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静岡市清水区出身 落語家・春風亭百栄さんインタビュー(1)

ラジオ「真打ち競演」公開収録(島田市)に登場! 落語家になるまでの道のりを語る! 【前編】
  • 2024年04月23日

3月9日(土)に島田市民総合施設プラザおおるりで、ラジオ第1の演芸番組「真打ち競演」の公開収録が行われました。
出演者の最後に落語を披露したのは、静岡市清水区(旧清水市)興津生まれの春風亭百栄(ももえ)さん。高校卒業までを静岡で過ごしたあと、アメリカ・ロサンゼルスですし職人として働き、入門したのは32歳という異色の経歴の持ち主です。
百栄さんに、子どものころの思い出や落語家になるまでの道のりをうかがいました!【取材:NHK静岡 後藤康之アナウンサー】

ふるさと・静岡県で落語を披露!

ーーふるさと・静岡県での「真打ち共演」の公開収録ですが、いかがですか?
(百栄さん)
静岡でトリを取らせていただける、これがまず嬉しいですね。地元ですからね。やっぱりテンションっていいましょうか、それがひとつ上がる、みたいな感じがします。

ーーきょうおじゃましている島田市にまつわる思い出はありますか?
(百栄さん)
子どものころから「お笑い」が好きだったんですね。中学生のころには(二代目)古今亭圓菊師匠(静岡県島田市出身)がいらっしゃって、とても魅力的な方で。そのころから「この人は島田の人なんだ」っていうことで、島田といえばそういうイメージ、印象がありましたね。
あと、野球が好きなんですね。昔の記録を見ると、静岡県でしたら静岡高校や静岡商業がとても強いんですけど、島田商業もすごく強いんですよ。古豪ですよね。だからやっぱり島田はどうしても気になるところでして。

ーー「静岡」と聞くと、ピンと反応してしまうようなところもあるんですね?
(百栄さん)
ありますね。東京に住んでもうずいぶん経つんですけれども、年を取ってきてまたどんどん好きになってくるんですよ。自分の田舎が。
若いころは「東京に出たい」とか「もっと違うところに行きたい」とか、そういうのがあるんですけど、年を取ってくるとやっぱり「帰巣本能」ですか…虫みたいですけども…そう思うんですよね。だから最近はしょっちゅう静岡に帰ってきています。

落語家を目指すきっかけは「松元くん」

ーー時系列にうかがっていきますが、子どものころから落語がお好きだったんですか?
(百栄さん)
僕はそんな落語が特別ってわけじゃないんですけど、お笑いが好きだったんですね。たとえばクラスでスポーツができる子、頭のいい子とかいっぱいいるんですけれども、その中で、自分が目立つには「面白さ」で頑張ろうかなっていうのもありましたから。だから「お笑い」っていうジャンルで大好きでしたね。

子どものころの百栄さん①自宅の前庭で
子どものころの百栄さん②自宅裏のミカン畑で

ーー特に落語が好きになったきっかけはあるんですか?
(百栄さん)
中学校3年生になったときに、松元くんっていう友達ができたんですね。あるとき呼ばれたんですよ、松元くんに。お掃除の時間ですかね、給食を食べ終わったあとに。
「どうしたの?」って聞いたら、そこで彼が三遊亭圓生師匠のテープを聞いて覚えたという「寝床」という話があるんですけど、あれを語り始めたんですよ。それを聞いて驚いて。それまでも友達で親しかったんですけど、それからいよいよ2人で落語の方に完全にベクトルが向いて、それから2人でだいぶいろんな落語会に行きましたね。
そのころ特に静岡のあたりはどういうわけか、落語の寄席と言いますか、落語会が大変に多かったんですよ。しかもすごいメンバーが来るんです。それこそ古今亭志ん朝、立川談志、桂米朝とか。そういう方が「清水寄席」っていうところに来てくれたりしましたので、もう2人で一生懸命通って、どんどん落語にのめりこんでいって。
テープなんかNHKさんには本当にお世話になって、ラジカセで(落語の放送を)録音して。僕も(テープは)100本以上ありましたし、松元くんも200本くらい持っていました。その当時から。

カセットテープに録音する動きを再現
録音ボタンと再生ボタンを同時に押す必要がありました

「俺は落語家になる!」…でもアメリカへ…

ーーそのころからもう落語家になりたいという風には思っていたんですか?
(百栄さん)
なりたいっていう気持ちはあったんですよ。そうでしたね。

ーーでも、アメリカに行かれたんですよね?
(百栄さん)
そうなんです。「落語家になんかなれないだろう」とか「落語家になるなんて親が認めてくれるわけないしな」とか、そういう気持ちがあったりとかして。このタイミングで就職して落ち着いてしまったら二度と落語の道に進むことはできないだろうし、なんとなく自分の「退路」って言いましょうか、それを消していく、みたいな作業のひとつですかね、アメリカに行ったのは。そんな感じがするんですよ。

ーーすし職人として修業されたのはどれくらいの期間だったんですか?
(百栄さん)
修行というか本当に働いていたんですけど、普通にすし職人として。もうほとんど自分一人ですしバーを任されたりしておりましたので、修業中といえば修行中なんですけれども。全部で9年間くらいアメリカにいたんですけど、そのうちの5年以上はすし屋でやってましたね。

ーーアメリカですし職人として生きる道はなかったんですか?
(百栄さん)
いや、たしかに、向こうに行ってすし屋をやっているのもすごくおもしろかったです。僕もアメリカが気に入っちゃって、ためしにグリーンカード、いわゆる永住権の申請をしたら、4年後ですかね、ちゃんと取れましたし。

アメリカのすし店で働いていたころ

師匠との運命的な出会い…32歳でついに入門!

そんなある日、のちに「師匠」となる人との運命的な出会いがありました。
落語家・春風亭栄枝(えいし)さんが、たまたま百栄さんの店を訪れたのです。

百栄さんの師匠・春風亭栄枝さん(1938~2022)
(画像提供:落語協会)

(百栄さん)
…師匠が目の前に来た時には驚きましたね。ただすしバーで働いていたら、面白いことを言うおじさんだったのでね。「おじさん面白いですね、何やってる人なんですか?」「私、落語家でね」って。「落語家?僕大好きですよ。お名前なんていうんですか?」「私はね、春風亭栄枝といいます」「春風亭栄枝さんですか。…聞いた事ねえな…」と思って。

ーー(録りためていた落語の)テープの中にもなかったんですか?
(百栄さん)
私のテープの中になかったんですよ。結局そのあと、僕は日本に帰ってきて栄枝師匠を頼って落語家になるんですけど、よくよく考えてみたら「この人の落語まだ聞いてなかったわ…」って思って。聞いてないうちに弟子入りしちゃったっていうね。(笑)

弟子入りをするときに、師匠の栄枝は「自分の弟子になるのはあまり勧めないよ、俺はそんなに仕事も沢山あるわけじゃないし、まあそこそこ自分が食っていける分はあるけれども君に仕事をやれるわけじゃないし、どこか他にいい師匠のところに行ったらいいんじゃない?」っていう風に言われたんです。それで「誰のところに本当は行きたいんだ?」って言われたので、そのときに言ったのが、実は島田には本当に縁がありますけども、(二代目)古今亭圓菊師匠なんですよ。「圓菊師匠に弟子入りしたいんですけど…」って言ったら「じゃあ俺が口きいてやるよ」って、うちの師匠から圓菊師匠に言ってくれたんですけども、圓菊師匠もちょうどほかの弟子を取るタイミングだったんですね。私と同時期にお願いに行ったらしくて、それで結局「彼が来てるから君はちょっと取れない」なんていうことで断られちゃったんですけど。
もしかしたら僕は本当に圓菊師匠の弟子になってたかもしれませんね、そのときに上手くいっていれば…。(笑)

こうして32歳の時に入門し、落語家への道を歩みはじめた百栄さん。
修行を重ね、1995年に二つ目、2008年に真打ちに昇進しました。

百栄さんが手がける「新作落語」についての深い話や「ふるさと・静岡県」への思いは【後編】の記事でご紹介します!

→【後編】へはこちらから!

百栄さんの真打ち昇進披露興行で(2008年)
落語協会のまつりで(2018年)
  • 後藤康之

    静岡放送局 アナウンサー

    後藤康之

    声優志望からアナウンサーに。「NHKニュース たっぷり静岡」キャスター3年目。休日は自宅でアニメを見るか落語を聞きに寄席に行くかの2択。

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