がもっとも印象的だったものの一つは、1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、日本が占領から脱した日の川平さんの記憶です。
研修のため沖縄を離れ、東京に滞在していた川平さんは「強いショックを受けた」といいます。


「(東京の)新聞を見たら、『日本はいかに幸いなところであるか。ドイツのように東西に分断されず、朝鮮のように南北に分断されず』と言ってるわけですよ。奄美大島や沖縄のことは、全く触れてない。『ドイツのようにならなかった。』…とんでもない。」

日本だって、奄美、沖縄は切り離されてしまったではないか。日本本土の人は、苦しみ続けている沖縄のことなど忘れてしまったのか…。50年以上たった今でも、川平さんはその日のショックと憤りを鮮明に覚えていました。

川平さんの証言は「昔のこと」なのでしょうか。私たちにはそう思えませんでした。それはまさに今、2018年12月に直結している。
はたして、私はいま何ができるのだろう。川平さんのインタビューを終え、本稿を自分で読み返してみて、自分を問い直しています。


放送ヒストリー 2018年08月31日 (金)

#142 「燃え残り」でも

メディア研究部(メディア史研究) 大森淳郎

今から73年前の夏、日本は戦争に負けアメリカ軍に占領されることになりました。
その直前まで、鬼畜米英、一億特攻を国民に呼びかけ続けてきた旧日本放送協会がまずしたことは、膨大な局内文書の焼却でした。東京・内幸町にあった放送会館は1週間にわたって黒煙に包まれたそうです。

今、NHK放送博物館の倉庫にある戦前・戦中の史料は、その時の焼却から奇跡的に免れたものです。もちろん、その中には、これだけは遺しておこうと考えた人によって守られたものもあっただろうし、秘密裏に所有していた個人から戦後NHKに寄贈されたものもあります。でも基本的には、今、私たちが手にすることができるのは敗戦時の焼却のいわば「燃え残り」なのです。

それでも、そういう「燃え残り」を丹念に読んでゆくと、時々、一つの史料が別の史料とつながって「ああ、そうだったのか」と納得するという経験をします。点と点が線でつながり、その線は別の線と絡み合う。そうして「戦時ラジオ放送」という面が少しずつ浮かび上がってくる。

今回(『放送研究と調査』8月号「シリーズ 戦争とラジオ〈第3回〉踏みにじられた声」)もそんな体験をしました。1932年に逓信省が全受信契約者120万を対象に行ったラジオに対する希望調査。その調査を主導した田村謙治郎という官僚は1934年に日本放送協会の中央集権化を断行しますが、その際に彼が日本放送協会定時総会で行った演説の速記錄、そして日中戦争勃発の翌年に情報局が行った「思想戦講習会」に於ける田村の講義録が残っています。これらがつながって線になるとき見えてくるのは、国民をそうとは悟られないように戦争へと導こうとする田村の放送戦略です。1934年の演説で田村は、放送局の職員は、まず、ジャーナリストの思想を棄てなければならない、とまで言っています。そして、そういう田村の、つまりは政府・軍の放送戦略は日本放送協会の全体で共有されてゆくことになりました。

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日本放送協会第8回定時総会(1934年)議事速記録

古今東西を問わず、その露骨さの程度に違いはあるにしろ、権力はメディアをコントロールしようとします。だからこそ、私たちは歴史から学ばなければならないのだと思います。

権力はやろうと思えばどこまでやるのか、そしてメディアはどこまで墜ちてゆくのか、「燃え残った」史料は、それでも聞こうと思えば聞こえる声で語っています。

放送ヒストリー 2018年05月25日 (金)

#126 NHK編集・発行放送史の視点と変遷

メディア研究部(メディア史研究) 吉田 功
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上記の4冊はすべて、NHKが戦後になって編集・発行した『放送史』です。どれも1000ページを超える「大著」。最も新しい『20世紀放送史』(右下・2001年刊)は、「上巻、下巻、資料編」で、総重量6.3キロにもなります。
お恥ずかしいことに、私がこれらを初めて目にしたのはNHKに入局して10年以上たってから。「テレビ放送開始50年特別番組」の制作支援を命じられ、これらの分厚い本を手にしました。

読み始めてみるとなかなか面白い。例えば、『日本放送史(25年史)』(左上・1951年刊)には、「(ラジオは)全家庭を講演場として知恵の美果を贈り、或いは全家庭を劇場として愉楽の泉に導いた」とあり、当時、ラジオが最先端の「エンターテインメントツール」だったことがわかります。また、『放送五十年史』(左下・1977年刊)は、オイルショック、公害が深刻になっていた時代を色濃く反映しており、放送(ラジオ、テレビ)による「情報」の氾濫は、国民にとって「情報公害」だと厳しい批判を浴びている、とまで書いています。時代によって、放送の受け止め方は大きく変わるんだなあと、そのとき痛感したことを覚えています。

さて、「歴史」と聞くと、「昔の話なんだから変わるはずはないだろう」というお考えもあるでしょう。
確かに過去の出来事が変わることはありません。しかし、誰が、いつ、その過去を見つめるかによって、そのイメージやとらえ方は違ってくると考えられます。たとえば江戸時代を例に考えてみます。100年前(大正7年)においては、古くさい封建主義の時代で “乗り越える”べき過去だと考える日本人は多かったと思われます。100年後(2118年)の日本人にとっては、逆に地域社会の絆が生きていた共生社会の時代ととらえられ、“学べる過去”と映るかもしれません。
歴史のとらえ方は、時代によって大きく変わると考えられます。歴史学ではこれを「まなざし」、「歴史観」、「視点」といったりするそうです。そこで、『放送研究と調査』5月号に掲載した「NHK編集・発行『放送史』の歴史的視点と変遷」では、それぞれの時代の「放送史」をひもといて、それぞれの時代における、放送へのまなざし、とらえ方に近づこうとしています。

インターネットを含めたこれからの新しいメディアを考える上で、これまでラジオとテレビが歩んできた歴史を検証することは欠かせないと私は思っています。最先端のメディアであった放送が成し遂げたこと、またできなかった課題を洗い出すことは、次世代にとって本当に有用なメディアを創る手かがりになると考えるからです。それには、まず、先人がどんな視点をもって放送というメディアを見ていたのかを知ることが、その第一歩になるのではないかと考えました。
東京・芝浦にあった社団法人東京放送局が日本におけるラジオの第一声を発したのが、1925年。それから間もなく100年がたとうとしています。ここであらためて、放送というもの役割、存在を見つめ直すきっかけになればと願っています。