ページの本文へ

NHK熊本WEB特集 クマガジン

  1. NHK熊本
  2. 熊本WEB特集 クマガジン
  3. 「私たちに復興はないです…」熊本地震、遺族の言葉に触れた時

「私たちに復興はないです…」熊本地震、遺族の言葉に触れた時

熊本地震7年、記者が語るあの時②
  • 2023年04月16日

慣れてるわけなかった。 だって被災地を駆け回っていたのは、私と同じ数年足らずの記者たちなのだから。

彼らはあのとき、何を見て、何を肌で感じてきたのだろう。 そこに迷いは、葛藤は、なかったのだろうか。 

当時、若手だった記者たちの、取材の記憶を辿りました。 

(聞き手:熊本放送局:山本未来)

「熊本地震7年、記者が語るあの時①」はこちら

書いて、役に立てたのだろうか

山本)
西村さんが印象に残っている取材はありますか?

西村)
本震から5日経って 、南阿蘇村に行って役場で情報収集していたときのことです。

西村記者 発災直後から南阿蘇村を取材

当時、自分は村役場にずっと張り付いて、その日、行方不明だった人が何人で、亡くなった人が何人っていう次々更新される情報を取材していました。

そしたら、役場の奥の方で、職員に鬼気迫る感じで話しかける人を見たんです。役場の職員の人に、必死に懇願というか、お願いをしていて。聞いてみたら「ドローンを使って、なんとか息子の行方を捜索してほしい」ということでした。

当初はどなただか分からなかったのですが、実はその方は、大和晃さんのご家族だったんですよ。

大和晃(やまと・ひかる)さん
熊本地震で亡くなった阿蘇市の大学生。4月16日の本震で、阿蘇大橋が崩落する大規模な土砂崩れが発生し、近くを車で走っていたと見られる当時22歳の晃さんは行方不明となった。2次災害の恐れがあり、捜索は難航。両親による再三の捜索要請の末、約4か月後、崩落した阿蘇大橋の下流で遺体で見つかった。

崩落した阿蘇大橋

西村)
その姿が、今でも鮮明に覚えているくらい気になって。 

ただ、当初、記者として3年目で、そうした大規模災害の現場の経験も少なかったので、どうしていいかわからなかった。 迷った末に、応援の先輩記者の方に「こういうことがあって」と話したら、「それは原稿を書いた方がいいよ」と言ってくれたんです。

だから、ニュースを書くことができました。 このことを忘れてはいけないと、そのニュースの画像は、今でもまだ残しています。

西村記者のスマホに残るスクリーンショット

山本)
それだけ切迫した場面だったんですね。

 西村)
被災したわが子を思う、気迫を感じた取材でした。ただ、そのニュースを書いたことで「役に立てたのだろうか」と思うと、今でも、どうだったのだろうと感じます。

ただ、その後、先輩記者や阿蘇支局の記者たちが、たびたび大和さんのご家族を取材させていただいてきたので、少しでも何かにつながっていたら、と。

なぜ取材するのか、わからない

山本) 
杉本さんは2年目でしたよね。当時は地震で亡くなった方のご遺族の取材をしていたと聞きました。

杉本) 
そうですね。ただ当初、ご遺族への取材には「何でこんなことしているんだろう」っていう罪悪感みたいなものがすごくあったんです。 
 

杉本宙矢記者 当時は記者になって1年あまり

杉本)
発災直後、被災地で取材をしていたら、若い男性の葬儀があることを知りました。ご親族の方とお話して「敷地の外から、遠くからなら」と撮影を許可してもらえたんです。

葬儀の取材は初めての経験で、私はどうしていいのかわからず、ただじっと眺めているような状態でした。葬儀が始まると、敷地の外からも亡くなった方の遺影も見えました。私とそれほど年齢も変わらない方でした。

葬儀が終わって、会場から出てくる方は涙を浮かべる方もいました。声をかけるのはとてもためらわれ、今思うと、ほとんど取材はできていませんでした。

それからご親族の方にもお礼を伝えてから、放送局に戻りました。正直、私自身どう受け止めていいのかわからず、少しボーっとしたような感じでした。そしたら、周りからこういわれたんですね。 

「東京が“映像を送れ”って言ってる」
「早く原稿書いて。全中でやるから」

これには頭が追いつきませんでした。

さっき葬儀があったばかりで… 原稿になんて書いていいのかわからなかったんですけど、見て分かったことだけを書いて、そしたらテレビに遺影が映って、自分の書いた原稿が読まれているんですね。 でも、当時はこの取材を何のためにしたのか、ピンとこないままでした。

オンラインで当時のことを聞きました

「君は“命”担当や」

山本)
それでもご遺族の取材を続けていったのは、何か思いの変化があったのでしょうか?

杉本)
その後、「消防」の取材をしたときのことです。発災直後の熊本市消防局の救助・救急対応を調べてみると、通報が殺到して、もうパンク状態だったということが分かってきました。本来だったら「助けてほしい」っていう被災者からのSOSが入るかもしれないのに、それを受ける側が取れない状態でした。

当時の取材ノート

でもそれをきちんと裏付けして、検証していくためには、いったい何が起きたか整理する必要があって時間がかかりました。

当時はまだ2年目で取材力も高くなかったので、地震から3週間たったころに、ようやく全国ニュースの特集として放送に出せました。

ニュース7での放送

放送後も「自分は災害の取材経験もないし、事件・事故担当だし、これからどう何を取材してたらいいんだろう」という迷いはありました。 そのとき、特集を監修してくれた応援のデスクがこんなことを言ってくれたんです。 

君は“命”担当やからな。

割り当てられた“担当”とかじゃなくて、災害の後で命がどうなっていくかにちゃんと目を向けて取材していけば間違いないよ、って。

この言葉を聞いて、なんか視界が開けたっていうか。

山本)
どんな変化だったのですか?

杉本) 
ご遺族の方にお話を伺うのはいつも心苦しいのですが、自分の中で聞く理由っていうか、覚悟みたいなものができたっていうか。 

ご遺族の方々も大切な人を亡くされて、尋ねるときによって返ってくる言葉のニュアンスとか表情とかが変化していくんですね。 法要だったりとか、初盆だったりとか、あるいは一周忌だとか、遺族の方からお話を聞かせてもらうにあたって、いつもその言葉を思い出していました。

どこまでできるかわからないけど、“命”にかかわることにこだわろうと。 

放送にはつながらないことも

山本)
熊本地震では直接地震の被害で亡くなられた方よりも、災害関連死と認められた方がずっと多かったですよね。 

災害関連死 
避難生活での体調悪化や医療機関の機能停止など、災害に起因する環境変化によって生じたとされる死者。熊本地震では、直接地震の被害で亡くなった人が50人なのに対して、災害関連死はその4倍以上にあたる218人に上った(令和5年3月13日時点)。

杉本) 
関連死については、当時、なかなか情報が出てきませんでした。お名前も公表されない。当初は、お顔も人柄も見えず、行政の発表するリストの中に事例として載せられているだけでした。

災害関連死の認定基準の資料

これには何かもどかしく感じたんですね。それで、断片的な情報を元に被災地をいろいろ歩き回りました。事件取材もしていたので、警察の人にも「関連死について知りませんか」と尋ねたり。 いろんな情報を総合して、やっとご遺族にたどりつく。

だけど、そこからお話聞かせてもらえるとは限りませんし、聞かせてもらったとしても、「じゃあカメラで撮っていいですか」ってことになりませんでした。カメラで撮るのはもう最後の最後。正直、放送にはつなげられなかった取材がほとんどですね。 

「自分たちに“復興”はない」

 杉本) 
それでも関連死の中でも「病院避難」による影響については長く取材を続けました。 

病院避難 
災害によって病院の建物に被害が出たり、ライフラインが寸断するなどして、入院患者を一斉に転院・退院させる措置。熊本地震では10を超える病院で相次ぎ、災害関連死が増加する一因ともなった。

杉本) 
中でも、宮崎花梨(みやざき・かりん)ちゃんという4歳の女の子のご両親には、ずっと取材させてもらいまして、熊本を離れた今でもつながりがあります。

宮崎花梨ちゃん(左)と母・さくらさん(右)

花梨ちゃんは心臓病の治療で入院していたんですが、耐震化が不十分だった熊本市民病院から転院を余儀なくされて、その5日後に亡くなりました。後に、病院の機能停止の影響として、災害関連死と認定されたんです。 

お母さんの宮崎さくらさんは何度も何度も色んなお話や思い出を聞かせてくれまして、私もそのたびに、大切なことを思い出させていただけるというか。中でも、すごく記憶に残った言葉がありました。それは、
 

 「自分たちに“復興”はないんです


っていう言葉ですね。 

時間がたてばたつほど、被災地で壊れたり、崩れたりした場所の復興は進んでいく。熊本では県が「創造的復興」というスローガンを掲げ、「がんばろう、熊本」という言葉がしきりに叫ばれました。

「でも、大切な娘が戻ってくるわけじゃない。“がんばろう”と言われるたびに、頑張れない私がいけないのかな…と罪悪感が強まる感じがするんです」

そう話されていたのが、とても印象に残っています。

花梨ちゃん用のランドセルを見つめるさくらさん

傷を一緒に見て、触れる

山本) 
私も、ご遺族の取材を1度だけやらせてもらったことがあります。まだ新人で、正直どう聞いていいのかわからず、話を聞く日の前日とか寝られないくらいでした。

杉本さんは取材することで、相手を傷つけてしまう怖さみたいなものはなかったですか?

山本記者 現在熊本局で事件・事故担当

杉本) 
怖いというか、つらい状況の中でお話を聞かせていただいているのもあって、話を聞いていてもどう返すのがいいのかわからない場面も多々ありました。毎回、緊張もしますし、どうしたらお話してもらえるんだろうと、悩んでいました。 

たしかに「相手を傷つけてしまいそうで怖い」という気持ちもあります。私も今でもそうます。でも、「傷つけそうで怖い」って言葉は、ある意味では取材者側のものでしかない気もするんです。

花梨ちゃんのお母さんが言っていたんです。

傷はもうたくさんついているんです。でも、その傷に一人で向き合うのはつらい。だから、一緒に傷を見て、触れてもらえる人がいたら

って。ハッとさせられたというか、何か腑に落ちたというか。

私も迷いながら、怖がりながらですが、傷に向き合うことに立ち会えればと思っています。

被災した人たちとの会話に、多くのことに気づかされてきた。その気づきが今の報道につながっていると感じました。次回は、災害を伝えていく意味について話していきます。(続く)

続きはこちら↓
「熊本地震7年、記者が語るあの時③」
「救われたのは私でした…」熊本地震 “363日”の意味を考えた

前回はこちら↓
「熊本地震7年、記者が語るあの時①」
「怖い、怖い、怖い…」あの夜、私はデスクと抱き合い絶叫した

【取材:山本未来/編集:岡谷宏基・杉本宙矢】

あわせて読みたい

ほかのおすすめ記事

  • 山本未来

    熊本放送局 記者

    山本未来

    熊本局2年目記者
    事件・事故担当
    熊本出身

  • 岡谷宏基

    ネットワーク報道部記者

    岡谷宏基

    熊本局・経済部を経て現職 記事の構成・編集を担当
    熊本地震の際は4年目

  • 杉本宙矢

    ネットワーク報道部記者

    杉本宙矢

    熊本局を経て現職
    記事の構成・編集を担当
    熊本地震の際に2年目

ページトップに戻る