【キャスター津田より】10月31日放送「福島県 川内村・田村市」

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 今回は、福島県の内陸にある2つの自治体です。はじめに、田村(たむら)市です。人口は約35000で、市の東部にある福島第一原発に近い都路町(みやこじまち)では、原発事故の直後、市の判断で全世帯(約3000世帯)が避難しました。その後すぐ、都路町の東部(原発から20㎞圏内)に限って国から正式に避難指示が出され、事故の3年後(2014年4月)に解除されています。一度は全員が避難した都路町ですが、現在、9割の人は実際に都路町の中で暮らしています。沿岸部の自治体より数年も早く、県内で一番はじめに避難指示が解除された影響がよく現れています。

 

 まず、避難指示が出されなかった船引町(ふねひきまち)の公園へ行き、ロープ1本で木に登る“ツリークライミング”の体験会におじゃましました。

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事前に放射線量を確認して行われ、子どもたちが歓声をあげて挑戦していました。教えていたのは林業を営む50代の男性で、スペシャリストとして国際資格も持っています。元は司法関係の公務員でしたが、原発事故で考えが大きく変わり、7年前、林業をするため岩手県から田村市へ移住しました。

 「50年、100年のスパンで、過去から受け継いだものを未来に渡す、長い歴史の中で生きていくのが林業で、今がよければいいという経済第一主義の反対にあるのが林業だと思いました。震災後、放射線量が高くてみんな山から遠ざかるようになっちゃったんですけど、そうじゃない所もたくさんあるので、そういう中で木とか自然という命に身を預けて、自分の体力を使って癒やされてほしいです。10年経って、本当の意味で復興が始まると思います。人や自然が共生できる社会になっていければと思います」

 次に、避難指示の対象になった都路町に向かいました。

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山あいの合子(ごうし)地区では、7年前に取材した70代の農家の男性を再び訪ねました。当時は避難指示が継続中で、日中だけ出入りが許可されていました。男性は避難先から通いながら、自力で家の修理をしていました。

 「帰って来たいのは帰って来たいんです。でも、帰ったらここで生計を立てなきゃならない…。ただ単に帰りたい人がいるから早く解除するんじゃなくて、慎重な意見も取り入れてほしいと思いますね」

 あれから7年…。男性は自宅に戻り、現在は妻と2人で暮らしています。4年前には除染を終えた田んぼで稲作を再開しました。

 「ここの集落で帰って来たのは約9割ですか…。ほとんどの人はもう戻ってきていますね。ただ20戸くらいあるんですが、実際いま農業をやっている人は3~4人だけなんですよ。あとはもう、離農しちゃってね。我々としては“完全に収束”という状態には、まだなっていない…。いま騒いでいる処理水問題、海洋放出をやられちゃうと、また風評被害が出てくるし。我々は海に関係がないけども、風評被害は関係のないところまで被害が及ぶので、その辺はちょっと慎重に考えてもらいたいと思います」

 福島第一原発で出る、放射性物質の除去装置を通した処理水について、国は海洋放出に舵を切ろうとしています。県漁協は断固反対、一度風評が起きれば、フクシマという音の響きで全てひとくくりにされる怖さも、この10年、県民全体が経験しています。例えば会津地方の観光は、海から100㎞以上離れていても、打撃を受け続けてきました。処理水の問題、廃炉と、真の意味での平穏はまだ先です。

 その後、同じく都路町の南(みなみ)地区に行き、16年前に神奈川県から移住してきた夫婦を訪ねました。70代のご主人によれば、定年後、田舎暮らしに憧れ、山も含めた5000平米の土地を購入して家を建てました。ペット飼育のアドバイスを行う資格を取得し、広い敷地内で斜面も活用したドックラン(犬の運動施設)を始める予定でしたが、突然、避難を余儀なくされました。

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長野や栃木に3年ほど避難して帰還し、現在は、高齢者が体操やお茶会などを楽しむ健康サロンを主宰しています。

 「年齢も重ねて少し余裕ができたら、田舎でゆっくりしたいというつもりで来たんですけど、ゆっくりするどころの話ではなくて…。本当はドックランをやりたかったですよ。でも、今となっては私も高齢ですから体力がないので、代わりに犬を飼う人の悩み相談とかをやって、動物を飼う人のコミュニティーを作っていこうかなと思っています。こういう狭い地域なので、みんなが元気で楽しく、お互いの助け合いのため、自分もずっと協力していきたいと考えております」

 

 続いて、川内村(かわうちむら)の声です。川内村は、人口およそ2500、原発事故後は村の判断で、全住民が村外に避難しました。その後、村の東部に国から避難指示が出ましたが、田村市と同じく震災の3年後(2014年10月)に大部分の避難指示が解除され、2016年には完全に解除されました。現在の人口のうち、村内で生活する人は8割を超えています。

 まず、村の農産物直売所“あれ・これ市場”に行き、原発事故の翌年に会った男性を訪ねました。

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現在60歳で、直売所の主任です。事故前は家族で仕出し業を営んでいましたが、事故後は郡山(こおりやま)市の仮設団地内に建てられた、プレハブの商店で働いていました。以前の取材ではこう言いました。

 「最初は“東電のせいで…”って怒りもありました。でも、そればかり言っていても前に進めないんですよ。“一日一笑”です。笑いがあれば体も精神も健康になる、だから1日1回は必ず笑いましょうって思います。テレビで福島の人がマイクを向けられて笑っていると、“笑っている場合じゃないだろう”とか言う人もいました。でもそんなに深刻になっていたら、気持ちも体も病んでしまいますよ」

 あれから8年…。男性は村の観光協会などで働いた後、農産物直売所の運営会社に入りました。現在は郡山市の賃貸住宅で妻や息子と暮らし、毎日1時間かけて直売所に通っています。

 「今は笑うのが楽だよね。考えなくても笑えるし、無理しなくていい。子どもたちも周りも自然と笑うしね。震災当時は努めて笑うようにしていたけど…。9年、10年たっても、やっぱり“一日一笑”の精神で頑張っていきたいと思います。これがあったからこそ家族の輪がとれているし、全員が和やかに、娘も一人立ちしましたけどそれほど反抗期もなく…これからも笑いのある家庭でいきたいと思います」

 いま男性は、村をもっとPRしようとキッチンカーでイベントを回り、薄く焼いたそば粉の生地に野菜などを包んだ料理“ガレット”を販売しています。そば粉は村の特産品、野菜も川内産だそうです。

 そして夜、村の中心部にある体育館で、小学生のバレーボールクラブ“はやぶさスポーツ少年団”の練習におじゃましました。

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40年の歴史がありますが、原発事故による避難などで活動を休止し、去年 8年ぶりに再開したそうです。メンバーは女の子14人で、嬉々としてバレーを楽しんでいました。再開のきっかけは、現在コーチを務める30代、40代のOGたちで、“せっかく村に戻って来たので、再開できたらうれしいと思った”とか、“川内って何もないので、子どもたちに選択肢を多く与えたいと思った”などと言いました。監督歴20年の60代の男性は、こう言いました。

 「実際、自分ひとりでは再スタートをすることはできなかったので、父兄とか、教え子には感謝しています。バレーの試合もスタートは1点からです。再開は最高ですね。大会に出て1勝できれば、また楽しいこともいっぱいあると思うんですが、まだそれまではいかないので、もう少し頑張ります」

 最後に、新たな特産品を目指してイチゴ栽培が行われていると聞き、ことし完成した大規模な農業用ハウスに行きました。

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運営する農業法人の社員で、村出身の29歳の男性は、以前は村役場の職員を目指していました。原発事故後、村の農業を案じて進路を変えたそうです。村の第3セクターが運営する水耕栽培の野菜工場で働いた後、今の農業法人に移りました。この冬、3万株のイチゴが初収穫を迎えます。

 「村の主な産業であるコメが作れなくなった時、何かそれに代わる産業を探したいと思っていました。しっかり成り立っていくまですごく不安がありますけど、川内に生まれて川内で育って、いいところを知っていてこの村が好きなので、何とかその助けになれればという思いが強いですね。この道でいいのかなって迷うこともありましたけど、それでも何とかここまで、いろいろなご縁もあってイチゴを育てることができるようになりましたので、志を持ってやることが大事なのかなと思います」

 いま村には、小さな商業施設や農産物直売所、郵便局、信用金庫、診療所、複数の介護施設があります。ビジネスホテルや賃貸アパート、屋内プールも建てられ、村内の無料巡回バスや大型商業施設のある隣町へのバスもあります。新しい工業団地には複数の民間企業が進出し、来年度には新たに小中一貫校が開校します。村は住宅や子育ての補助、特にひとり親家庭への補助を充実させ、移住者を獲得しようと熱心です。イチゴのハウスをはじめ、村の端々に復興への執念のようなものが感じられました。