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【南阿蘇鉄道】中松駅の守り人

シリーズ南阿蘇鉄道ー中松駅編ー
  • 2023年06月14日

ことし7月に、熊本地震からの復旧を果たし全線で運転を再開する予定の南阿蘇鉄道。
鉄道の魅力や沿線地域の人たちの思いに迫るシリーズ、今回は「中松駅」を訪れました。
(過去の放送もご覧ください)
第1回「トロッコ列車の旅」
第2回「高森駅」
第3回「見晴台駅・南阿蘇白川水源駅」
第4回「阿蘇白川駅」

部分運転中の折り返し駅

中松駅は、熊本地震後の7年間、折り返し駅として活躍してきました。

唯一の複線駅でありながら、1日に3本の列車は1番ホームに入線。そのほとんどは観光客でした。
中松駅から別の交通手段は1時間に1本のバスのみですから、乗客のほとんどは高森駅まで折り返していきます。

停車時間は10分程度。乗ってきた列車と写真撮影をし、車内に戻ります。
トロッコ列車の運行する週末は、駅舎カフェ「ひみつ基地ゴン」がオープン。

停車時間だけ、店の外でカフェメニューを提供。
乗客は、その短い時間で購入して折り返し、南郷谷の、半分の旅を楽しみます。

これが今までの中松駅の風景でした。

ことし4月、その風景が少しだけ変わりました。立野駅方面への試運転がはじまり、2番ホームに列車が入線するようになったのです。
乗客は、2番ホームで降りて、1番ホームに止まる列車に乗り換える。2つの列車が、同時に停車するようになりました。

トロッコ列車と新型のディーゼル車が同時にホームに止まる光景も、見られるようになりました。

全線開通まで、あとわずか。

中松駅に訪れるたびに、そう感じます。

ひみつ基地がある駅

この駅を守り続けてきたのは、「ひみつ基地ゴン」の店主、髙嶋千恵さんです。
髙嶋さんが中松駅で店をオープンしようと、村の公募に名乗りを上げたのは2016年4月。その合格通知が来たのが、4月15日でした。

日がかわってすぐの深夜、熊本地震の本震が村を襲いました。さいわい、駅舎への被害はありません。髙島さんは店を始めることで、駅を守ろうと思ったそうです。

「ひみつ基地ゴン」髙嶋千恵さん

「この駅を預かったときに、駅って学校や公園よりもだれが来てもいい、パブリックなところだとおもったんです。だから震災後、駅の壁にいろんな支援の情報をはったりして、繋がれられる場所にしようと思いました。どうしても最初の1~2年はインフラが壊れたままだったので、なんとかして外の様子をつたえなきゃなと、遠回りしても来てくれる駅、鉄道ということで情報をだしていました」

若手運転士たちがここで休憩する姿もありました

お店のコンセプトは、「ひみつ基地」。
“戦隊もの”オタクの髙島さんがあつめたおもちゃやマンガなどは子どもたちに人気。大人は昼間から“オタク語り”をしたいと県内外から集まるそうです。

まさに、こどもからおとなまで集うことができる秘密基地のような場所です。

いまのメイン客層は大人と親子ですが、髙島さんは全線開通後、ここに列車を利用する高校生が加わることを期待しています。

(「ひみつ基地ゴン」 髙嶋千恵さん)

「南阿蘇は子どもが遊べるところが少ないんです。土日にお母さんたちがここに子どもをあずけて、お仕事いってきますとできる場所になるといいなとおもうし、中高生、特に高森高校とか大津高校に列車を使って通う子たちが、帰り道に寄るたまり場にしてほしいなって。ちょっと息抜きというか、学校の帰り道でこっそりお茶飲んで帰るとか、そういう遊び方をして欲しいです」

髙島さんは、全線開通後も変わらず、「秘密基地でありたい」といいます。
南阿蘇鉄道は、人と人、人と阿蘇をつなぐ鉄道。“つなぐ役割”を担う一員としてこれからも駅を守っていこうとしています。

南阿蘇鉄道のむかしばなし

さて、ここからは恒例の、むかしばなしのコーナーです。
南阿蘇鉄道がいかに地元に根付き、愛されてきた鉄道であるかを理解するために、この鉄道や南阿蘇村・高森町(=通称「南郷谷」)にまつわる歴史をひもといていきます。

今回、動画でも中松駅に由来する歴史の話を紹介しました。その「空襲」と「貨物列車」の話を詳しくします。
すべて南阿蘇鉄道になる前の話なので、ここからは「高森線」とよびますね。

「戦争」と高森線

それは、太平洋戦争末期の昭和20年の、草原が青々と茂る、新緑の季節のことでした。戦況が激化するなか、すでに3月ごろから、農村であるこの村(当時は白水村)にもB29が飛来し、空襲警報が昼夜鳴り響くようになっていました。

そんな、5月13日。朝の7時半ごろのことでした。いつもどおり、通学の学生も乗せた黒い蒸気機関車が中松駅に入線。そこに向かって、米軍の戦闘機が急降下し、汽車が銃撃されました。これによって、32歳の母親と1歳の息子の尊い命が奪われました。

この時の弾痕は、中松駅の1番線ホームにいまでも残っていて、この歴史を後世に伝えようと、中松駅には2か所に説明看板が設置されています。

さて、戦争と高森線というところで言うと(もちろんほかの鉄道もおなじだったと思いますが)、各駅は「出征」の場でもありました。

鉄道とは、大量輸送を可能にし、物資や人員を素早く送ることができるもので、近代化を大きく加速させました。

これは、「戦争」の面でも同じでした。郷土資料をもとに村の歴史がまとめられた「長陽村誌」によると、駅のホームは戦地へ向かう若者を送り出し、戦死者の遺骨を迎える場ともなっていたそうです。

貨物列車が大活躍

観光客でいっぱいの現在。通勤・通学の地元の人たちであふれていた熊本地震前。そして戦時中。駅には時代によって、様々な顔がありました。

鉄道で運ばれていたのは、なにも人間だけではありません。昭和59年まで、高森線では貨物列車が走っていました。運ばれていた農作物は、地元の人たちが畑やたんぼから収穫したあと、農業倉庫にいったん保管されていました。

中松駅の隣にも、農業倉庫があり、貨物の輸送拠点でもありました。この倉庫はいまでも使用されているそうです。

農作物のほかにも、木材、杉皮、竹、葉たばこ、茶。生活必需品や日用雑貨、それに牛馬などの家畜も輸送されていたそうです。

昭和28年6月26日、熊本の白川沿いを襲った大水害のあとの復旧工事でも、大活躍したそうです。
地区の区長を務める渡邊由孝さん(75)は、当時をこう振り返ります。

渡邊由孝 区長

「小さいころはね、材木倉庫、今倉庫があるところが広場になっててな、貨車が降りていて、また汽車がこうきたらそのままこう引っ張っておろしてた。昭和28年に、水害があって。その後に復旧工事のセメントはみな貨車で来てたから。あんころどっから来とったかしらんばってん、貨車につんで相当きてた。それを建設業が持って行って復旧工事してた。あんころは、もういうなら南阿蘇鉄道(高森線)が相当活躍してる」

中松駅が見える場所で、生まれ育ってきた渡邊さん。貨物や通学、観光の人たちであふれかえってにぎやかだったかつての駅も。
車が発達し、利用者が少なくなって「高森線」が廃止になりかけたことも。
存続した南阿蘇鉄道が熊本地震で大きく被災してからの7年間も。

すべて知ったうえで、「鉄道があるっちゅうとね、感触がぜんぜんちがう。線路が通ってるっていうのは南阿蘇や村民のシンボルかな」と笑って話してくれました。

全線開通によって、新たな歴史がはじまる南阿蘇鉄道。
これからどんな顔を見せてくれるのでしょうか。

番組では、みなさんの南阿蘇鉄道への熱い思いや、鉄道にまつわるエピソードを募集しています。旧国鉄時代の思い出でも構いません。(むかしばなしシリーズで知りたいこと・取り上げて欲しいことなども大歓迎です!)自由にお寄せください。お待ちしています!
投稿フォームはこちらから↓
https://forms.nhk.or.jp/q/V97ZMAES

  • 北条与絵

    阿蘇支局・記者

    北条与絵

    平成31年入局
    熊本初任地
    熊本市政担当後、阿蘇支局2年目。阿蘇の大自然を駆け回るのが大好き。

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