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【被災地の声】金沢市 場崎博之さん 輪島市で暮らす父を亡くして「母親のそばにいってゆっくり休んで下さい」能登半島地震

  • 2024年02月01日

2024年1月1日に発生した、石川県能登半島地震。

1月30日までに石川県内で「災害関連死」の疑いを含め、238人の死亡が確認されています。

こうした状況の中で取材にこたえてくださった被災者の方たちがいます。

金沢市に住む場崎博之さんの声です。

“昭和の頑固おやじ”

話を聞かせてくれたのは、金沢市に住む場崎博之ばさき ひろゆきさんです。

父親の場崎鷹峰ようほうさん(90)は、輪島市内で1人で暮らしていました。

地震で父親を亡くした場崎博之さん

輪島で生まれ育った父・鷹峰さん。

若い頃から左官業をしていました。

博之さん
「昔から職人だったんですけど、ほんとに頑固で、厳しくて、よくけんかもしました。90になって60の息子とけんかするほどで、“昭和の頑固おやじ”でしたね。私も気が短いと言われますが、やっぱり親子ですかね」

仕事を引退してからは、自分たちが食べる分の田んぼをつくり、毎年秋にお米を収穫することが喜びだったといいます。

お風呂に、お酒、旅行好き。

年1回は家族で温泉旅行にも行きました。

父・鷹峰さん ビールが好きだったという

年を重ねると、重労働もこたえるようになり、田んぼもやめて家にいることが多くなりました。

去年、妻が亡くなって独り暮らしに。

週2回デイサービスに通うほか、長男の博之さんが週に1回くらい様子を見に帰っていたといいます。

「父親も輪島の実家がほんと好きで、金沢にも遊びに来たことがありますけれど、やっぱり家の方がいいって言って高齢ですけど、一人暮らししてたんです。やっぱり輪島で育った父親ですから、そこから離れたくないという気持ちがあったんじゃないかなと思います」

最後だなんて思わず…

去年の12月29日。

博之さんは実家に泊まり、父・鷹峰さんと近くの温泉に入りに行って一緒に夜ごはんを食べました。

「父親はお風呂が好きなので一緒に風呂入って、私が鍋作りまして、いつもあたたかいもの、鍋とか食べるんですけど、そのときは食欲がないって言って食べなかったのは覚えています。そのときは最後だなんて思っていないです。いまから思えば、もうちょっと何かしてあげたかったなと」

年が明けた元日、博之さんは金沢市で用事があり、実家に帰ることはできていませんでした。

地震が起きたのはそんな時でした。

父親に連絡するも、通じません。

夜明けを待って金沢を出て輪島を目指しますが、道路が通れません。

途中で迂回したものの、その先は通行止め。

やむなく金沢に引き返しました。

心配でしたが、実家の近所の人から「鷹峰さんは避難所にいるという情報がある」と聞いて、安心していました。

しかし、翌3日の朝、近所の同級生から連絡が。

「お父さんが、玄関先で倒れていた」

固く握られた右手

博之さんはすぐに輪島に向かいました。

やはり道路状況は悪く、到着できたのは午後5時頃、およそ12時間もかかりました。

集落はひどい被害を受けていました。

実家もぐちゃぐちゃでした。

ガラスが散乱。

タンスや冷蔵庫がひっくりかえり、電気も通じていませんでした。

父・鷹峰さんが倒れていたのは、その玄関先だったといいます。

実家の玄関先

「玄関で倒れていたので、少しでも逃げようとしたのかなと思います」

ようやく対面したのは車庫でのことでした。

ブルーシートを敷いて、仮設の安置所になっていたといいます。

「顔を確認しました。足をけがしていたみたいですけれど、そのほかは普通で。手を握りしめていたのが印象に残っています。右手を握ったままで固く握っていました。寒くてずっと、本当寒かったんやろうなと。いま思えば、かわいそうなことをしたなと思います。電気も通っていない状況で、暗くて、しばらくの時間でしたけれど」

警察の検視の結果、鷹峰さんは「低体温症」と確認されたということです。

母のそばで

「2日になんとしても輪島に行っていれば、もうちょっと違った状況になっていたのかなと…」

情報が錯綜した地震直後。

博之さんは“心残り”を口にします。

亡くなったあとで、父・鷹峰さんのことを色々と思い出すといいます。

孫やひ孫が実家に遊びに行くと「ようきたな」とかわいがっていたこと。

6月の最初の土曜日は輪島で花火大会があって、一緒に晩ごはんを食べたこと。

「“親孝行したいとき親はいない”ってよく言いますけど、本当にそのとおりです。亡くなって初めて、ああしてあげればよかったなと、自分の身になって考えて見ればそう思います。なるべく実家帰って顔見せるだけで良いんですね」

発災から10日後。鷹峰さんの火葬を行いました。

博之さんは、今も抱えたままのやるせない気持ちを話してくれました。

「どこにも怒りをぶつけられないんですけれど、被害を受けた方は一様にそのような気持ちを持っていると思いますよ。去年ちょうど母親が亡くなりまして、お墓に骨を入れてそれから数か月だったので、母親のそばにいたかったんかなと思います。そういうことで、心の整理をつけている状況です。母親のそばにいってゆっくり休んで下さいと、それしか今は言えないです」

 

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