「人生で最もつらい中継でした…」眠れないあの日、伝えた言葉
- 2023年04月12日
私、佐藤茉那は4年目のアナウンサーです。
普段は、熊本局で定時のニュースを読んだり、夕方の番組のリポーターなどをしています。
私は、赴任して1カ月で「令和2年7月豪雨」を経験しました。球磨川が氾濫し、県内では70名近くの方が命を落とし、多くの人が住む場所を奪われました。
当時、新人で右も左もわからないまま被災地を取材しに行き、
「私がみなさんを助けられるわけじゃない…」
「被災した人の負担を増やしているだけでは?」
ひたすら申し訳なさを感じていました。
こんなことを感じている私が、地震、豪雨、噴火…災害が相次ぐ熊本で報道に関わっていいのでしょうか。
そんな迷いを、熊本地震を最前線で伝えた、先輩である新井隆太アナウンサーにぶつけてみました。
(熊本放送局 アナウンス 佐藤茉那)
熊本と仙台をつないで
佐藤)
新井さん、今日はよろしくお願いします。今、仙台局にいらっしゃるんですよね。
新井)
佐藤さん、よろしくお願いします。熊本のあとに仙台に異動しました。初任地が仙台局で、妻の出身地ということもあって、家族で仙台に住んでいます。
佐藤)
お子さんもいらっしゃるんですよね。
新井)
3人いまして。 13歳、11歳と、5歳。もう大変ですよ笑。
地震が起きた時は、上の子が小学1年生になったばかりで、もう1人は4歳でした。
佐藤)
まだお子さんも小さかったんですね。
新井)
そうですね、局のすぐ近くの幼稚園に毎朝送ってから出勤していましたね。
佐藤)
そうだったんですね。今回、地震のときに、アナウンサーとしてというだけでなく、一人の人間としてどう災害と向き合ったかという部分もお尋ねできたらなと思っています。
“慣れていた”はずだった…
佐藤)
新井さんは熊本地震の前にも災害報道の経験はあったのでしょうか。
新井)
実はNHKに入ってから、ずっと関わっています。
初任地が仙台局で、当時は東日本大震災が起きる前でしたが、地震が多かったので、災害現場の仕事はよく経験していました。
熊本局にも4年間いましたが、2012年には九州北部豪雨がありましたし、阿蘇山の噴火、毎年のようにやってくる台風・・・、現場によく行っていました。
そういう意味で、災害報道には“慣れている”と思っていましたね、熊本地震を経験するまではですね・・・。
熊本地震のあとは毎日がとてもしんどくて…。
「しんどかった」と振り返る新井アナウンサー。当時どんな状況だったのか、詳しく聞いていきます。
“これさすがにまずい” その時は東京に
佐藤)
4月14日の前震の時はどこにいたんですか?
新井)
ちょうど東京に出張をしていて、熊本にはいなかったんです。
「あさイチ」のリポートを出す予定があって、翌日の放送の準備を終え、晩ご飯を食べ始めようとした時に携帯で緊急地震速報が鳴って。
「熊本県 益城町 震度7」
と出て、渋谷の放送センターに走って行きました。
当時ニュースウォッチ9の放送中だったので、ニュースセンターにいたアナウンサーやスタッフの人たちに、益城町の地図とか、とりあえず場所の最低限の情報だけ説明して。
佐藤)
その時、熊本にいるご家族と連絡はとれたんですか?
新井)
妻と6歳、4歳の子どもは無事でしたが、地震の直後にはLINEが来てて、妻は「すごく怖い」といい、この写真が送られてきました。
佐藤)
けがはなかったんですね…
新井)
子どもが小さいし、家族はもう寝ていて。家の寝室には、棚も何も置いてないので、倒れてくるものが一切なかったんです。リビングだと物が崩れてしまうんで、むしろ寝ててくれて助かったなって。
ほぼ無睡 家族にパンだけは
新井)
そのあとすぐ空港に向かいましたが、熊本便は欠航。北九州行きの最終便がありましたが、すでに満席で。やむなく翌朝の福岡行きの始発を取りました。
福岡から熊本に着いたのが翌日のお昼。テレビに出てもすぐ伝えられるように、夜中ずっと情報を集めていて、ほぼ無睡で帰りました。
熊本局に着くと、すぐにテレビの「特設ニュース」をやってくれって言われて、そのままスタジオに入りました。
夕方6時ぐらいになって、放送の合間に少し時間ができたので、走って10分ぐらいだった家に一度戻りました。ようやく家族の無事を直接確認できて。
それと渋谷のコンビニでパンを20個買っていました。そのパンを家族に届けて、7時ぐらいにはまた局に戻りました。そのパンで3日間家族が食いつなぐことになるんですよ。
ようやく夜10時ごろに自宅に帰って「これでおさまればいいね」と妻と話をして少し目を閉じたところでした。そしたら本震がね・・・。
ようやく眠れたと思ったところで起こった16日午前1時25分の「本震」。発生後、職場へ向かいましたが、家族を残していくことに不安も感じていたといいます。
「パパ、行かないで」
佐藤)
本震の時は、もう真夜中でしたよね。
新井)
真っ暗で、ゴーンって下から突き上げられて・・・横にいた子どもにおおいかぶさったことを、覚えています。
すぐに荷物を持って外に出て、自宅近くの裁判所がロビーを避難場所として開放してくれていたので、とりあえず歩いて子どもたちと妻を送り届けて、局に向かいました。
佐藤)
その時、家族からは何か言われましたか?
新井)
長男はふだん、台風や噴火があると「そういう時はパパはいない。仕事に行く」って子どもなりに分かっていたようなんです。
でも、このときばかりは怖かったのか、初めて言われたんです。
「パパ、行かないで」
と。すごくはっきり覚えています。 家族には本当に申し訳ない気持ちでしたね。
佐藤)
真っ暗な街とか、局内の状況とかってどういう感じでしたか?
新井)
震度4とか6弱ぐらいまでは何度か経験したことがあったので、揺れの怖さは実はそんなに感じませんでした。
でも、びっくりしたのが、熊本城の脇を通って局へ行く時でした。4年間毎日、通った道なんですが、石垣が全部崩れていたんです。
それを見た時に、これはやばいと思った。熊本市の中心部がそうなってるってことは、周りもまずいんじゃないかって、血の気がひきましたね。
新井)
局に行くと壁もひび割れてるし、ヘルメットかぶれって言われて。自家発電が動いて電気はついていましたが、大混乱でした。東京から放送が出ているけど、熊本局としてどうするかまだ決まってないような。
そして、熊本放送局のアナウンサーとして、16日夜のNHKスペシャルで益城町からの中継を担当することが決まったそうです。「人生で最もつらかった」と話す中継。2分半ほどのリポートに込めた思いを聞いていきます。
オーダーは”熊本の今を伝えてくれ”
新井)
益城町から中継をすることになり、朝からディレクターと一緒に益城町の避難所に向かいました。
東京の番組サイドからは、“熊本の今を伝えてくれ”と言われたんですが、何が起きたのかまだ把握できていないし、時間はないんだけど、取材を深めなくちゃいけない。
中継時間としては2分半とか3分ですが、すごく悩んだのを覚えています。
佐藤)
新井さんとディレクターで取材して考えたんですか?
新井)
そう、全部、自分たちで取材しました。
まず行くのが大変でした。道が壊れていて、途中で止まったり、う回したりして、益城町に全然つかない。ふだんなら30分くらいで行けるのに、3時間くらいかかった気がします。
まだ本震発生から24時間たっていない。この状況で熊本から伝える意味って何かを考えて、そうしたら、熊本の人が何を感じているかを伝えることに尽きると思いました。
それが何か、すごく考えたんですけど、分からなかったんです… だから、とにかく話を聞くしかないと思って。
当時、益城町の避難所にいた人たちに、3、4時間かけて10人くらいに話を聞かせてもらいました。
佐藤)
私も豪雨のときに初めて避難所を取材しました。どんなことに気をつけていましたか?
新井)
やはり最大限の配慮が必要で。話しかけて嫌だっていう人にはすぐやめるようにしていましたし、話を聞く場所も重要で、避難所の中にずけずけ入って聞くっていうのは一切しませんでした。
きちんと状況を見極めて、嫌がられるっていうことを前提として動く。そのうえで自分が誠心誠意、話を聞かせて頂きたいっていう言葉をしっかり伝えるべきですが、やっぱりすごく難しいと思います。
時間が迫る中継。被災した人たちの話を聞く中で、いつもの“型”とは違ったコメントをすることを決めたと教えてくれました。
ふだんはあまり言わない言葉
新井)
話を聞かせてもらったなかで、みんな言っていたのが「前震の時とは恐怖感が違う」ということでした。
佐藤)
恐怖感ですか?
新井)
つまり、あの時はまだ前震・本震という言葉もきちんと認識されていませんでした。
前震、本震と地震が2回あって、しかも2回目の方がすごく大きくて・・・ そして、余震の数もとにかく多かったんですよね。だから、また大きな地震が来るんじゃないかって不安で、眠れないって話している人がいっぱいいました。
「とにかく、不安な夜を、みんな一生懸命耐えています」ということを伝えようと決めました。
佐藤)
どんなことを意識していたんですか?
新井)
アナウンサーが台風や大雪の中継をする時は“注意喚起”がメインなんです。
どのぐらいの雨が降っていて、どのぐらいの風が吹いていて、危険です。だから外になるべく出ないで下さい、外に出る人は気をつけてください、という事実ベースで淡々と述べるのが基本的なアナウンサーの注意喚起の中継。
けど、熊本地震のあのときはそうではなくて、熊本で被災した皆さんの気持ちを“代弁する”中継だと思っていて。
自分も丸2日はまともに眠れていなかったので「安心して眠れる日が来てほしい」という願いを中継コメント案に込めました。ふだん、NHKのアナウンサーはあまり言わない中継原稿でした。
コメントが頭に入らない…
佐藤)
あの中継、私も見ましたが、不安な夜を一生懸命耐えている避難所の人たちの様子がストレートに伝わってきました。「過去一番つらかった」とは思えないくらい落ち着いているように見えましたが。
新井)
そんなことはなかったんです。当時は12年目でキャリア的に、普通はコメントが頭に入らなかったり、とんだりすることってないんです。
だけどリハーサルの時に、コメントが出てこなくって・・・。全国の人にちゃんと伝えないといけないし、でも寝てないし、家族のことも心配だし、余計に追い込まれちゃって。
本番30分前に、一人になって、待機している車に籠もって、必死にコメントを頭にいれた。
放送中に止まっちゃうんじゃないかって、ちょっと自分で思うくらい。 未だに見返してドキドキする、というか、バクバクする。過去一番、つらかった中継でした。
新井アナ中継 コメント全文
益城町にある総合体育館です。現在は、地元の住民およそ700人が避難をしています。
昨日は400人あまりだったんですが、きょう未明の地震によって、その数が倍近くに増えました。その結果、体育館の中ではおさまりきらずに、このようにロビーの地面に布団や毛布を敷いて、寝なくてはいけない状況です。
そしてこの施設では、昨日までは足りていた支援物資が不足しています。特に不足しているのが、食べ物です。昨日は、夕食として、弁当やパン、そして食後のフルーツなどが多くの人に配給されましたが、きょうはおにぎり2個と煮物だけでした。
こちら、そのおにぎりを求める人の列です。自衛隊が炊き出しをおこなったんですけれども、2個のおにぎりをもらうためにおよそ2時間待った人もいました。
そして、この時間は、避難している人、寝る準備を始めている人も大勢います。寝る前に使う歯ブラシ、そういったものも現在は不足をしています。
避難所で過ごす70代の女性に話を聞きますと、「おとといから夜間に大きな揺れが続いている為、夜、横になるのが怖い。早く、ぐっすり眠れる日が来てほしい」と話していました。
3日目の夜に入った避難所生活。多くの人が不安な夜を過ごす、益城町総合体育館からお伝えしました。(ここまで中継原稿)
後編へ続く
私もテレビで熊本地震の報道を見ていましたが、その時にはアナウンサーがどんな状況にあったのかなんて、全く想像していませんでした。
取材者であるアナウンサー自身が被災しながら、災害報道にあたる。今まで正面から考えたことがありませんでした。新井アナが「伝え手」として、「父」として、「一熊本県民」として、いろんな葛藤を抱えながら災害と向き合っていたことを初めて知り、災害報道の“正解”は簡単に見つけられるものではない、一つではないのかもしれないと感じました。
後編では、被災地の人々や子どもたちとの向き合い方を新井アナの日記と取材記録からひも解きます。【▼後編はコチラ】
新井隆太アナウンサー
1982年生まれ、2005年入局。熊本放送局には2012年7月~2016年7月に在籍し、熊本地震を取材。東京、仙台、高知、熊本で、長年、災害報道に携わる。現在は3回目の仙台局勤務。13歳、11歳、5歳の子どもの父親。
【取材 佐藤茉那/編集 岡谷宏基・杉本宙矢】