「救われたのは私でした…」熊本地震 “363日”の意味を考えた
- 2023年04月16日
「危ないと伝えるだけでは足りない」
「伝えることにどんな意味があるのか…」
「救われたのは、私の方でした」
熊本地震の被災地で、取材を続けた若手記者たちから出てきた言葉です。災害に向き合う姿勢、伝え方がどう変わったのか、聞きました。
(聞き手:熊本放送局 山本未来)
「熊本地震7年、記者が語るあの時①」はこちら
“理屈じゃない”思いに寄り添えるか
山本)
岡谷さんは最も被害の大きかった益城町を長く取材されたんですよね。
岡谷)
はい。益城町に発災当初から入って、その後2018年に熊本から異動になるまで、町を取材し続けました。 当初はいたるところで家が崩れ、道路が隆起し、元の姿が想像できないほどの場所もありました。
しばらくして、がれきの撤去や更地にする作業が終わると、住宅の再建を考える段階がきました。それで住宅が全壊してしまった方々に話を伺ったんですが、「元の場所に戻りたい」と話す人が多かったことが印象に残っています。
「生まれ育った場所だから」「ここだと知っている人も多いから」と、地元への愛着を語る人が多かったように思います。
正直なところ、最初は「あれだけ怖い思いをしたのに・・・」と思ってしまう自分もいました。活断層がまさに足の下を走っていて、また同じ地震が来る可能性があるとも言われていて、ちょうど活断層の専門家にも取材していたので、余計にそう思ってしまったんです。
活断層
日本の内陸や周辺海域にある断層で、調査などで繰り返しずれ動いて地震を起こしていたことが確認されているもの。熊本地震では布田川断層帯、日奈久断層帯の一部がずれ動いたとされる。
山本)
それだけ生まれ育った場所への思いが強かったんですね。私も熊本の荒尾市が地元なので、自分の家だったらと考えてしまいます。
岡谷)
「理屈じゃないんだ」と、本当にそう気づかされました。その時に、「元の場所に戻りたい」っていう強い思いを抱えた人たちに、どうすれば寄り添うことができるんだろうか。そういう人たちに対して「報道は何ができるのか」と、すごく考えさせられました。
「危ない」だけじゃない報道の意味
岡谷)
どうしても最初の頃は被害の報道が中心で、「なにが危険か」を訴える方がメディアの表現としては強いかもしれない。だけど、取材を続ける中で、「単純に“危ない”という報道をするだけではダメだ」と思いました。
元の場所に家を再建するなら、どんなリスクがあると知っておくべきなのか、を専門家に取材したり、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた神戸市の視察に一緒に行ったり。
そして、悩みながらも自分たちの地域を立て直そうとする人たちの必死な姿を取材させてもらったり。
報道として客観性や公平性を担保しながら、どうしたら被災した現地の人たちが生活を立て直すことを支えられる情報になるか、少しでも前向きになれる情報を届けられるのか、というところはすごく悩ましかったです。
それは長期的にかかわっていくことにもつながると思うんですが、被災地の現場に何度も訪れて、そこにいる住民の方と話をして、感じていることを知ったうえで伝えていく。記者として話を聞くところが根っこにあるんだと思います。
学生たちを見続けて
山本)
西村さんは、地震の直後から、東海大学農学部の学生さんたちをずっと追ってきたんですよね。どんなことを感じていましたか。
東海大学農学部
旧阿蘇キャンパスは南阿蘇村にあり、熊本地震では校舎や周辺の学生向けアパートなどの多くが被災、学生3人が亡くなった。地震後、旧阿蘇キャンパスでは当時の建物の一部や断層が「震災遺構」として保存されている。
西村)
自分自身を振り返ると「学生時代、恵まれていたんだな」と感じました。当時は、そのように考えたことはありませんでしたが、東海大学の学生さんたちは入学してすぐ、1週間、2週間ぐらいで被災して、自分が描いていた学生生活とは本当に大きく変わってしまった。
その後も取材を続けていると、学生の皆さんも「同級生が亡くなったような出来事に対して、自分には何ができるんだろうか」と、ものすごく葛藤して、一人一人があがいていたのではないかと思うんです。
災害ボランティアをしたり、地震の記憶を伝える「語り部」をしたりとか。本当に、いろんなことを経験されて、そして2020年には当時1年生だった学生たちも卒業していった。本当に強い存在だなと思っています。
救われたのは私の方、だから
西村)
取材した中に、アパートの倒壊で下敷きになり、右足を切断した男の子がいました。入学してわずか10日後です。バキバキって割れるような音が聞こえ、気づいたら両足が挟まれていたと。
「すぐに切断しないと命に関わる」ということで手術を受けたのですが、その後は義足での生活となり、走ったり、重いものを運んだりすることができなくなりました。 動物に関わる仕事に就きたいと思って南阿蘇まで来たのに、抱いていた夢が遠のいていくような状況になってしまった。
どんな絶望の中にあったんだろう、自分だったらどうなってしまうんだろうって、想像しながら話を聞きましたが、とても彼にかける言葉は見つかりませんでした。
その状況で、彼は、手術をした医師の励ましも受けて、大学で動物のストレスを減らす研究をして、卒業後、鹿児島の畜産会社に就職しました。 「いろいろな人の支えがあって、地に足をつけて自分のやりたいことができている。地震を糧に生きている」という言葉は、今も忘れられません。
その姿を見て「一番救われたのは自分の方だ」と思っているんです。私、地震後に体調を崩して仕事を休職していた時期があって、それから復帰して初めて作ったのが、彼の特集でした。
こんな自分だけど取材をさせてもらって、楽しい思い出も、苦しい思い出も共有させてもらって、彼をはじめとした、たくさんの学生さんから力をもらって、今の僕があります。
こう言うとおこがましいんですが、「恩返しをさせてもらいたい」っていう思いで、これからもずっと見ていきたい、伝えて続けていきたいっていうふうに思っています。
「伝えたいこと」と「伝え方」のギャップを埋める
山本)
私も交通事故遺族の取材の経験があり、その思いを伝えたいと強く思ったことがありました。ただ、どうすれば、その思いを、きちんと届けることができるのかも、同時にすごく悩んだ経験があります。
杉本)
まさに私も熊本地震で、「伝えたい」という思いと、実際に伝わる「伝え方」にはギャップがあるんだと気づかされました。 書きたいことだけ書いても、伝わらなければ意味はないと感じました。
どうすれば伝えられるか考える中で、ウェブの記事では冒頭やタイトルで「あえて“熊本地震”っていうキーワードを使わない」という方法を取ったこともあります。
那須)
被災者の人たちが苦しいなかで聞かせてくれたお話、せっかく取材をさせてもらった思いを少しでも多くの人に届けるということを、あの手この手で考えていかないといけないと思っています。
私たちが出すニュースに対して、熊本地震のニュースだから、番組だからみようって思ってくれる人は、有り難いことに、たくさんいらっしゃいます。ただ、人の興味・関心には、当然ながら温度差があります。
だから、発生から時間が経つなかでも、熊本地震を伝え続けるためにも、比較的、興味関心が薄くなっている方たちにも届けるためには、どうしていけばいいのかをずっと考えていました。
そこで、あえて「熊本地震」を全面に出して伝えるのではなく、例えば「子育て×熊本地震」とすることで、子育てに関心がある人ちにも届くかもしれない。
杉本)
例えば、私が取材したのは、看護師として働いていたお母さんたちでした。
当時、熊本地震から2年となる中で、阿蘇地域の病院の看護師が次々やめていっているという話がありました。どうしてだろうと思って話を聞いてみると、熊本地震で道路が壊れ、通勤にかかる時間が増えたことで、子どものために住む場所を変えたり、働き方を変えたりといった変化が、女性が比較的多いとされる病院の職場で起きていました。
それ自体は「看護師不足」というニュースで伝えたんですが、これがどういう問題なんだろうと考えた時に、ふだんから仕事と家庭の間で引き裂かれやすい社会状況にある女性が一番影響を受けているという問題が見えてきました。
それで、子どもに「お母さん、阿蘇の職場に行くのやめてよ」っていうふうに言われた言葉をきっかけに、「お母さん、仕事やめて」というWEBの記事を書いたんです。
すごく多くの人から反響をいただいきました。 あえて伝え方をちょっと変えることによって、結果として伝わることがあると感じたんです。
災害はもともとあった社会課題を加速化させたり、可視化しやすくしたりするものだなと、すごく気付かされて。その問題を多くの人に“見える”ように伝えるところまでが1つの役割だと感じました。
“363日”取材を続けていく
山本)
最後に、災害報道も大きく変わってきたなかで、変わらず大事にしていることはなんでしょうか?
那須)
やっぱり、取材者1人1人の思いや粘り強さ。 自分たちも本当は怖かったり、つらいことがあっても、ずっとこだわり続けて、取材をしていくことはすごく大事にしないといけない。
岡谷)
現場に行って話を聞くことから始まると思います。正直に言うと、被災地の取材は、悲しい経験ばかりで、話を聞いていて、つらいことがたくさんありました。ただ、記者として話を聞かせてもらっている以上は「自分がつらいと思っちゃいけない」と思っていました。
岡谷)
でも、多くの方と話をさせてもらうなかで、熊本に住んでいる1人として、少しでも感情を分かち合いながら、話をさせてもらうことで、より記者として伝えていく覚悟ができてきたように思います。
西村)
熊本局でずっと取材している記者として感じるのは、被災した人たちには「節目はない」ということです。
メディアは1年とか2年とか、そういう「節目」に取り上げることが多くなってしまう。それはそれで思い起こすきっかけになるから大切だと思うんですけど、 地域局にいて大切なことは被災した人たちの1年と1日目、2日目、3日目を、ちゃんと取材していくこと。
注目されがちなのは、地震が起こった4月14日と16日ですけど、“それ以外の363日”をどれだけ取材できるかなと。
そして、やっぱり記録していかないとなくなってしまう、なかったことになってしまうって、すごく思っています。
東海大学の学生さんの取材で、アパートの下敷きになって7・8時間ずっと下敷きになったけど、助かった学生に会って、その学生は「九死に一生を得た人が、その後、どういうふうに生きたか知りたい」と言っていました。
確かに壮絶な体験をした後の人生って、なかなかどういうふうに生きていけばいいんだろうって分からないと思います。そういう道しるべを少しでも記録して伝えていくっていうことも何か救いになるんではないかなって思っています。
その学生は、すごく立派になって、研究者にもなって、会社を起業したり、ビジネスコンテストで入賞したり。彼の姿を伝えることで、少ないかもしれませんが、次に九死に一生を得た人が、もしかしたらその彼みたいに強く生きられることにつながるかもしれない。そんな思いで、ずっと取材をさせてもらっています。
西村記者が取材した特集記事はこちら
西村)
だから長いスパンで見て、この報道がいつか誰かのためになるかもしれない。そういう思いで、残りの363日も、とにかく取材を1つ1つしていくっていうことが大事なのかなと思います。
(ここまで座談会)
【取材後記】
私は当時、熊本の高校生でしたが、地震の恐怖心とか報道で見たものとか、話を聞くまで忘れ去っていた部分がありました。
3年前の豪雨の時、子どもたちから「この恐怖が忘れられてしまうことが一番怖い」と聞いたことが私が記者を志望する原点だったはずなのに、自分自身が“風化”しつつあったのかもしれません。
今回初めて実際に現場で取材していた記者の本音を聞いて、記者も一人ひとり人間として迷いや葛藤を抱えながらそこにいたんだと気づかされました。「もしかしたら自分も巻き込まれていたかも・・・」という岡谷記者の言葉には重みがありました。
自分がその場にいたらどう行動しただろうか、自分なら何を伝えられるのだろうか。想像力を働かせて、次の災害に備えたいと思いました。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。(終)
前回までの記事は
熊本地震7年、記者が語るあの時①
「怖い、怖い、怖い…」あの夜、私はデスクと抱き合い絶叫した
熊本地震7年、記者が語るあの時②
「私たちに復興はないです…」熊本地震、遺族の言葉に触れた時
【編集:岡谷宏基・杉本宙矢】
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