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「怖い、怖い、怖い…」あの夜、私はデスクと抱き合い絶叫した

熊本地震7年、記者が語るあの時①
  • 2023年04月14日

私は県北にある荒尾市で育ち、熊本地震の時もそこで暮らしていました。

当時16歳の高校生だった私は、6年後、災害報道に携わりたいという気持ちからNHKに就職しました。 

そのきっかけは令和2年7月に熊本県を中心に発生した豪雨。  大学生のときに人吉市で中学生の学習支援に携わり、そこで子どもたちから言われた言葉でした。

この恐怖が忘れられてしまうことが一番怖い」と。

山本未来記者 事件・事故担当をしています

だけど、私自身、2016年の熊本地震の報道を、はっきり思い出せるでしょうか。

熊本地震が発生した午後9時26分。とっさにつけたNHKのニュースでは、熊本県で震度7の地震が起こり、次々に移り変わる状況を伝えていたのは覚えています。

記者たちは何に向き合い、何を感じたのか。7年となる4月を前に、当時の記者やデスクに集まってもらい、話を聞いてみることにしました。

「南海トラフが来たと思った」

山本

「記者」と聞くと災害報道に慣れている印象が私にはあるのですが、熊本地震の時はどんな状況でしたか? 

杉本

全く慣れていませんでした。 前震の時は、急に感じたことのない揺れが来て、空間全体が何かに引き寄せられていくようでした。 机に向かって作業をしていたんですが、「これはヤバい」と直感的に思い、すぐに机の下に入りました。

発生時の熊本放送局の様子 杉本記者(左)と西村記者(右)

ふだんだったら、災害が起きたらすぐに原稿を書き始めなきゃいけないんですが、そんな気持ちの余裕はありませんでした。

西村

私は杉本記者の隣に座っていて、最初ちょっと揺れたかなと思って1秒ぐらいしたら、体が大きく揺られて、「はぁ?!」みたいになって。 机の下から出たあとに、パソコンの画面を確認して、「震度7」って叫んだ記憶があります。 でも、熊本で震度7って信じられなくて、最初は「南海トラフがついに起きたか」と思いました。

那須

当時、私も局で仕事をしていました。 私は社会部にいた時に、大規模災害の現場に応援取材で行った経験もあったのですが、決定的に違うのは、最初の大きな揺れを自分がいる局で体験したことはありませんでした。 西村記者が「震度7」と叫んだのを聞いて、「震度7?うそだろう・・・」と思いました。 熊本地方が震度7というのは出たんですが、どの市町村で一番、震度が大きいのかがすぐには分からなかったんです。

当時、ニュースウォッチ9が放送中だった

西村記者や杉本記者が、どこが揺れているのかとすぐに電話をかけてくれたんだけど、電話もなかなかつながらない状況で。 実質は10分くらいだったと思いますが、原稿が出せない時間がものすごく長く感じました。 経験したことのない揺れに襲われた「混乱」「不安」に加えて、早く原稿を書かなければという「焦り」で、身も心もフリーズしたような感覚でした。

その後、「益城町で震度7」と判明し、午後9時半過ぎに、2年目になったばかりの杉本記者はカメラマンと一緒に益城町役場に向けて出発したといいます。なんとか益城町役場に着きますが・・・

役場に着くと、多くの人が避難してきていました。当時はまだ寒くて、みなさん、毛布をまとって駐車場にシートを敷いて座ってるような状況で。 取材しようにもどうするんだろうってパニック状態みたいになっていました。

前震後の益城町役場の様子

そんな時に、携帯電話に全然知らない東京のディレクターから電話がかかってきて、「中継をやるんで、何かしゃべってください」って言われてたんですよね。新人だし、デスクとも連絡が取れず原稿もない中で、自分でも何を話しているのか分からないような状態でした。

当時の中継の放送 スーツ姿にヘルメットと災害報道ではあまりない姿

そのおよそ1時間後、那須デスクは岡谷記者、西村記者と一緒に益城町役場に向かいます。しかし、道路は大きく壊れ、思うように進めません。そんな中で15日午前0時3分に6強の揺れが再び、益城町を襲います。

岡谷

益城町役場へは道路が壊れて進めないところもあり、ところどころ止まりながら、取材もしながら進みました。

益城町へ向いながら撮影した映像

益城町にどんどん近づいていくにつれて、塀が倒れたり、道路が壊れたり・・・もう町全体が暗かった。 ちょうど益城町に入ったあたりで、めちゃくちゃ大きな揺れを感じました。あとで知ったんですが「6強」でしたね。

ちょうど車を降りていた時で、本当に怖くて、那須さんと2人で、道路の真ん中で叫びながら、抱き合った記憶があります。 目の前にあった電柱が折れるっていうくらい歪んで見えました。

そうだよね、こう抱き合ってしゃがみ込んで・・・益城にいくともう揺れが全然違いました。

私は車のなかにいましたが、ジェットコースターみたいで、うねりがすごかったです。

そして、3人はなんとか益城町役場に到着し、杉本記者とも合流しますが、その時の光景が忘れられないといいます。

さっき、杉本記者が言ったように、本当にたくさんの人が避難してきていて。 余震もずっと続いていたんですが、揺れるごとに携帯が鳴るんですよね・・・地震速報で一斉に。バーって鳴る音がまた強くて、悲鳴が上がっていて。 本当に怖かったですし、そんな中で人に話を聞かなきゃいけないというのがすごくつらかったです。

益城町役場で避難している住民にインタビューをさせてもらった

岡谷記者と一緒にインタビューに動いて、「地震の揺れ、どうですか」みたいな質問した気がするんですけど。 「どうですか、って何だよ」って、怖いに決まってるじゃんみたいに自問自答して・・・ 何を聞けばいいんだろうって、迷いしかありませんでした。

益城町役場で取材する西村記者

私も災害現場の取材経験があるはずなのに、圧倒されて・・・みなさんが着の身着のままで避難されてきて。役場の駐車場もそんな広くないから、そこに人が密集してて、恐怖の感情で溢れている。 そもそもカメラを向けていいのか、声かけしていいのか躊躇するような状況で、私はデスクとして何て言っていいのか、分からなかった・・・。

記録を見ると、14日から15日にかけての震度1以上の揺れは344 回に上っていました。

熊本城の石垣が・・・

4人は15日も益城町で取材を続けたあと、翌日の取材に向け帰宅します。そして、16日午前1時25分、「本震」が熊本を襲います。熊本局もスタジオのライトが落ち、壁が割れるなど大きな被害がでます。情報が取れないなかで、すぐに現場に行ける状況ではなかったといいます。

本震の時は、どんな状況でしたか?

自宅で仮眠を取っていましたが、すぐに局に行かないといけないと思って、外に出たら、砂ぼこりというか、煙みたいなのが立ちこめていて。

熊本城の石垣が・・・あんなに砂ぼこりがって思うぐらい。

前震直後の熊本城 本震では石垣も大きく崩れた

あんな真っ暗な街を初めて見ましたね。

前震を受けて、熊本局には社会部も含めて災害取材のエキスパートが集まっているような状態だったんですが、あまりの揺れの大きさに「とにかく局から出るな」となりました。

本震の時は、すぐに現場には行けない状態だったんですね。

手が震えて原稿が書けなかった。恐怖で打てなかったのは初めてでした。

本震も本当に怖かったです。揺れ自体というより、「もう1回、もっと大きな揺れが来るかもしれない」という恐怖でした。

そもそも当時、「前震」のあとの「本震」という考え方もなくて、「もう大きいのは来ない」と思ってたのに、これだけの地震が来た。また来たら、どうすれば・・・という思いでした。

朝になって明るくなってくると、200メートルある阿蘇大橋が落ちている映像とか、宇土市役所の庁舎が歪み、崩壊しかけてる状況も見えてきて。

本震後の宇土市役所

南阿蘇村の東海大学の周辺で「生き埋めになっている人がたくさんいる」という情報もでてて、すさまじいことになってると思いました。

多くのアパートが倒壊 学生3人が亡くなった

「水がないと生きていけないと痛感」

被災した友人がトイレもろくにできず、お風呂も入れない状況が1週間以上続いたと言ってましたが、みなさんはどんな状況でしたか。

街中の自販機から水が消えて、すごく甘いようなジュースしか手に入らなくて、数日続くと気持ち悪くなりながら飲んでいました。「人間って水がないと生きていけないんだな」と痛感しました。

私はずっと缶コーヒーを飲んでいましたね・・・

自宅も断水していましたが、水をもらう列に自分が並んだらいけないと思って、しばらく列に並ぶこともしなかったので、水が使えるまで数週間かかりました。

熊本市は人口が70万人以上いて、そういう都市で大規模災害が起きると、避難所やライフラインにも重大な影響が出てしまう。そうすると、取材する側も避難者になるので、継続して取材してくることが難しい状況でした。

「巻き込まれていたかも」

最後に、当時の取材を振り返って、7年たった今、何を感じているか聞いてみました。

もし、本震が15日の日中に来ていたら、自分も巻き込まれていたかもしれないと思います。 15日の朝に明るくなってから、西村記者と一緒に益城町を回って、崩れかけた家や塀のそばで取材していましたが、その時間帯に本震が来てたら、報道関係者を含めて、もっと巻き込まれた人がいたんじゃないかという怖さは振り返ってみて思います。

15日に益城町で取材する西村記者

なんか「明るくなると取材できちゃう」というか、壊れている家があると、住民の人がいないかと思って近づいてしまうんですけど、じゃあ今この場所で取材していて、もし揺れたら、どうなるんだろうというところまで、正直、考えられてなかったですね・・・。

結果的に14日が前震だったわけですが、当時は震度7が前震なんて思わなかったですし、そもそも本震が来るという考えは、NHKの中でも、そんな知見は今まではなかった。 私自身も、余震は最初の地震より小さくなると完全に思い込んでいて、家族にも、これ以上大きい揺れは来ないと思うよと言ってしまって・・・。

15日に益城町で取材した時の映像

そういう「正常性バイアス」とか思い込みで大丈夫って安易に思ってしまうことは、すごく怖いと気づかされました。

正常性バイアス 
ふだんと異なることが起きていても、それを正常(ふだんと同じ)の範囲内ととらえ、心を平静に保とうとする心の動きのこと。「自分は大丈夫」「どうせ大したことない」と考えてしまい、都合の悪いことを無視したり過小評価してしまう認知のゆがみ。

取材を指揮する立場として、反省はありますか?

被災地に入ってみると、想像を超える余震と被害の大きさでした。とにかく取材にあたる取材者の安全をちゃんと担保しないとまずいと思っていました。ただ、現場にいるデスクが限られるなかで、いろんなところから、いろんな人が集まっていたので、なかなか全員の状況を整理することが難しかったことが反省です。 

この安全管理の一方で、何が起きてるかを伝えるためにどこまで取材をするか、そして、被災者の方を目の前にした時に、一番困っている方たちに、これ以上の負担をどこまでかけて取材するのかという、このバランスにすごく悩みましたね。

オンラインで実施しました

ここまで話を聞き、突然の地震に混乱しながらも、手探りで取材を続けていた記者の姿が見えてきました。災害取材の経験のある那須デスクですら迷いを持ちながら、取材にあたっていたことに驚きました。次回はそれぞれの記者の心に残っている取材について聞いていきます。(続く)

続き(第2回)はこちら↓
「私たちに復興はないです…」熊本地震、遺族の言葉に触れた時

第3回はこちら↓
「救われたのは私でした…」熊本地震 “363日”の意味を考えた

【編集 岡谷宏基・杉本宙矢】

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    熊本局 記者

    山本未来

    2022年入局
    事件・事故の取材を主に担当

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