文研ブログ

放送ヒストリー

放送ヒストリー 2020年10月16日 (金)

#277 「6人目のドリフ」って?

メディア研究部(メディア史研究) 広谷鏡子


 私の兄が大学受験に失敗した年、母は何を血迷ったか、家族全員にテレビ禁止令を発しました。そのため、我が家は1972年4月からのほぼ1年間、『8時だョ!全員集合』(TBS系列)を見ることなく過ごしたのです。月曜日、その話題で持ちきりの教室で、人気のギャグを知っている振りをして過ごすしかなかった切なさを、私はよく覚えています。家庭用ビデオもYouTubeもない時代、生放送を見ずしてそのギャグにはお目にかかれない。それほどの影響力をテレビが持っていた頃のお話です。
「放送研究と調査」9月号に掲載した論考「『6人目のドリフ』は僕らだった」、その主役は「テレビ美術」です。生放送中に派手に崩れていくセット、ちょっとキモ可愛い動物のキャラクターや着ぐるみ、独創的な小道具…。それらはすべて「美術」です。舞台上で、ドリフターズの次に光を放っていたので、「6人目のドリフ」なのです。その美術計画の中心にいた人が、TBSの山田満郎デザイナー。すでに亡くなっているので、このインタビューは、今はいない山田さんがあたかもそこにいるかのように、当時のスタッフに語ってもらうという形で行いました。スタッフの記憶を呼び覚ましたのは、図面やスケッチ、写真など、山田さんの残した緻密かつ膨大な資料でした。

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山田デザイナーによるスケッチ(第242回「ドリフの夢のマイホーム」・山田氏遺族提供)

 お話を聞いている間に、幾度か泣きそうになってしまうことがありました。働き方改革などチャンチャラおかしい当時の現場で、スタッフが流した汗や涙(時には血まで!)に、ついついもらい泣きです。しかし一番ツボだったのは、山田さんのご子息の言葉です。家族も影響を受けていたのです。論考本文の後の(注26)に載せました。よかったらこちらもご覧ください。
 毎週土曜の夜8時、たった54分間のために、スタッフも、視聴者も「全員集合」していた時代がありました。そこで流れた汗はテレビの未来のために無駄ではなかった、と信じたい気持ちになります。


放送ヒストリー 2020年09月18日 (金)

#272 電車の中で考えたこと

メディア研究部(メディア史研究) 大森淳郎


 1年ほど前のことです。電車の中で下校途中の高校生の一団が北朝鮮のアナウンサーのものまねをしてふざけていました。中々上手で、思わずニヤッとしてしまいました。でも、高校生たちが笑いながら電車から降りていった後、ちょっと嫌な後味が残りました、彼らの笑いの中に、批判とは別の、なにか人をばかにしたような侮蔑のニュアンスを感じたからです。
しかし、まあ仕方がないのかもしれません。あのアナウンサーの女性(リ・チュニさん)の朗々たるニュースの読み方は、私たちにはどうしても滑稽なものに聞こえてしまいます。
 さて、シリーズ「戦争とラジオ」第6回「国策の「宣伝者」として~アナウンサーたちの戦争~」では、戦時ラジオ放送におけるアナウンス理論の問題に焦点を当てています。北朝鮮には「放送員話術」というアナウンサーの理論書があるそうです。リ・チュニさんのアナウンスも、そこに書かれた理論に基づくものです。北朝鮮の体制を維持するためにはどんなアナウンスが相応しいのか、きっと真剣な議論があるのでしょう。日本でも同じでした。日中戦争から太平洋戦争にかけて、日本放送協会のアナウンサーたちは、どうすれば戦争協力に寄与できるのか、侃々諤々の議論を重ねていました。
 ニュースの内容ではなく、その読み方によって国民を戦争に動員する。それはどんな挑戦だったのでしょうか。詳しくは拙稿をお読み下さい。


放送ヒストリー 2020年08月28日 (金)

#266 残された資料をもとに探る放送法・電波法の制定過程

メディア研究部(メディア史研究) 村上聖一

 放送局(放送事業者)が「政治的公平」などを定めた番組準則(放送法4条)に違反した場合、電波法76条に基づいて放送局の運用停止処分(いわゆる電波停止)ができるのかという問題をめぐっては、今なおさまざまな見解が見られます。
 電波法76条には確かに、「総務大臣は、免許人等がこの法律、放送法若しくはこれらの法律に基づく命令又はこれらに基づく処分に違反したときは、三月以内の期間を定めて無線局の運用の停止を命じ、又は期間を定めて運用許容時間、周波数若しくは空中線電力を制限することができる」と書かれています。
 これだけを読めば、放送法の何らかの規定に違反すれば、電波停止処分ができるようにも見えます。しかし、そもそもこの条文は番組準則違反のようなケースまで想定して制定されたのでしょうか。

 その点を検証するため、『放送研究と調査』2020年7月号「電波三法 成立直前に盛り込まれた規制強化」では、1950年の放送法・電波法の制定時にさかのぼって条文の趣旨を探りました。
 詳しくは論考をお読みいただければと思いますが、結論としては、番組準則と電波停止処分に関する検討は別々になされ、双方を結びつける議論はなされていなかったと考えられます。もっとも、議論がなかったことを証明するのは難しく、せめて国会審議の場で言及されていれば、あるいは制定過程を記録した文書が保存されていれば、といった思いを抱かざるを得ません。

 次の写真は、電波法が成立する2か月前の1950年2月に行われた検討の記録です。ただし、公文書として正式に残されたものではありません。議論に加わっていた当時の電波庁幹部がその後長く保管し、1980年代になってNHK放送文化研究所に寄贈された資料に含まれていたものです。

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検討事項が手書きで書き込まれた電波法案(右は表紙、左は電波法76条部分)
表紙には手書きで「昭和二五、二 宮ノ下審議」とあり、その横に出席者名が書かれている。
(NHK放送文化研究所所蔵 荘宏文書)


 これを読みますと、前年12月に国会に提出された電波法案や放送法案をめぐって、電波庁や衆議院法制局の幹部が箱根の温泉旅館に泊まり込み、修正の検討を行ったことがわかります。このとき、電波法76条の処分の対象として、当初の法案にはなかった「放送法違反」を新たに加える検討がなされたことが記されています。しかし、放送法案の番組準則については何も書き込みはありません。また、なぜ法案を修正するのかという点も書かれていません。

 一方、番組準則はこれとは別に、その後の国会内の協議で、「政治的公平」などに関する修正がなされたものと見られますが、その経過がはっきりわかるのは、当時、日本を占領していたGHQの文書によってです。そうした日本側とのやり取りの記録がGHQ側に残されていたケースは少なくありません。
 次の写真は、衆議院の電気通信委員会が1950年3月、法案修正についてGHQの承認を求めるために送付した文書の一部です。衆議院が作った英文の文書ですが、日本側では見つかっていません。文書はGHQによって保管されていたものがアメリカの国立公文書館に移され、それを日本の国立国会図書館が複写して公開しているものです。

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衆議院電気通信委員会・辻寛一委員長名のGSあて書簡(1950年3月16日)
(国立国会図書館所蔵 GHQ/SCAP文書)

 この文書を含め、GHQが残した資料には電波法76条と番組準則を結びつける記述は見当たりません。放送法には、一般に電波法で規定されている設備関連の規定があるため、その点もカバーするため電波法案の修正がなされた可能性が高いと思われますが、決定的な証拠はありません。
 ただ、もし仮に電波法76条の規定が番組規制につながるものとして日本側の立法担当者の間で議論になっていたとすれば、放送の民主化を求めていたGHQがまったく記録を残さないことは考えにくく、そうした点からは、番組準則違反と電波停止を結びつける議論は、少なくとも公式の場では、なされなかった可能性が高いと考えられます。

 このように放送法や電波法の成り立ちには、今なお、はっきりしない点が残されています。電波法76条をめぐってさまざまな見解があることは冒頭に触れたとおりですが、そうした相違が生じている原因の一つとして、文書が残されていないために、そもそも、なぜ電波法76条の対象に放送法違反が加えられたのかがわからないという点があると思います。
 この条文に限らず、放送法や電波法をめぐっては、「立法過程を記した文書が保存・公開されていれば、条文の趣旨が明確になり、より建設的な議論ができるのではないか」という思いを抱くことは少なくありません。日本の法律の成り立ちを振り返るうえで、GHQの文書に頼らざるをえないというのも残念なことです。
 そして、こうした問題は、必ずしも過去のものではないように思われます。どのように政策が決定され、法律ができあがってきたのかを明確にしておくためにも、公文書をきちんと保存し、公開していくことがきわめて重要ではないかと、放送法や電波法の制定過程を振り返りつつ、改めて思います。

放送ヒストリー 2020年08月07日 (金)

#263 『おかあさんといっしょ』の60年③ ~"子どもの歌"の"おかあさん" 作曲家・福田和禾子~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎


 『おかあさんといっしょ』は、毎月1曲程度、既存曲やオリジナル曲を番組内で紹介しており、これらの一連の曲は1986年から「月の歌」の名称がつけられ親しまれるようになっています。(1961~1966年の間は『うたのえほん』という別番組の企画でしたが、1966年以降『おかあさんといっしょ』に統合されました。詳しくは「NHK放送文化研究所年報2020」掲載、「NHK幼児向けテレビ番組の変遷」参照)
 一時期途絶しているものの、番組班では1961年から「月の歌」(1986年にその名がつくまではこれらの一連の曲には固有の名前がありませんでしたが、この稿では名称がついていなかった時期も含めて「月の歌」とします。)の曲の記録を残しており、400曲以上に上る楽曲リストを見ると、作曲者名から、時代の傾向を伺うことができます。

 1960年代には、中田喜直さん、林光さん、富田勲さん、團伊玖磨さん、服部公一さんなど、クラシック音楽をバックグラウンドに持つ作曲家が並びます。1970年代の記録はありませんので、1980年代に目を移すと、五輪真弓さん、小椋佳さん、村下孝蔵さん、深町純さんなど、フォーク、ニューミュージックやフュージョン系のミュージシャンの名前が見られるようになり、2000年代に入ると、奥居(岸谷)香さん、中西圭三さん、平沢進さんなど、ロック、ポップス系のアーティストの名前が連なるようになります。性別で見ると、男性が圧倒的に多く、昔ほどその傾向が強いようです。

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福田和禾子さん

 その中で最も多くの曲(25曲)を「月の歌」に提供したのが、福田和禾子さんです。福田さんは1941年、流行歌手の松平晃さんの一人娘として生まれました。父の影響で幼少期から音楽を始め、高校から作曲を専攻し、東京芸術大学作曲科へと進学。そして卒業後すぐ、藤山一郎さんのピアノ伴奏などを務めながら、童謡作曲家として活動を始めました。

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「ぼうずのうた」譜面

 福田さんが手がけた「月の歌」の中で最も古い曲として、1969年1月の「ぼうずのうた」が記録に残っています。同番組で発表した代表的な曲として、「そうだったらいいのにな」「北風小僧の寒太郎」(のちに『みんなのうた』でも放送)「銀ちゃんのラブレター」などがあります。他にも『みんなのうた』で、「赤鬼と青鬼のタンゴ」や「ありがとう・さようなら」などを、NHKの教育番組『おーい!はに丸』や『たんけんぼくのまち』などの主題歌も数多く担当しています。また作曲だけでなく、1972年には『おかあさんといっしょ』にスタジオピアニストとして出演しているほか、出演者の歌唱指導も担当するなど、『おかあさんといっしょ』やNHK教育番組に多大な貢献をしました。


 2008年10月、福田さんは『おかあさんといっしょ』ファミリーコンサートの録音作業の休憩中に倒れ、66歳で急逝されました。生涯一貫して子どもの歌を作り続け、1000曲を超える作品を残した福田さん。まだ女性の作曲家が少なかった時代に、自らその道を切り拓いたパイオニアでした。
 福田さんには息子さんが一人います。長男・匠さんは現在眼科医をされていて、2017年に医師会の機関紙に「私の母・福田和禾子」という文章を書いています。そこには、小さいころ録音スタジオに付いて行き、仕事をする母親の姿を見て「子供ながらに、かっこいい人」と思ったこと、また福田さんが仕事に関して大変厳しい考え方を持っていて、「『仕事は、人生を掛けて、死ぬ気で取り組まないとならないし、死ぬまで勤め上げないとならない。』と何度も叱咤激励された」ことが書かれています。
 福田さんが作曲した曲の中に「あのねママ」という歌があります。文章では音をお聞かせできないので、歌詞(作詞:田中大輔・井出隆夫)の一部を以下に引用します。

ママのたいせつな たからもの
それはね あなたのことば

あのねママ ボクどうして
うまれてきたのか しってる?
ボクね ママにあいたくて
うまれてきたんだよ

ほしぞらの どこかで
あたらしいいのちが
きらりん きらりん
うまれる そのときを
そっと まってたの
それが あなた

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「あのねママ」(1998年12月)

「あのねママ」は、あらゆる子どもが母親から生まれるという必然の不思議さと、その出会いの幸せを、母子が互いに話しかけるという形で描いた作品です。1児の母親である福田さんもさまざまな思いを込めて、この曲のメロディを紡いだにちがいありません。


NHK放送博物館では、7月4日~9月27日にかけ企画展『~パパもママもみていた!~おかあさんといっしょ』を開催しています。


放送ヒストリー 2020年07月31日 (金)

#262 『おかあさんといっしょ』の60年② ~日本の人形アニメーション夜明け前~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎



 
『おかあさんといっしょ』を始めとするNHKの幼児向け番組は、初期のころから優れた外部のクリエーターを登用することで発展してきました。(詳しくは「NHK放送文化研究所年報2020」掲載、「NHK幼児向けテレビ番組の変遷」参照)今回は、着ぐるみ人形劇「ブーフーウー」を生み出した作家の飯沢匡さんと人形美術家の川本喜八郎さんの関係に焦点を当て、お二人が手がけた人形アニメーションをご紹介します。

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『おかあさんといっしょ』オープニング・タイトル
「魔法の箱」(1961)

 これは、1961年から『おかあさんといっしょ』で放送されたオープニング・タイトル「魔法の箱」の映像です。小さな箱からクマやウサギなどのぬいぐるみが次々に現れる様子を、1分の人形アニメーションでユーモラスに描いています。
 制作したのは、連続人形劇『三国志』『平家物語』などの人形美術家として知られる川本喜八郎さんです。川本さんは世界的な人形アニメーション作家としても知られていますが、この作品は、川本さんが作家としてオリジナル作品を発表する以前のものです。
 川本さんが人形アニメーションを志すきっかけを作ったのが飯沢匡さんでした。戦後まもなく、飯沢さんは東宝で美術の仕事をしていた川本さんの才能に目を付け、自身の舞台の人形製作を依頼するようになります。1951年には、デザイナーの土方重巳さん、写真家の隅田雄二郎さんたちとともに「人形芸術プロダクション」を結成。翌年、人形絵本を手がけ、文部大臣激励賞を受賞するなどの評価を得ます。
 しかし川本さんは、人形作りが自分の一生の仕事なのか悩んでいたといいます。当時の価値観は今と大きく異なっており、人形は女性や子どものためのもので、多くの人たちには成人男性が生計を立てる仕事とは思われていなかったようです。
 そんな時、飯沢さんから、チェコスロバキアの人形アニメーションの試写に誘われ、そこでイジィ・トルンカの長編映画『皇帝の鶯』と出会います。衝撃を受けた川本さんは、人形アニメーションを志すようになります。

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川本喜八郎、(左)、持永只仁(右)、隅田雄二郎(中央手前)
(画像提供 © 有限会社 川本プロダクション)

 とは言え、どのようにして人形を動かし撮影したらいいのか?飯沢さんは、1953年、中国の映画撮影所で人形アニメーションを自力で開発し、帰国したばかりの持永只仁さんをスタジオに招くことにしました。川本さんは人形アニメーションの技法を持永さんから実地で学んでいきますが、当時人形アニメーションの製作を依頼されることが多かったのは、始まったばかりのテレビCMの仕事でした。
 そこで、1958年、飯沢さんと川本さんは、テレビCM制作会社シバ・プロダクションを設立し、ミツワ石鹸、ソニー、武田製薬など、数々のテレビCMを手がけて多忙を極めました。しかし、このままではいつまでも自分の作品を作れないと、川本さんはチェコのトルンカの元で人形アニメーションを学ぶことを思い立ちます。
 シバ・プロダクションを退社した川本さんは、1963年、トルンカを訪ねて、チェコスロバキアに自費で留学を果たします。1年後帰国した川本さんは、引き続きNHKなどの人形美術の仕事をしながら、人間の業を鋭く描いた『鬼』『道成寺』『火宅』など、きわめて独自性の高い人形アニメーションをコンスタントに発表します。
 2003年にはロシアのユーリ・ノルシュテインをはじめとするさまざまなアニメーション作家が参加した『連歌アニメーション「冬の日」』を発表し、文化庁メディア芸術祭アニメーション部門で大賞を受賞。さらに2006年には折口信夫・原作の『死者の書』を発表、キネマ旬報ベストテン文化映画部門で第3位になったほか、数々の国際アニメーションコンクールで受賞しました。他の追随を許さない独自の人形アニメーション世界を作り上げ、世界から評価される中、川本さんは2010年に亡くなりました。
 冒頭の「魔法の箱」は留学の2年前に制作された作品です。小さな箱からは、最後に思いがけず大きなゾウが飛び出します。力強い足踏みで画面を揺らすゾウの姿は、あたかも、長年の師である飯沢さんの元を離れても、自分の人形アニメーションを作りたいんだという、川本さんの秘められた情熱の発露のように見えます。
 初期の『おかあさんといっしょ』で親しまれた「魔法の箱」には、日本の人形アニメーション黎明期の歴史が刻まれていたのです。

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飯沢匡(左)、川本喜八郎(右)、イジィ・トルンカ像(中央)
(画像提供 © 有限会社 川本プロダクション)



NHK放送博物館では、7月4日~9月27日にかけ企画展『~パパもママもみていた!~おかあさんといっしょ』を開催しています。

参考資料
おかだえみこ「人形アニメーションの魅力」河出書房新社(2003)
川本喜八郎「チェコ手紙&チェコ日記」作品社(2015)
別冊太陽「川本喜八郎 人形 この命あるもの」(2007)


 

放送ヒストリー 2020年07月24日 (金)

#261 『おかあさんといっしょ』の60年① ~"婦人課"の女性職員たち~

メディア研究部(番組研究) 高橋浩一郎


 昨年、『おかあさんといっしょ』が放送開始60年を迎えました。NHK放送博物館ではこれを期に、7月4日~9月27日にかけ企画展『~パパもママもみていた!~おかあさんといっしょ』を開催しています。また「NHK放送文化研究所年報2020」では、幼児と保護者から根強い支持を得続けている同番組の歴史をまとめた論考「NHK幼児向けテレビ番組の変遷」を掲載しています。
 文研ブログでは、『おかあさんといっしょ』に関わるテーマについて、3回にわたって紹介したいと思います。1回目は、『おかあさんといっしょ』を開発した女性職員たちについてです。

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ラジオ番組『若い女性』

 これは、ラジオ番組『若い女性』のスタジオの様子を撮影した写真です。『NHK年鑑1950』によると、『若い女性』は、1950年から週1回日曜日に放送された、「いわゆるティーンエイジャーと呼ばれる年齢層」に向けた教養番組で、「情操を養うもの、思考力を養うもの、実際生活に役立つもの」など、世の中のさまざまな話題をマガジン形式で紹介していくという内容でした。

 番組開始時の出演者は、編集長役が「小川やよい(写真左)」、助手役が「真木陽子(写真右)」。どちらも番組用の架空の名前で、「小川」は放送劇団の尾崎勝子さんが、「真木」は当時高校2年生だった小森美巳さんが演じていました。小森さんは後にNHKに入局し『おかあさんといっしょ』の立ち上げに関わられた方で、今回お話を伺いました。
 『若い女性』は、ディレクターが作成した台本を元に進行しますが、視聴者と同世代のリアルな声を番組に反映させるために、わざわざ一般の高校生から出演者を募ったようです。小森さんが出演することになった経緯は、所属していた高校の演劇部にオーディションの話があり、誰も受ける者がいないので、しょうがなく足を運ぶことになったのだといいます。

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小森
美巳さん

小森 きれいなお姉さんばっかり、新劇の研究生だったんじゃないですか、
ずらっといらして。私はほこりくさいセーラー服に運動靴で、こんな髪の毛ぎゅーって縛って、そんな人一人もいなかったですよ。何か読んだと思うんだけど、全然覚えていなくて、それで帰ってきちゃったんですね。そしたら、学校から「あなたになったそうよ」と小谷さんのところに行くように言われて、聞いてみたら「一番元気がよかったからね」とおっしゃったんで、もうびっくりしたんですけど。

 “小谷さん”というのは、『若い女性』を担当していた“婦人課”のプロデューサー小谷節子さんのことです。小森さんはその後、1955年に入局、ディレクターとして“婦人課”で小谷プロデューサーと再会します。そして1959年『おかあさんといっしょ』を共に立ち上げることになったのです。(番組立ち上げ当時の部署名は“婦人少年部”。)

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小谷節子さん(故人)

 最初の写真ですが、スタジオの壁に書かれた「CI&E(連合軍民間情報教育局、以下CIE)」の文字から、まだ占領下の放送であったことが伺えます。連合軍総司令部(GHQ)が発した日本民主化の五大指令のうち、最初に掲げられた項目が「婦人の解放」です。初期のCIEの中には、進歩的な考えを持つ人材が多数いて、“理想的な民主主義国家”を日本に作ろうとしたと言われていますが、その実現に「婦人の解放」は欠かすことができない要件だったのです。
 女性を差別する風潮が色濃く残る日本で、放送を通じて、民主化を担う女性を教育するという役割を負ったのが“婦人課”でした。婦人課が誕生したのは1948年。初代課長・江上フジはNHK初の女性管理職で、協会内の女性の地位向上に尽力。翌年には、課の9割を女性が占めるようになり、女性自身の手によって『婦人の時間』『主婦日記』『勤労婦人の時間』など数多くの女性向け番組が作られました。
 『おかあさんといっしょ』も「婦人の解放」実現に取り組んだ、“婦人課”の女性職員たちの手によって生まれた番組の一つなのです。


参考資料
飯森彬彦「『婦人の時間』の復活」『放送研究と調査』(1990.11)
飯森彬彦「『婦人課』の誕生」『放送研究と調査』(1990.12)
武井照子『あの日を刻むラジオ』(2019)集英社
広谷鏡子「「放送ウーマン」が見てきた戦中・戦後」(2015.7)

放送ヒストリー 2020年06月09日 (火)

#253 資料で振り返る番組制作者 吉田直哉

メディア研究部(メディア史研究)村上聖一

 

 今となっては「懐かしの番組」になってしまうかもしれませんが、1970年代から80年代にかけて放送された『未来への遺産』(1974~75年)や、『NHK特集』の「ポロロッカ アマゾンの大逆流」(1978年)、「21世紀は警告する」(1984~85年)といった番組をご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。
 これらを含め、20世紀後半のNHKを代表する数々の番組を生み出した吉田直哉(1931~2008)の遺した番組関連資料が、調査・研究での活用に向けて、このほど文研に移されました。

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吉田直哉(2006年、武蔵野美術大学での特別講義から)
提供:武蔵野美術大学 撮影:三本松淳

  数千点に上る資料は、東京都内の吉田の自宅やNHK退職後に教授を務めていた武蔵野美術大学に残されていました。内容は、番組の台本や企画書、セット図面、楽譜、写真など多種多様で、当時の番組制作の実態を浮き彫りにするものです。武蔵野美術大学が2017年に資料を用いた展覧会を開催したのち、今後の活用と保管の方法について遺族と大学、NHKの3者で協議し、番組に関連した資料は文研に移すことになったものです。

 吉田直哉がNHKに入ったのは、ラジオ放送最盛期の1953年(この年、日本でテレビ放送が始まりました)のことで、最初に担当したのもラジオ番組でした。
 写真は、今回の資料の中で最も古いものの一つ、放送開始30年記念番組『音の四季』(1955年)の制作資料です。このラジオ番組は、季節ごとに鳥や虫の声、祭り、物売りなどの音と伴奏音楽を組み合わせて1つの楽章とし、全4楽章で日本の春夏秋冬を描いたものです。こうした音の組み合わせは、このあとの資料でも多く確認でき、吉田が好んで用いた手法のようです。

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『音の四季』(1955年3月20日19:30~20:00・ラジオ第2)関連資料

 番組では日本を代表する現代音楽家、武満徹(1930~1996)らのグループが作曲を担当しました。このとき武満は24歳、吉田は23歳。共に無名の時代から協力しつつ番組制作に当たっていたこともわかります。

 テレビ時代の資料としては、1962年に放送された『日本の文様』の資料を見てみましょう。『日本の文様』は、実験的なコマ撮りアニメーションを取り入れながら、日本で古くから使われている和柄の文様を紹介した番組で、映像と音楽で構成されています。写真は、撮影のようすと、そこで使用された文様です。文様は、黒字の紙に白の「きりぬき紋」を組み合わせて作られています。

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『日本の文様』(1962年6月9日22:00~22:30・教育テレビ)の制作風景と撮影で使われた文様

   この番組でも武満徹が音楽を担当しました。映像の編集が完成すると、武満は、それを秒単位で巻紙に表示してほしいと求めたことから、吉田は、地震計用グラフ用紙に0.5秒単位で映像の変化を書き込んで渡したということです。それをもとに武満が音の流れを書き込んだ用紙も残されていました。

  ここでは、やや古めのものを紹介しましたが、資料には、大河ドラマ 『太閤記』(1965年)や『NHK特集』の「21世紀は警告する」(1984~1985年)、「ミツコ 二つの世紀末」(1987年)といった番組の台本やメモなども多数残されていました。詳しくは、『放送研究と調査』2020年5月号をご覧ください。

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 文研の資料庫(NHK放送博物館内に所在)に保管されている資料

 

 文研に移された資料は、劣化が進まないよう対策を施すとともに、詳細な目録の作成を進めています。資料を眠らせることなく、放送に関する調査・研究、さらには今後の番組制作に向けた活用がなされるよう取り組みを続けていくことが、我々の責務と考えています。

 

放送ヒストリー 2020年05月13日 (水)

#248 テレビドキュメンタリーの技法研究など無意味だとささやく悪魔A,B,Cへの反駁

メディア研究部(メディア史研究) 宮田章

 

『放送研究と調査』4月号5月号では、NHKのテレビドキュメンタリー(TD)の基礎を築いた『日本の素顔』(1957~64の制作技法について論じた。「三つ子の魂百までも」と言うが、『日本の素顔』という初期TDの展開の中で、TD制作の基本的な技法が、すでにかなりの程度出揃っていることがわかる。興味のある方は一読されたい。

 研究と執筆は基本的に孤独な作業なので、心が弱っている時には、TDの技法研究など無意味だと悪魔がささやきかけてくることがある。彼らのささやきと、それに対して筆者が行った反駁をここに記しておきたい。

 

 悪魔Aのささやき:「テレビはメディアだろう。メディアとは「仲立ち」で、自分の関与なしで発生した情報を視聴者に伝えるパイプのようなものだ。テレビ自身が情報を作ってはならん、まして「制作技法」なんぞあってはならん」。 悪魔Aへの反駁:「テレビは確かにメディアの一つだ。しかし歴史的な事実としてテレビ局の中には制作部門がずっと存在しており、そこでは番組制作という情報の生産行為がずっと行われてきた。そこには作り手がいて、様々な制作技法がある。おれはそれを研究しているだけだ。「制作技法などあってはならん」というのはおまえの意見で、「ある」というのは事実だ」。

 悪魔Bのささやき:「テレビは視聴者あってのものだろう。視聴者が求める番組を作ればいいんだ。テレビに主体的な作り手など不要だ」。 悪魔Bへの反駁:「自分に迎合してくるだけの相手を尊敬できるか?テレビ番組の作り手が視聴者には真似のできないアイデアや技法をまだ少しは持っているからこそ、テレビはまだ少しは見られているのではないか?制作技法研究は、テレビ局がまだ少しは持っている「強み」の研究だ」。

 悪魔Cのささやき:「おまえのような制作現場を離れた人間に、ドキュメンタリーの作り方についてあれこれ言われたくない。大学教授や研究者が書いたものが実際の番組制作に役立ったことは一度もない」。 悪魔Cへの反駁:「現場を離れた人間に言われたくないという気持ちは元作り手として理解できる。大学教授や研究者が書いたものが実際のドキュメンタリー制作に役立ったことはないと言いたい気持ちもわかる。しかしそれは日本において特にそうなのであって、海外では、制作現場と研究者をつなぐ客観的な制作技法論が90年代以降盛んだ。日本にもあっていいだろう。「やはり無益だ」と言うのは勝手だが、読んでから言ってくれ」

 

特に眠れぬ夜など、彼らは繰り返しささやきかけてくる。このように言語化することで悪魔祓いとするのである。


放送ヒストリー 2019年12月10日 (火)

#223 カーラジオから聞こえてきたのは・・・

メディア研究部(メディア史)大森淳郎

初任地、富山での思い出です。
ある冬の嵐の日、富山湾岸を雨漏りのする中古のスズキジムニーで飛ばしていました。
何の取材だったか思い出せないのですが、うまく取材が進んでいなかったことだけは確かです。暗い空とうねる波。冬の日本海は、眺めているだけで気持ちが塞ぎますが、仕事もうまくいっていないとなればなおさらです。そんなときでした、付けっぱなしにしていたカーラジオから突然、不思議な女性の声が聞こえてきたのは。

あなたたちは騙されているのです・・・・。

北朝鮮の謀略放送でした。もっと色々なこと(アメリカ帝国主義がどうだとか、日本はその傀儡であるとか)を聴いたはずですが、今でも鮮明に覚えているのは「あなたたちは騙されているのです」という印象的なフレーズだけです。普通なら、笑い飛ばすか、面白い経験を誰に話そうかとニンマリするところですが、そのときはこう思いました。「騙されている?なるほど、そうかもしれないな」。きっと心身ともに疲弊しきっていたのです。
でも、今でもこうは思います。私たちは、北朝鮮の人々(全部ではありません)が騙されていると考えるけど、あちらから見ればその逆なんだろうな。私は北朝鮮の社会がよいものとは思いませんが、価値の体系はいつも相対的なものです。

さて、なぜ、こんな遠い昔の出来事を思い出したかといえば、『放送研究と調査』11.12月号に掲載したシリーズ戦争とラジオ第5回「“慰安”と“指導” ~放送人・奥屋熊郎の闘い~」を書くにあたって、同じようなことを考えたからです。
奥屋熊郎は日本の放送の基礎を築いた1人です。ラジオ体操、野球中継、国民歌謡・・・。奥屋が開拓した放送分野は枚挙に暇がありません。希有な構想力と実行力を兼ね備えた大プロデューサーでした。そしてリルケやベートーベンを愛する芸術肌の人物でした。奥屋は、太平洋戦争の真っ只中の1943年、大阪中央放送局(BK)放送部長の地位を棄てて日本放送協会を去っています。ファナティックな軍国主義に染め上げられたラジオ放送に堪えられなくなったからでした。でも、そんな奥屋ですが、日中戦争から太平洋戦争初期にかけては、BKで戦争の旗振り役を積極的に担っていました。おそらく、日本の社会全体が右に向かって地滑りを起こした1930年代、奥屋自身も、ごく普通の国を愛する1人として社会の地盤もろともに右に転がり落ちたのだと思います、そのことは、奥屋自身には見えない。彼もまた日本という1つの価値体系の住人だからです。でも、だからといって奥屋が免責されるわけではない。彼は社会に大きな影響力をもつメディアの人間でした。大衆に働きかけて、社会の地盤をまるごと右に地滑りさせた1人でもあるのです。

メディアで働く人間も社会の地盤に立っている。でも、ときにはその地盤そのものをメディアが動かす場合もある・・・。そんなことを考えているとき、ふと遠い昔の思い出が蘇ったしだいです。
冬の日本海、なんだか悪く書いてしまいましたが、天気が良ければ海越しに立山連峰を望む絶景です。そして、魚がうまい!


放送ヒストリー 2019年11月15日 (金)

#219 教育テレビ60年を番組のグループごとに振り返る

メディア研究部(番組研究)宇治橋祐之

1959年1月、日本初の教育専門テレビ局として開局したNHK教育テレビは、2019年で開局60年を迎えました。現在は唯一の教育専門局として「教育番組75%以上、教養番組15%以上」という編成比率で放送を続けています。こうした編成の変遷の全体像については『放送研究と調査』2019年1月号「教育テレビ60年 生涯学習波への広がりとインターネット展開」をご覧ください。

教育番組の比率が高いのが教育テレビの大きな特徴ですが、番組の内容をグループに分けてみると、高校講座などの講座番組や語学番組、幼児向けや青少年向けの番組だけでなく、趣味・実用番組、芸術・芸能番組、科学・健康番組、産業・経済番組など、さまざまなジャンルの番組を放送してきました。

また、かつては番組を家庭で見るだけでなく、学校の授業のように集団で視聴する「テレビ市民セミナー」や「市民大学講座」が各地で開かれていたのも、教育テレビならではの特色でした。

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テレビ利用の市民大学講座(1970年代)

放送文化研究所では、教育テレビ40年の際に番組を16のグループに分類して、その変遷をまとめました。それを引き継ぐ形で60年の変遷を『放送研究と調査』10月号から、3回シリーズで連載しています。

それぞれの番組グループごとに60年の番組の変遷を表にまとめてみると、前半の30年と後半の30年では大きな違いが見られました。例えば最初の30年は番組のタイトルが変わらず10年以上続くことも多かったのですが、後半の30年は3~5年ごとに変わることが増えてきました。

タイトルそのものも開局初期の『技能講座』が趣味どきっ!、『日曜大学』が『知る楽』、『婦人学級』が『すくすく子育て』、『社会福祉の時間』がハートネットTVというように、「講座」「大学」「学級」「時間」という、学校の授業や指導をイメージさせるタイトルから、カタカナや擬音を入れた、視聴者の感情に寄り添うものに変化してきています。

近年は「Eテレ」の愛称が定着し知的エンターテインメントを目指す番組が増えてきましたが、教育テレビの60年の変化を知っておくことは、この先の教育メディアで変えるべきものと守るべきもの、「不易流行」を考える上で大切だと思います。