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“お父さんのブルーベリー畑” 亡き父の農園を継いで

  • 2024年02月29日

口いっぱいに広がる甘みと酸味。

父が作った、そんなブルーベリーが、子どものころから大好きでした。

父が亡くなったあと、ブルーベリーを守りたい一心で、受け継いだ農園。

でも、地震のあと、農園に行ってみると、畑は大きく崩落していて、いたるところがひび割れていました。

一方で、畑には無事に生き残ったブルーベリーの木もありました。

「思い出までが消えるわけではない」

その思いを胸に、前を向いていくことにしています。

変わり果てた“思い出の場所”

「畑の形が変わってしまったし、家族の思い出の場所でもあるので、崩れてしまった部分が大きくて寂しい思いもあります。でも、それよりも残ってくれたものがあったという安心感が大きいかな」

変わり果てたブルーベリー畑を前に、こう話すのは、農園の代表を務めるひら美由記みゆきさん(45)です。 

14年前に伐採作業中の事故で亡くなった父・純夫さんの農園を受け継ぎ、ブルーベリー栽培の知識もほとんどない中で、一から取り組んできました。 

ブルーベリーを加工したソース、お酢、カレー…。

少しずつ品数を増やして、2年前には観光農園もオープンしました。それは、農園を守りたい、おいしいブルーベリーを多くの人に届け続けたい。そんな思いからでした。 

ただ、1月1日に起きた能登半島地震。 

山にある畑は地面が大きく崩落して、ブルーベリーの木300本のうち100本近くが倒れました。

ブルーベリー摘みを体験してもらう畑は崩落こそしませんでしたが、至るところがひび割れていて、900本中100本の生育に影響が出る恐れがありました。 

何よりも、純夫さんから受け継いだ大切な畑が崩落してしまったことが、やりきれませんでした。 

大好きな父の、大好きなブルーベリー 

石川県能登町柳田地区で生まれ育った平さん。 

コメの生産量を調整するための政策を受けて、約40年前、多くの農家が、田んぼをブルーベリー畑にしました。 

ブルーベリーを町の特産品にしようと、120軒を超える農家が力をあわせて土壌改良などのノウハウを培ってきたといいます。 

そうした中、父の純夫さんは、祖父母とともに日当たりのよい畑に植えられたブルーベリーを大切に育ててきました。 

そんな純夫さんは、平さんにとって、小さなころから“ヒーロー”のような存在でした。 

父親の純夫さんと幼いころの平さん

水泳にバドミントン、ローラースケート、スキー…。なんでも体験させてくれて、自宅のお風呂で泳ぎ方を教えてくれたことも。 

「やりたいことは何でも言えよ」

純夫さんは、ことあるごとに口癖のように言ってくれました。 

だから、ブルーベリーを育てる父の背中を見ていた平さんが、作業を手伝うのは自然なことでした。

「畑に行けばお父さんがいる」

暇さえあれば畑に遊びに行って草むしり。夏には一緒に収穫も手伝いました。 

大きく完熟した、父のブルーベリーの実。 

食べると口いっぱいに甘みと酸味が広がりました。その味が、小さなころから大好きでした。 

突然訪れた父の死 

短大への進学を機に能登町を出て、その後も金沢市で働きふるさとを離れていた平さん。 

能登町出身の男性と結婚して、6年ぶりに地元に帰ってきました。 

当初はブルーベリー農園を継ぐことは考えていませんでしたが、2010年、純夫さんが伐採中の事故で亡くなりました。 

山で作業する純夫さん

しばらくは今後どうするべきか思い悩んでいた平さんですが、後押ししたのは、あのおいしいブルーベリーの味と、父が大切にしてきたこの農園を守りたいという思いでした。 

ただ、すべてが初めての経験だった平さん。 

山の中、喪失感からひとり泣きながら草をむしったこともありました。 

近所の農家の人たちに木の剪定、肥料のまき方などを教わるなどして、少しずつ管理の仕方を学び、ブルーベリーの木も徐々に増やしていきました。 

毎年、大きく実った実を収穫するときが、何物にも代えがたい喜びになっていきました。 

能登町のブルーベリーのおいしさを知ってもらいたい

ブルーベリーの種類も増やし、加工場を作って加工品も販売。県内の化粧品会社とともに、農家の女性6人のチームでハンドクリームの開発にも取り組みました。 

木から落ちた廃棄ベリーを活用して、染料も開発しました。 

農業の担い手の高齢化が進む柳田地区ですが、平さんはこうした取り組みを通じて「特産品のブルーベリーを守りたい」という思いを強めていきました。 

平さんが作ったブルーベリーを使った商品

そして、父が残した農園を守るだけでなく、次の世代に残していくために、ブルーベリーの魅力を広く伝えようと観光農園をオープンし、SNSなどを使ったPR活動に力を入れ始めた平さん。 

その矢先に起きたのが、能登半島地震でした。 

「何も考えられない状態」 

自宅は倒壊こそしなかったものの、壁は剥がれ、家の中のものは倒れてこれまで通り生活できる状態ではなくなりました。 

ブルーベリーソースを作る加工場も、屋根瓦が落ちて雨漏りし、衛生管理ができなくなりました。断水で水も使えずガスも使えなくなり、再開の見通しも全く立ちませんでした。 

ガスが使えなくなったコンロ

4人の子どもがいる平さんは、1日1日暮らしていくのが精いっぱい。目の前の生活以外、何も考えることのできない状態でした。 

地震が起きてから1週間近くたったある日。 

「ブルーベリーの在庫ないの?」 

取引先でもあり長年の友人でもある金沢のドーナツ店の代表、志賀嘉子さんからの連絡でした。 

平さんは、その時、自分がブルーベリーの栽培と加工品を販売する“事業者”だったことを思い出しました。 

心強い仲間たちとともに

平さんは、志賀さんからの申し出に応じて、手が回らなくなっていたオンラインショップの運営と、商品の発送も彼女にお願いすることにしました。 

志賀さんは、さらに冷凍庫の故障で保管が難しくなっていたブルーベリーの在庫を買い取り、ブルーベリードーナツとして販売してくれました。 

能登町のブルーベリーを届けたい。 

志賀さんからの連絡をきっかけにその思いを新たにした平さんは、農園経営を通じて出会った、金沢で農園を営む多田礼奈さんに連絡をして、加工の作業をお願いすることにしました。 

ブルーベリーの加工に取り組む志賀さん(中央)と多田さん(右)

多田さんは志賀さんやスタッフと一緒に、大きな鍋でブルーベリーソースを作って瓶に詰める作業を2月からスタートしています。 

「本来の自分たちの仕事もあるなかですぐに動いてくれて、本当に心強いし安心できています。被災して何も考えられなくなっていたところから、私を救い出してくれました。地震があっても能登町の特産としてブルーベリーを届けられるのは、仲間のみんなのおかげです」

新たな花芽 

地震の被害を免れたブルーベリーの木には、新たな花芽が付いていました。 

花芽は、ブルーベリーが実る前の“印”です。 

残った木も地震の影響で、今後、生育に影響が出るかもしれません。 

それでも平さんは、父から受け継いだ農園でブルーベリーを育て続け、ふるさとの復興につなげていきたいと考えています。 

「地震のあと初めて畑が崩落した場所を見たとき、お父さんのこと、家族の思い出がよみがえってきてつらかったです。でも今は、畑が崩れても、決して思い出まで消えるわけではないと思えるようになりました。地震があっても、残ってくれた木があることが、今はうれしいです。ブルーベリーを届けたい思いがこれまでより強くなっているので、能登町特産のブルーベリーを守っていきたいです」 

 

父・純夫さん、母親、妹たちと写る平さん(中央)

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  • 園山紗和

    金沢放送局・記者

    園山紗和

    2020年入局 遊軍担当
    能登半島地震を受けて、被災者・被災地の取材を続けている

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