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【全線開通】南阿蘇鉄道の旅 立野駅から未来へ

  • 2023年08月02日

熊本地震で被災し、長いあいだ一部の区間で不通となっていた南阿蘇鉄道は、7月15日、7年3か月ぶりに全線で運転を再開しました。
これまで沿線の駅を一駅ずつめぐり、シリーズで、地域の人たちの思いや鉄道・沿線の魅力をお届けしてきました。
今回は最終回。「立野駅」です。

阿蘇の玄関口

阿蘇山、草原、綺麗な水。
雄大な自然を誇る「阿蘇」の玄関口が、ここ、立野です。

“健磐龍命”という神様が、当時、湖だった阿蘇で田畑をつくろうと、水を外に流すためにぐるっと1周していた外輪山を蹴破った場所だとされています。そのときに尻もちをついた神様が「立てぬ」といったことから、ここは「立野」という地名になりました。

もちろん神話の話ではありますが、阿蘇カルデラをぐるっと囲う外輪山の切れ目が、立野。道路も、鉄道も、ここを通って阿蘇に行きます。
だからこそ、この立野が被災して途切れてしまうと、とたんに交通の便が不便になってしまうのです。
熊本地震では、国道とJR、そして南阿蘇鉄道、すべてが被災し、長いあいだ阿蘇と熊本市方面との行き来が大変な時期が続いていました。

国道とJR、そして立野と南阿蘇地域を結ぶ「新阿蘇大橋」は2020年に開通し、阿蘇と熊本市方面を結ぶ道路と鉄道、そして南阿蘇も、道路では結ばれました。
そして南阿蘇と熊本市方面とを結ぶ、南阿蘇鉄道が残されました。

立野の人たちは、南阿蘇鉄道の全線開通を、心待ちにしていました。
熊本地震では、土砂崩れなどで地区に住む人の尊い命が奪われました。多くの人が避難生活を余儀なくされ、隣町や仮設住宅での生活を経験しました。
鉄道が繋がらないと通学ができなくなることもあり、戻ってこられない人も多くいて、いま、立野に住む人は地震前のおよそ6割程度です。

「ほんとうに元通りになるのだろうか」
地元の人たちは、不安に思ったこともあったといいます。
それでも、支援してくれる人たちと手をとりながら、一歩一歩、前に進んでいった。そう話してくれたのは、新所地区の前の区長、山内博史さんです。

山内博史さん

「未来を想像していままで頑張ってきたと思う。1番大事なのはここに住んでいる人たちが、どれだけ将来を見据えて、何をしたらいいかを考えながら想像することだと思います。力を抜くことなく、いろんな経験をして厳しい時期を通ってきたんですけど、ひとつの糧にして、特にこれからもっと頑張っていかなくてはならないと思っていますし、亡くなられた方のことは、もちろん無にしてはならない。それを力に変えて、そのことを証明していくのが、役割でもあり、使命でもある」

地震の記憶、経験したことを、「いろいろな形で後世に伝える必要がある」と山内さんは話します。
インフラが、南阿蘇鉄道が復旧したいま、地震の記憶と鉄道とを忘れられないように結びつけて考えること。一緒に語り継いで、“未来へ開けていく形にしたい”と話してくれました。

未来を担うのは

朝7時の立野駅

JRが復旧してからの3年のあいだ、立野駅を一番多く利用していたのは、南阿蘇に住む中高生たちでした。毎朝7時ごろ、バスに乗って訪れ、JRに乗り継ぐ。高森駅からだと40分から50分ほどかかるそうです。それが、南阿蘇鉄道が開通したいま、30分弱に短縮。「朝の時間ができる」「ゆっくり寝られる」と、話してくれました。

立野の、南阿蘇の未来を担うのは、こうした子どもたちです。雄大な自然のなかを揺られて毎日通学した子達は、卒業後、何を思うのでしょうか。

丸野隆大さん

南阿蘇鉄道を使って通学していた、立野の“わかもの世代”のひとり、丸野隆大さん(31)は、「中学生のころ、通学に使っていたときは気づかなかったんですけど、白川橋梁の景色を見ることができていた贅沢な通学路だったなって。子どもたちが使うことで、いままで知らなかったこと、阿蘇ってきれいなんだなって贅沢な通学路を実感してもらうと嬉しい」と話してくれました。

丸野さんたちは「立野わかもん会」という地元の若手の団体で、立野を盛り上げようとイベントを行っています。その交通手段に鉄道が増える。それが嬉しいといいます。
出て行ってしまった人がまた、列車を使って戻ってきてくれたら。そんな期待も込められています。

南阿蘇鉄道の未来のはなし

最後に、恒例のむかしばなしのコーナーをつかって、未来の話をします。
これまでこのコーナーでは、南阿蘇鉄道がいかに地元に根付き、愛されてきた鉄道であるかを理解するために、この鉄道や南阿蘇村・高森町(=通称「南郷谷」)にまつわる歴史をひもといてきました。その歴史と、これから先の未来とを、筆者の取材実感にもとづき、繋いでみようと思います。

昭和3年に「高森線」が開業

最初に書いたのは、南阿蘇鉄道の前身、「高森線」ができた経緯と、昭和の終わりに廃線の危機に直面したとき、第三セクターとして存続することができた理由についてでした。(こちらの記事)いずれも、地元、南郷谷の人々の熱意によるものです。

今回も地元の人たちは同じように強く待ち望んでいて、全線開通した当日も、沿線では旗や自作の横断幕をかかげた人たちがたくさん列車を迎えていました。

思い出に刻む1ページ

沿線にいた人たちによく聞いてみれば、車社会となったいま、ほとんど列車を使っていないのだといいます。子どもや孫が通学で使うけれども、大人になってからはほとんど車移動。免許返納したら買い物や通院に使いたいけれど・・・。それでも、地元の人たちにとって、南阿蘇鉄道は「あって当たり前」として、その存在が心にすり込まれているようでした。

汽笛や踏切の音は“時計代わり”、田んぼ作業をしてはっと顔をあげると、さっそうと通る列車。列車のある風景は、南阿蘇のシンボルなのだそうです。

それは、地元の人たちにとって、南阿蘇鉄道が「青春の1ページ」となっているからのような気がします。中学や高校に通ったとき、田んぼで手伝いをしたとき、沿線の空き地で遊んだとき。
思い出のひとつひとつに、南阿蘇鉄道があるのです。

全線開通後、最初の平日。列車で初めて通学する中高生を乗せた南阿蘇鉄道の運転士、濱川秀斗さんは、こう話してくれました。

運転士 濱川秀斗さん

「ついに、通勤通学のためのお客さまが乗ってきて、日常が戻ってきたと思い、とても感慨深いです。列車の通学も、学生にとっては青春の思い出になると思うので、学生の今後の未来や希望を運べる運転士を目指したい」(※新人運転士の濱川さんも、南阿蘇鉄道の未来を担う一人です)

いま、南阿蘇鉄道を使って通学する子どもたちが、大人になるまでその青春の1ページをとっておいて、きっとこの先も地元に必要なものとして、大切にする。そんな未来が、きっとあるのだと思います。

観光列車として

南阿蘇鉄道と、観光の話もしました。(こちらの記事)登山や温泉に行く客が、この鉄道を使っていたのです。
さすがにこの先の未来、登山や温泉利用の客がたくさん南阿蘇鉄道を利用する、というのは無理があるかもしれません。しかし、南阿蘇鉄道自体が、いまでは立派な観光資源です。

特にトロッコ列車は何度乗っても飽きません。取材で数え切れないほど往復した筆者が、太鼓判を押します。

その日の車掌でアナウンスは違いますし、同じ車掌でも季節や、その日のテンションに応じて内容が少し違ったりもします。

20代前半の若手から、60代後半のベテランまで、話す人が違えば、聞こえ方も違う。誰がいつ乗務するかはわかりませんから、通い詰めてコンプリートしてみても面白いかもしれません。

南阿蘇鉄道を目的に訪れる観光客が、そこから南阿蘇地域の観光地に足を伸ばす。そんな周遊ルートが確立されるはずです。

いつまでも変わらない風景を

「高森線鉄道唱歌」の話もしました(こちらの記事)。昭和3年の開業のときに、喜んだ地元の人たちが、当時の流行歌「鉄道唱歌」の替え歌を30番までつくったという話です。そのなかにこうした歌詞たちがあります。

「いざ乗り込まん立野駅、日本一の高架橋、白川鉄橋すぐなるぞ、深き谷合心して」

「蘇山の展望雄大に、大矢の勝景変化あり、車窓に望む心地よさ、やがて又来る一と駅は」

「菜の花連く広原を、よぎる眺めも一入に、汽笛一声我が汽車は、高森駅に着きにけり」

いまでも立野駅から出発すると、「第一白川橋梁」から見る雄大な渓谷の風景は美しいですし、車窓から見る阿蘇山の眺めは雄大で、田園風景が次からつぎへと移り変わるようすは絶景です。特に、高森町手前の「見晴台駅」周辺から見る景色はすばらしく、春には菜の花など、様々な花が咲くようすが堪能できます。

もちろん時代とともに移り変わり、変わりゆく風景もあります。しかし、南阿蘇の人たちの愛するこの自然と鉄道は、この先もずっと、変わらず残る。そんな気がします。そのために力を注ぐ人たちが、それを愛する人たちがこの場所にいるのなら。同じ未来を想像するのなら、これまで守られてきたものが、未来へとつながっていくことでしょう。

長いトンネルを抜け、未来へと

おわりに

ここまで全10回のシリーズ、ご乗車いただき、ありがとうございました。これで、終点です。
「南阿蘇鉄道全線再開までに全部の駅に行くんだ」と、半分見切り発車でシリーズを始めて4か月。
各駅で出会う地元の人たちの南阿蘇鉄道を思う気持ちや、その人ならではのエピソードが一つ一つ積み上がっていくのが面白く、無事、高森駅から立野駅まで、すべての駅からお届けすることができました。
ルールは「歩いて行ける距離まで歩く」「最後に“あなたにとって南阿蘇鉄道とは”という質問をする」の2つで、撮影も含め1人で取材を進めました。この間、1度も取材を断られることはなく、南阿蘇の人たちのあたたかさと、南阿蘇鉄道への強い思いに助けられたシリーズでした。

そうした取材を経て、全線開通の当日に車内から、沿線から、多くの人の笑顔が見られたとき、思わずこちらも感極まってしまいました。この先もずっと、笑顔のあふれる場所であればいいなと、そしてその中心が南阿蘇鉄道であればいいなと、いち南阿蘇鉄道ファンとしてもそう感じました。

筆者は転勤で、この取材を最後に、阿蘇を離れます。しかし、私の心の中にも、南阿蘇鉄道は大切な思い出として、そして、帰ってきたい場所として、この先の未来も、鮮明に在り続けると思います。

左:内川聖司運転士 右:筆者
  • 北条与絵

    記者

    北条与絵

    2019年入局
    熊本初任地
    阿蘇支局を2年間担当。阿蘇の大自然を駆け回るのが大好き。

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