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調査あれこれ 2023年06月16日 (金)

「放送法4条の政治的公平について考える」 ~「メディアと法」研究会 講演から#492

放送文化研究所 渡辺健策

 本稿では、昨今あらためて議論になっている放送法4条の政治的公平をテーマに、筆者が司会進行役をつとめたマスコミ倫理懇談会全国協議会「メディアと法」研究会(5月18日、日本プレスセンタービルで開催)の講演概要をお伝えします。講師は、BPO放送倫理検証委員会の委員長を長くつとめられた川端和治弁護士です。「放送法4条の政治的公平について考える」と題して、約2時間にわたって講演いただきました。
(講演内容から一部抜粋。章ごとのサブタイトルは、筆者が補足したものです)

川端和治弁護士

1970年 司法研修所修了とともに弁護士登録 2000年~2001年 日本弁護士連合会副会長
2005年~2007年 法制審議会委員   2007年~2018年 BPO放送倫理検証委員会委員長 
2011年~2014年 法務省政策評価懇談会座長 現職:BPO放送倫理検証委員会調査顧問

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<戦前の教訓と後悔が「放送法」の出発点>

 川端でございます。本日はお招きいただきましてありがとうございます。
私はBPO放送倫理検証委員会の委員長を11年やりましたけど、その間に考え、その後、『放送の自由――その公共性を問う』という本を書いたときに考えたことをお話ししていきたいと思います。
 放送法について考える時、私がいつも強調しているのは、この法律は非常に普通の法律とは違う成立の歴史背景を持っている、その歴史的背景をよく理解しないと、条文の目指したもの、真の意味を理解できないだろうということです。まず、この放送法の背後にある歴史について簡単にご説明します。
 重要なのは、戦前において日本の電波というのは軍(国)が使用するもので、放送はその余った部分について使用を許されていたに過ぎなかったということです。放送局は、政府によって予算、人事、実際の運営、実権を握られていました。政治上の講演議論、治安・風教上悪影響を及ぼす恐れのある事項、そういったものを禁止する。それを監視するため、リアルタイムで放送中に監視している人がいて、「これは駄目だ」ということになると、ただちに放送を遮断するという体制でしか放送は認められていなかった。それが戦前の放送です。しかも太平洋戦争が始まった時に放送の全機能をあげて大東亜戦争の完遂にまい進するということになりまして、放送はすべてのプログラムを国民の戦意を高揚するということに使われた。さらに悪いことに、戦争についての戦果は大本営発表しか認めないということになっていたんですけど、ミッドウエーで思いがけない大敗戦を喫し、大本営が負けを勝ちとねつ造するようになってしまった。だから相当あとになるまで、つまり本土の空襲が激しくなるまで多くの人は日本が勝っているんだと思っているという状況が生まれたんですね。戦っているうちに必勝の信念とか神風が吹くとか、そういう感情が国民の間にも起こってくる、マスコミはひたすらにそれをあおる、そういうことを続けていた。
 その結果、本来ならとっくにあきらめて降伏するべき状況だったにも関わらず、ぎりぎりまで戦争を続けて、原爆を2発落とされてようやく降伏を認めるというところまでいってしまったわけです。当時の放送を担当した人たち、放送行政、電波行政を担当した人たちにとっては、敗戦についての自分の責任とそれを悔いる気持ちを残しました。
 戦後、放送法を制定する国会で審議をした時に、担当した官僚が質疑応答の原稿を作っているんですけど、その中に「放送番組に政府が干渉すると、放送が政府の御用機関になって国民の思想の自由な発展を阻害して、戦争中のような恐るべき結果を生じる」と書いているんですね。そういうつもりで放送法をつくるということがはっきりと意識されていたということを記憶しておかなければならないと思います。

 一方でGHQ(連合国軍総司令部)は当然、日本を民主化する、軍国主義を徹底的に除去するという覚悟を持って日本に乗り込んできた。ファイスナーという人が放送関係の事項を担当したんですけどこの人は着任したときに逓信省の事務次官を呼びつけて、「私は軍国主義、封建主義、官僚主義の3つをつぶすためにきた」と宣言したということも、当時を回想した記録に残っています。
 新しい憲法ができるので、放送法制も完全にそれに合ったものにしなければならない。GHQと逓信省の官僚がやりとりしている中で「これが絶対に必要だ」ということでGHQが示した事項がありました。1つは放送の自由を確立するということ、不偏不党の放送にすること。放送の役割としては、公衆に対するサービスであるということ。技術的な水準は満足すること。もうひとつ重要なのは、その管理は政府から独立した機関によるべきだという大原則を示したんですね。その結果、放送法が作られていくんですけど、これが単純には作れなかった、何度か行ったり来たりをするということになります。

<「番組編集準則」と「停波処分」の制定経緯>
 1950年1月には、放送法を含む電波3法を制定する国会の審議が開始されました。ただ、これもそのまま素直にすんなりと成立したわけじゃなくて、4党の共同修正案が提出されてようやく1950年6月に成立するんですけど、この時の共同修正というのが非常に重要な修正で、今日にいたるまで問題となる、尾を引くような修正であったということになります。

shiryou1_2_W_edited.jpg(川端和治弁護士 講演資料より)

 もともとの放送法案では、NHKは公共放送として立案され、公共放送だからということで放送内容を規制する規定として2つ重要なものがあったんですね。1つめは「公衆に関係のある事項について事実を曲げないで報道すること」。2つめは「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」。修正案は、この2つにN H Kについての別の条項にあった「政治的に公平であること」を加え、さらに「公安を害しないこと」を加えた4項目を「番組編集の準則」とし、これを民間放送にも準用するということで、全ての放送局に適用するようにしたんです。

 もう一つ、これはほとんど当時の国会審議でも言及がなかった不思議な修正なんですけど、電波法76条(停波処分)は電波法にある技術的な条項、放送のハード面についての規定だったんですけど、そこに放送法を加え、放送法違反も電波法による停波処分の対象になると、論理的には読める規定に修正しているわけです。この4党共同提案の修正がどういう意味を持つかというと、それまでは実は民間放送についての規定はほとんど何もないに等しかったんですね、確か2か条しかなかったと思いますけど、民間の意見として「NHKの規定ばかりで民間を全く無視しているじゃないか、おかしい」という議論もあったんです。
 この修正によって番組編集準則が民間放送にも適用になるということになり、公共性をもつ放送として民間放送も位置づけられる、だから日本の放送法制は、NHKのようなピュアな公共放送に加えて本来は商業放送として考えられていた民間放送も公共性を持つ、2つの体制が二元的に並び立つという体制になったという意味では非常に大きな修正だったわけです。
 NHKはもともと公共放送として構想されていますから、とにかく受信設備を持っている人からは誰からでも受信料を取れるということのまさに裏側として、全ての受信契約者に対してサービスしなきゃいけない。政治的に一部の勢力側に付いて放送をしたのではそういうのは公共性がないということになりますから、どうしても政治的に公平であることを課す必要があった。
 しかも公共放送は民主主義の成立には必要だから、公共放送と名乗れるだけの最小限の制約を加えることは合理性がある、従って憲法上の問題はないというふうに一応考えられる。ですけど、民間放送の場合は、なぜ表現内容についての規制を受けなければならないのかという、憲法21条との間の整合性の問題を、実はこの時に生じさせているんです。ただ、国会審議を見ても、そういうことはほとんど意識されていなかった。
 電波法76条の規定に放送法違反を追加した点ですけど、なんで電波法に放送法違反を加えるという改正がなされたのかというのが、私が当時持っていた資料を読んでもさっぱり分からなかった。国会審議録、全部の審議経過を読んでも何の議論もされていなかったんですね。

pdf_3_W_edited.jpg (NHK放送文化研究所『放送研究と調査』2020年7月号 村上聖一「電波三法 成立直前に盛り込まれた規制強化」より)

 NHKの村上聖一さんが『放送研究と調査』2020年7月号に「電波三法 成立直前に盛り込まれた規制強化」という論文をお書きになっていて、それを読むと放送文化研究所の書庫に「荘宏文書」というのが残っている。荘宏というのは当時、電波庁の文書課長をしていた人で、つまり電波3法の修正の実務担当をしていた人です。その荘宏文書を見ると1月に国会審議が開始されたんですけど、その翌月に衆議院電気通信委員会と衆議院法制局と電波庁の担当者が箱根で合宿をしていて、電波法の原案がその合宿の資料として配られているんですけど、そこに手書きで「放送法」と、途中(76条)に加える修正がなされているというのが、その資料を見るとわかるんですね。これが2月なんです。翌3月の段階で参議院の電気通信委員会で「電波法の76条に放送も加えなくていいのか」という質問がなされたんですね。それに対して網島電波監理長官、この人は箱根の合宿の参加者名簿に載っている人ですけど、「放送法にもごく僅少ではございまするが、いろいろ施設者に義務づけられた事項もございまするので、ただいまのお説は私どもといたしましてもごもっともなお説ではないかと考える次第であります」と答弁している。要するに、もともと電波法はハードについての法律で、いろんな施設について書いていて放送局としてはこういうものをふまえなければいけない、それに違反したらそんな不十分な施設で放送してはいけないから停波処分という法律なんで、もっぱらそういう技術的事項の違反しか考えていなかった条文なんです。
 実はこの1月から3月で、放送法にも技術的規定があるから(電波法76条に)こういう修正をするということが国会で言われた後になってから、今の放送法4条の改正の議論が始まっているんです。そういう意味では電波法の改正というのは、そういう4条を民間放送にも適用する、政治的公平を民間放送にも課す、という議論の前にそれとは無関係に決まっていた、ということなる。そうすると、あれは放送法総則とは全然関係のない技術的事項についてだけ適用するということを考えた修正だったという説も根拠があるんだと初めて納得したんです。

<自主自律を尊重する「政府見解」>
 番組編集準則は倫理規範であることをはっきり示しているのが、1959年の放送法改正案が国会に提出された時、田中角栄郵政大臣(当時)が参議院本会議で行った法案の趣旨説明です。この時の改正案では、番組編集準則に「善良な風俗を害しない」という項目を付け加えたんですけど、その番組編集準則を守ってほしい、しかしそれを直接政府が強制したんでは表現の自由を侵害することになるからそれはできない。考えた結果、この番組編集準則を見て各放送局に自主的自律的に番組基準を作ってもらうことにした。各局はその番組基準に従って番組を作る。しかも各局に有識者からなる番組審議会をつくって、そこに必ず各局の番組基準は諮問しなきゃいけない。さらに番組基準自体全て公表するということにさせた。そうなると、見ている人は各局の番組基準を知っていますから、「これは番組基準に反するんじゃないか」と批判するだろう、審議会でも「こんな番組はわれわれが認めた番組基準に反するんじゃないか」というだろう。そういう形で批判させることによって番組基準が実行され、しかも番組基準は番組編集準則を1つの理想と放送の理念とみて作られるので結局それが実現されることになる。当時の答弁を見ても、放送事業者の自主性に任せて、番組の統制はしないと答弁しています。

 もう一つ重要なのは、国会の審議で、「極端に変な放送がされた時にどうするんだ」という質問があったんですけど、「例えば、わいせつ放送であれば電波法108条によって刑罰が課せられます、だからそういう心配はありません」という答弁をしているんです。一方、電波法76条は、当時すでにあったにもかかわらず、それについては全く述べていないんですね。だからそういう極端におかしい放送でも電波法76条の処分の対象になるというのは全然考えられていなかった、というのはこれからも明らかです。

 また、政府見解としては、1962年の臨時放送関係法制調査会という公の機関で当時の担当部局である郵政省が意見書を出しているんですけど、番組編集準則というのは1つの目標で、法的効果としては精神的規定の域を出ない、要は事業者の自律に待つほかないと答えています。さらに1977年には電波法76条の適用についての質問に対して、「検閲はできないことになっているから番組の内容に立ち入ることはできず、番組が放送法違反だという理由で行政処分をすることは事実上不可能です」とか、「放送事業者が自主的に放送法違反について判断する、あるいは番組審議会、世論というものの存在がその是非を判断する」という答弁をしているんです。
 電波法76条の停波処分の適用は論理的には可能だという意識は放送行政の担当者にはずっとあったと思うんですが、しかしそれはできない、という形でずっと守られ続けていた。それが椿発言問題でくるっとひっくり返っちゃった。そうすると番組編集準則が憲法21条違反じゃないかということが正面から問題にされるようになりまして、いろんな憲法学者がいろんな意見を述べるということになった。通説として、これは倫理規範なんだ、だからこの規定を政府が強制することはそもそもできないんだから憲法21条の問題にはならないというのが、学説として最も広く受け入れられた見解です。

shiryou2_4_W_edited.jpg(川端和治弁護士 講演資料より)

 最高裁判所も、これは女性戦犯法廷事件の判決の中にありますけれども、放送事業者がみずから定めた番組基準に従って番組の編集が行われるという番組編集の自律性について規定したものという書き方をしています。裁判所も放送法というのは自主自律の体制だというのを述べているんですね。
 しかもこれは前から言われていることですけど、総務省には強制力を持って調査する権限が法律上ない、という答弁も2022年の放送法改正時の国会審議でしています。ただ番組編集準則が法規範であって、その違反に対して電波法76条の処分ができるというこの1点は譲らなかった。たぶん「伝家の宝刀」というか、究極の脅しの手段として――それは、政府は放さないよ、という宣言だと思います。
 自主自律で編集ができるのだとすれば、これは明らかに、例えば政治的公平に反するかどうかという判断は、番組を制作する側にまず委ねられる、そこで番組編集の自由が発揮されるということになります。そういう自主自律による編集権をどこまで自由に実行しているのかという放送局側の問題が、今度は問われることにならざるを得ない。

<自主自律・報道の自由をいかせるか>
 ごく最近で言えばジャニー喜多川の(損害賠償)事件についてですね、放送に限ったことではないが、最高裁判決まであるにも関わらず、メディア全体がひたすら沈黙を守り続けてきたということがありますが、本当に放送は自分たちに与えられた自主自律による自由な編集権を行使しているのかということが問われざるを得ないと思います。
 ただ、政府見解であれは法規範で76条による処分ができるという、「伝家の宝刀」と申し上げましたけど、これがものすごい脅しの材料になっているんですね。椿発言の時に実際にテレビ朝日は、免許の更新を条件付きのものにされたということもあって、放送局の経営者にしてみれば、絶対にそういう事態は起こしたくないという意識がありますから、これが上から下までにいたる萎縮効果をもたらしているんです。そもそも政府が、何が政治的公平なのかということを判断できる体制のもとでは、政府権力はもともと権力の行使についてマスメディアによって監視されるべき立場なんですけど、監視される側が「これは政治的公平に反する、法律違反だから処分できる」ということが言えることになれば、政府批判の萎縮をもたらすような結果にならざるを得ない、そうなると一番重要なマスメディアの機能である権力監視機能が損なわれるんじゃないか、という問題があります。しかも何が政治的公平で、何が政治的公平でないのかというのは、非常に漠然としているわけですね。

 国論を二分する問題でいうと、最近の例でいえばイギリスがEU(欧州連合)を脱退するかどうかという問題の時、あのときも脱退すれば経済的にすごくイギリスが利益を受けるというキャンペーンを保守党の側がやったんですね。しかし、実際にはうそだったということが後で分かるんですが、そういう国論を二分する問題について今政府がこう言っている、憲法改正問題で言えば改正賛成の方がこう言っているけれども、それは事実に反するとか、あるいはそういう説明はでっち上げだフェイクだ、あるいは論理的にいってそういう議論は成立しないということが分かっている時に、「それはおかしい」ということを放送することは、何ら問題はない公正な放送であって、それを止めるということは、そもそも表現の自由を保障した趣旨に反するんですよね。なぜかというと、国民はそういう問題があるということを全然知らされないまま、ある候補に投票したり、あるいは選択したりすることになってしまうので、そういうことが許されるんであれば、そもそも民主主義が機能しなくなるという問題がある。もともとは民主主義をよく機能させるための基盤であるから、放送には憲法上その自由が保障されるという関係なのに、全然その機能を果たさないことになってしまう。

shiryou3_5_W_edited.jpg(川端和治弁護士 講演資料より)

 なぜそうなるかというのを考えたのが、BBCのガイドラインです。ずっとBBCが第一の絶対に守るべきものとして掲げてきたのがimpartialityなんです。このガイドラインを読むと、impartialというのは議論の全てのサイドを反映することで、そしてどのサイドもひいきにしないことである、とされています。もっと大事なのは単にimpartialであることを求めているのではなくて、due impartialityが求められている、つまり適正な、ふさわしいimpartiality。何かを報道するときの結果について考えるときには、その事柄の性質、内容において、またその報道が及ぼす結果についても、よく考えた上でやらなきゃいけないという適正な公平性でなければいけないというのがBBCの見解です。

<ジャーナリストたちへの期待>
 私が期待したいのは、ジャーナリストとしての矜持(きょうじ)、ジャーナリズムの力、それがもっと発揮できるようになれば、もっといい放送ができるんじゃないか。週刊文春は、ああいう問題を果敢に取り上げてしかも裁判で争うこともいとわない、あそこには腕っこきの弁護士がついていて、判決で勝つ。ある意味、裁判をしても闘うという、きちんと筋が通っている。日本の場合、どうも裁判沙汰になることをテレビ局の幹部は恐れているのかなという気がすることがありますが、いま文春には、とにかくいろんな情報がどんどん飛び込んでくる。「文春に駆け込めば報道してもらえる」ということで、そういう状態になっているということを文春の編集長が書いていましたけど、もっと勇気を持ってしかも文春のようにきちんとしたリーガルな備えも万全に整えた上で臨めば、重要な問題だけれど報道されないということが、少なくなっていくのかなと思います。

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 議論のある問題について、できるだけ全体を伝えるというのは、これはそもそも放送が公共性を持つ上で絶対の条件ですね。だからといって間違った意見も伝えなきゃいけないとか、事実じゃないフェイクの主張も伝えなきゃいけない、ということにはならないと思います。だからいろんな立場いろんな意見があるとして、その中でまともに取り扱うべき意見と、全然相手にならない意見があったとしたら、それを両方とも載せなきゃいけないというのは、これはおかしいですね。BBCが言うdue impartialityがというのはそういうことだと思います。impartialでなきゃいけないけど、しかしそれはdueでなきゃいけない。間違ったことなのか、うそなのか、これを判断するのは放送局の側ですから、ジャーナリストとして判断するということになります。

 「エコーチェンバー現象」というのがありますけど、それを打ち破るのは、本来の表現の自由の考え方で言えば、「モア・スピーチ」なんですね。言論の力でそれを打ち破っていかなければいけない。
 逆に言えば、放送が本当に真実を伝える場なんだ、放送というのはそういうものとしてそういう制度としてできあがっているんだ、だから信頼できる言論機関なんだということがきちんと確立できるようになれば、そちら側の方向でいろいろな事を推し進めていけば、インターネットに一方的に負けてしまうことはない、というのが私の希望的な観測です。でも、「本当にそういう意味で信頼できるような言論機関になっていますか」というのが、いま一番投げかけられている大きな疑問なのではないでしょうか。

【渡辺健策】
1989年NHK入局。報道局社会部、首都圏放送センターなどで記者として環境問題を中心に取材。
2011年から盛岡放送局ニュースデスクとして東日本大震災の被災地取材に関わり、その後、総務局法務部などを経て2022年から現所属。