生き残った意味、問い続けて【前編】
- 2023年04月13日
「圧死か、焼死か」
鳴り響く緊急地震速報。充満するガスのにおい。
記憶に刻まれた壮絶な体験。
あの日の恐怖は今も消えない。
「なぜ生き残ったのか」という罪悪感とともに。
(熊本放送局 記者 西村雄介)
研究者の原点
「答えなんてもちろんない。けれども、何回も、自分を責めた」
中島勇貴さん、25歳。
東海大学農学部を3年前に卒業し、現在、大学院の博士課程に在籍している。
研究しているのは、乳酸菌が人の健康に与える効果について。研究室で選りすぐった乳酸菌を豆乳に混ぜたヨーグルトを「肥満モデルマウス」に食べさせ、認知機能の低下の改善を確認。そのメカニズムを研究している。
研究に打ち込む日々を過ごす中島さんの原点。
そこには、熊本地震での壮絶な体験、そして、罪悪感がある。
「家族にありがとう」と伝えて
「本当に自然が本当に豊かなところで4年間、学ぶということにワクワクしていた。友達とガイダンスを受け、どの授業を履修しようかと」
2016年4月、子どもの頃からチーズやヨーグルトが好きだった中島さんは、その研究が出来ると聞いて、東海大学農学部に入学した。
実家の北九州市から、キャンパスのある南阿蘇村に移って、初めての1人暮らし。学生生活には期待しかなかった。
しかし、その日々は、10日あまりで暗転する。
「体もあおむけから、うつぶせの状態なっていて、床、布団と天井に挟まれてるような。何が起こったのか、全く理解できなかった」
一連の熊本地震のうち、2度目の震度7を観測した地震で、南阿蘇村は震度6強の揺れに見舞われた。
農学部のキャンパスが大きな被害を受けたほか、周辺にあった学生向けアパートや下宿の多くが倒壊。
中島さんの自宅アパートも地震で倒壊し、1階に住んでいたことで下敷きとなった。
「指がちょっと動くかどうかの隙間で、まったく動けず、呼吸もできないぐらいに圧迫された」
絶え間なく続く激しい余震。充満するガスのにおい。
「圧死か、焼死か」。
死を覚悟するなかで浮かんだのは、家族のことだった。
「救助への期待もあったけれども、来なくて。生きることに、希望、期待もできなかった。18年生きてきて、何も残らないというのは、本当に辛くて、何とかして、自分の家族に、メッセージを残したかった。大家さんか先輩がきたときに、『家族に、これまでありがとうって伝えてほしい』っていうのだけ、叫んだのは覚えている」
九死に一生、残る罪悪感
「なぜ大野先輩が、っていうのは、今でもずっと」
およそ8時間後、中島さんは他県から応援に入った警察などに救助される。
しかし、中島さんと同じアパートで、隣の部屋に住んでいた1人の学生が亡くなった。
大野睦さん、20歳。1学年上で、同じ学科だった。
引っ越しをしてから、あいさつにいくと、気さくに接してくれた。 授業の話、村での生活、スーパーはどこがいい。相談は何でも。
初めて出来た先輩だった。
あの日、あの時間。
ひとりは生き残り、ひとりは助からなかった。
「当時、大野さんがどういう思いでいたのか。普通なら共有できない部分が、自分なら考えてしまって。救助されたあと、少し行動を変えていれば、違った結果になったんじゃないかというのもあって」
九死に一生を得た。しかし、残ったのは、罪悪感だった。
もがく日々
「映画館には最近ようやく行けるようになった」
授業が再開しても、中島さんの地震は終わらなかった。
地震後、農学部のキャンパスが使用できなくなり、中島さんは熊本市にある別のキャンパス、アパートで学生生活を始める。
しかし、何をするにしても、手がつかなかった。
揺れ、音に、すぐに地震を思い出す。眠れない日が続いた。
「頭で分かっていても、体が反応する。いまでもそこは闘いながら、日常を過ごしている」
何よりも大きかったのは、罪悪感だった。
「生き残ったことに対して、なんでだろうっていう、感情のほうが大きかった。答えなんてもちろんないけれども、何回も、自分を責めてしまうことがあった。それまで楽しいと思っていることにも、これでいいのかなって、考えるようになってしまって、楽しいことをやろうとすればするほど、そうでない、対照の気持ちになっていくギャップが常にあった」
まわりの学生は被災した村にボランティアに向かった。
しかし、中島さんは、熊本市内にとどまった。
「復興に向けて、みんながボランティアなどの活動をする中で、自分がなかなか動けなかったっていう本心としてあった。周りの頑張ってる姿、復興への思いが、当時の自分をきつくしていった」