【キャスター津田より】3月9日放送「岩手県 大船渡市」

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今回は、漁業の町・岩手県大船渡(おおふなと)市の声です。人口はおよそ32000で、震災前から2割減少しています。中心部の大船渡町(ちょう)から半島部の三陸町(さんちくちょう)まで広範囲に被災し、400人以上が犠牲になり、2700棟を超える住宅が全壊しました。
2014年に魚市場が再建され、2017年までに災害公営住宅(801戸)の整備と集団移転の宅地造成(21地区)が全て終わりました。他の復興事業もすでに終わっています。中心部はJR大船渡線を境に、山側が住宅地、海側が商業地となり、大船渡線はバスに転換しました。大船渡駅の周辺には、あわせて60近い飲食店や小売店が集まる2つの商店街『キャッセン大船渡』と『おおふなと夢商店街』がオープンし、スーパーやドラックストア、ホームセンター、複数のホテルも建っています。防災観光交流センター『おおふなぽーと』も新設されました。三陸町の綾里(りょうり)漁協や越喜来(おきらい)漁協では、やせたウニに人工的に餌を与え、夜も照明で明るさを保って身入りを高める、“蓄養(ちくよう)”という新事業が始まっています。この3月には、震災追悼施設『みなと公園』も完成しました。

はじめに、『みなと公園』にある震災犠牲者の芳名板に、父の名前を刻んだ女性を訪ねました。盛岡市の医大で看護学部に通う地舘凪海(ちだて・ななみ)さん(20)は、越喜来地区の出身で、小学1年生の時に津波で父を亡くしました。一人暮らしの部屋にある父の写真に毎日手を合わせ、語りかけているそうです。母は看護師で、震災直後の避難所で働く母の姿にあこがれ、同じ道に進みました。

「お父さんの声はあんまり覚えてないですね。まだ小学生の頃は、周りが父親の話をしている時はやっぱり寂しくなって、家で泣いたりとかも結構ありました。母親とケンカになっちゃう時があるので、お父さんの話も聞きたいな、意見も聞きたいなと今でも思うことがあります。(能登半島地震で)地震速報があるじゃないですか。あれ聞くだけでも私、泣けてきちゃってダメで… すごく地震が怖かったのを覚えているので、ちょっとニュースとかは見られないですね。一生ダメなのかなって思っています。でも、震災がなかったら看護師を目指していなかったと思うし、人を笑顔にできる看護師になりたいです」

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その後、大船渡市役所に行き、志願して能登半島地震の被災地へ応援に行った、笹野択朗(ささの・たくろう)さん(47)と多田宗(ただ・そう)さん(44)から話を聞きました。2人は1週間にわたって、能登町(のとちょう)で住宅の被害調査に携わりました。
笹野さんはもともと栃木県出身で、震災で大きな被害が出た妻の故郷・大船渡を手助けしたいと、勤めていた宮城県内の建設会社を辞めて、大船渡市役所に入りました。現在は、住宅管理課の係長です。

「東日本大震災の時はたくさんの自治体や全国の皆様から多くの支援をいただきましたので、その恩返しの気持ちも込めて支援したいなと思いました。能登町で訪れた家の方から、“大船渡って何十メートルも津波が来た所だよね”と声をかけていただいて、“そんなにひどい被害を受けたのに、復興できたのかな”って言われたので、“おかげさまで皆さんのご支援をいただいて復興しました”って話しました」

多田さんは震災当時、保健福祉課の職員で、義援金の支給などに従事しました。税務課に移って住宅の被害調査に携わるようになり、北海道胆振(いぶり)東部地震(2019年)でも応援に行きました。

「震災の時の大船渡と同じような状況だなって思いました。能登町の職員の人たちは、家がつぶれて無くなった人も多くいたと思うんですけど、家にも帰らず、寝癖をつけたり、ジャージ姿で働いたりしていました。13年前の大船渡市役所もそんな状況で、家族が行方不明だったら捜したいじゃないですか。でも公務員はそれができず、家族を亡くしながら仕事を一生懸命している人たちは本当にすごいなって思っていました。30年後、50年後にはまた同じような被害が来ると想定されているので、新しく入庁した職員に対して、何か伝えるということも必要なのかなと思います」

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そして、中心部にある大船渡保育園(園児数128人)にも行きました。震災発生時、多くの園児は昼寝中で、近くの小学校に避難して全員無事でした。園舎は平地から10数mの高さに建っていますが、津波は庭先まで達しました。保育士歴50年以上の富澤郁子(とみさわ・いくこ)さん(76)に聞くと、当時の苦い経験から、保育園の防災ルールを見直したそうです。

「当時、園児服を着ていない、靴下も脱いで、靴も脱いで寝ていたところから外へ避難して、すごく寒くて大変だったんですよ。次の津波が明日来るかもしれない、そう思ったら、園児服を着たまま寝る、自分の靴を草履袋に入れて、ジャンパーも袋に入れて、枕代わりに置いて寝ることになりました。外で遊んだ園児服のまま寝るのは、汚いって言われればそうかもしれない。でも、 命を考えたら…」

大船渡保育園には、震災を機に生まれた『さかみちをのぼって』という園歌があります。“さかみちをのぼって あのくもをつかもう”で始まるこの歌は、地震が起きたら高台へ逃げることを子どもたちに分かりやすく伝えています(字数の都合で詳しく紹介できませんが、曲名で検索すればすぐ出てきます)。作曲は千住明(せんじゅ・あきら)さんで、あえて歌詞には大船渡保育園という言葉が入っていません。この保育園に限らず、日本中の子どもたちが津波避難についで歌い継げるようにするためです。

そして今回は、過去に取材した2人の方も訪ねました。家屋の9割が被害を受けた末崎町(まっさきちょう)泊里(とまり)地区の小松繁子(こまつ・しげこ)さん(88)は、自宅と営んでいた衣料品店を津波で失いました。11年前に取材した時はほとんどの住民が地区を離れていましたが、小松さんはプレハブの仮店舗を建てて営業を続けていました。 当時はこう言いました。

「流されても、やっぱり私は泊里にいたいのです。誰もここを通る人がいないんですよ。でも、やっぱりここに来たくて、お客さんとお茶を飲めば我に返るので、これが私の本来なんだと思って…」

11年後の今、小松さんは、震災まで75年間を過ごした泊里を離れていました。別の地区の高台に、窓から海が見える自宅を再建し、店は7年前、60年の歴史に幕を下ろしました。

「プレハブの店に行くと、毎朝待っているばあちゃんがいて、“遅いぞ”って…。何を買うのかと思えば、お茶っこ飲んで…(笑)。5年も経てば、街なかに立派なお店が出てきたので、私もこれでおしまいにしようと店を諦めました。閉店の日は、うわっと涙があふれてきたの。こっちに引っ越して、近所の人とも今は友達になって、“お茶飲め”って言われるの。親しくなって心強いね。この海にやられたという気持ちも薄れてきて、いい眺めだなって…。海にやられたんだけど、海を見るのがいいのよね」

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さらに、12年前に取材した、赤崎町(あかさきちょう)大立(おおだち)地区の志田秀一(しだ・しゅういち)さん(65)を再び訪ねました。入れ歯専門の歯科技工士で、2人の息子は独立し、孫もいます。自宅や作業場は津波の被害を受け、地区の家屋の大半も被災しました。志田さんは地域の復興のシンボルとして、モニュメントの制作を彫刻家に依頼し、この活動がクチコミで広がったため、全国からボランティアが手伝いに駆けつけました。当時はこう言いました。

「地域に何にも色が無いので、ちょっと色がついた形で、前を向けるような物…こんなの作ったんだから、次も何かやれるんじゃないかって思えるきっかけにできたらいいなって思います。すごくダメージ受けて何もかも失いましたけど、ここに来てくれた人たちのおかげで、少しずつ元気になっています」

あれから12年…。志田さんは仮設住宅を経て、同じ地区の高台に自宅を再建していました。モニュメントの制作は6年に及び、のべ1000人以上のボランティアが携わったそうです。様々な色がついた大きなモニュメントが、被災して家屋がなくなった場所でひときわ目立っています。4年前には敷地内にレンガハウスも建てて、酸素カプセルを導入したほか、エステサロンも始めました。 

「思いだけで人のためにできるんだなって、ボランティアから教えられたというか…。震災前は自分たちがよければいいという人生だったのかなって、今は思いますね。被災した人はやっぱり、頑張ろう頑張ろうという時期も確かにあったので、ちょっとみんなで休もうというか、1人でも2人でも癒やされる場所、いろんな話をして、笑顔で帰れる場所ができたらいいなって思いました。地元から人もいなくなり、家も無くなって引き算だけだったので、これからはこの地域に、大それたことじゃなくていいから、ちょっとずつ足していければと思っています」

東日本大震災から13年。ボランティアとの大量の記念写真を見ながら、志田さんはそう言いました。

【見逃した方はこちらで】
NHKプラス 東北プレイリスト
https://plus.nhk.jp/watch/pl/f43cf92c-fd9a-4bb2-b6fd-9f7f57486cbd