【キャスター津田より】1月20日放送「宮城県 女川町」

能登半島地震から3週間経ちました。このページを能登の子どもたちも見ることを願い、小中学生の皆さんにあるエピソードをお伝えします。能登の小中学生の皆さんは、13年前といえば、物心つく前か生まれる前のことです。東北で起きた大震災のことなど全く知らないでしょう。当時、大津波に襲われた宮城県気仙沼(けせんぬま)市では、あまりにも多くの人が家族や住む家をなくしました。震災の11日後、階上(はしかみ)中学校で行われた卒業式…そこで卒業生代表が述べた答辞は、当時大きな話題になり、その後何度も放送されました。皆さんとあまり変わらない年頃の子が、こう言ったのです。
「苦境にあっても、天を恨まず、運命に耐え、助け合って生きていくことが、これからの私たちの使命です」
13年前、この一言は被災地の多くの人の胸を打ち、心の支えになりました。能登の小中学生の皆さんにも、この言葉をお贈りします。

さて、今回は宮城県女川町(おながわちょう)の声です。女川町は人口が約6,000の漁業の町で、震災では15m近い津波に襲われました。800人以上が犠牲になり、住宅の約9割が被災し、その4分の3が全壊です。復興事業では、防潮堤の後背地をかさ上げして新市街地を造成し、住宅地は浸水域よりも高い場所に集約しました。市街地では、観光市場『ハマテラス』など40ほどの店舗が並ぶ商業エリア(=シーパルピア女川)が、JR女川駅前に誕生しました。災害公営住宅の整備や集団移転、土地区画整理事業などは5~6年前に終わり、町内の学校教育は小中一貫のカリキュラムで学ぶ『女川小中学校』に一本化されました。交番や消防署、地元スーパー、薬局等々、様々なものが新しくなり、女川漁港のそばに整備した海岸広場には、スケートボードを楽しむ屋外スケートパークも完成しました。さらに水産関連5社の協力で、去年、204室を備えた新しい宿泊施設も開業しています。
一方、人口は震災前から4割減り、そのうち65歳以上は40%に上ります。2045年にはさらに半減し、3,000台になるという推計もあります。

はじめに、今月、成人式を終えたばかりの佐藤雄太(さとう・ゆうた)さん(20)と、多澤聖菜(たざわ・せいな)さん(20)と待ち合わせして、駅前で話を聞きました。今年の女川町の新成人は69人。震災当時は小学1年生で、町の復興とともに成長した世代です。佐藤さんは現在、プログラミングを学んでいて、将来は女川で働いて地域の役に立つ道を模索しています。

「毎日、学校に行って教室から外を見ると、どんどん復興していく様子が見られて、変わっていっているという実感はありましたね。復興に携わってくれたいろんな人に感謝しているし、町が復興にあたって、これからは自分たちが、下の世代の人たちに感謝されるようになりたいと思います」

多澤さんは仙台の大学に通い、小学校の先生を目指しています。中学時代は女子サッカーの東北選抜にも選ばれましたが、2年生の時、ケガで一時サッカーを離れました。

「女川の町と同じように、私も1回くじけちゃったというか、1回ダメになったことがあったんです。でも、すごく好きな女川の町がどんどん復興していって、自分もそういう人間になれるようにと、町と一緒に成長することができたと思います。未来を担う子どもたちを支える大人になりたいと思います」

次に、4年前に開校した女川小中学校の体育館に行き、小学生の女子バスケットボールチーム『女川フィーバーエンジェルス』の練習におじゃましました。全国大会の出場経験もあるチームで、40年以上の歴史があります。少子化で活動を休止しましたが、2年前、チームOGで現コーチの宮坂千尋(みやさか・ちひろ)さん(29)を中心に活動を再開しました。仕事の傍ら、監督の夫とともに十数人の子どもを熱心に指導しています。震災直後に支援でもらったユニフォームは、今も試合で着用しているそうです。

「震災直後はボールやユニフォーム一式、家まで流された人もいて、全て無くなった状況なので、すぐには始められなかったんですけど、支援をいただいて、次の年には全国大会に出場しました。やっぱりあの時(震災)のことを忘れてはいけないですし、経験していない子どもたちにも伝えていくのが使命だと思います。震災も乗り越えてこのチームは続いているので、関わってくださった全ての方の思いを紡いで、今いるメンバーでさらに未来へつなげていけたらいいと思います」

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そして、竹浦(たけのうら)漁港にも行き、8年前に取材した鈴木仁(すずき・ひとし)さん(24)を再び訪ねました。自宅は津波で全壊し、家業のホヤ養殖の船も資材も流され、当時はこう言いました。

「日本一のホヤ漁師になりたいです。小学1年生くらいからの夢です。父親に憧れたんですが、船を流されてもめげずに頑張る父の姿を見て、前よりいっそうホヤ漁師になりたい思いは強くなりました」

あれから8年…。鈴木さんは高校卒業後、一度は遠洋漁業の仕事に就いたものの、去年2月に家に戻り、父と一緒にホヤ養殖を始めたそうです。

「自分が育てたものがこれだけ実ったという感覚はなかったんですけど、昔からやりたいと思っていたことなので、水揚げの時は楽しかったです。夏の海水温がすごく高かったのでホヤが死んでしまったり、あまり育たない状況になったりしたんですが、どんなに海の環境が変わって厳しくなっても、震災の時のようにめげずに、逆境に負けずに立ち向かっていきたいと思います」

猛暑による海水温の上昇で、女川町全体では、今年出荷するホヤの半分ぐらいが死滅したようだと語る漁師もいます。加えて、宮城県産のホヤの約7割を輸出していた韓国が、原発事故を受けた禁輸措置を今も続けています(処理水放出で禁輸解除はますます不透明に…)。東電による逸失利益の補償も、去年11月で終わりました。これらが、鈴木さんの言う逆境の背景です。

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その後、野々浜(ののはま)漁港にも行きました。女川湾では特産のカキの出荷が最盛期で、カキ養殖を営む石森寛(いしもり・ひろし)さん(58)は、津波で父親を亡くし、自宅と養殖いかだも流されました。震災の2年後に養殖を再開できたのは、ひとえにボランティアのおかげだと言いました。

「やっぱり復旧時は本当につらかったですね。もう何をしていいか分からないし、どこに住んでいいかも分からないし、世の中がどうなるんだろうって、先が真っ暗みたいだったんで…。被災して、はじめは自分一人では出来ないことが本当に多かったので、ボランティアの方たちには、カキの挟め方という作業やロープを作ったりする作業を、3~4年近く手伝ってもらいました。今、本当にこの浜に残って良かったなって思います。手伝いに来てくれた他県のボランティアの方たちに本当に感謝します」

最後に、女川町の離島・出島(いずしま)を訪ねました。本土との距離は約300mで、船だと女川港から約20分です。町内でも特に漁業が盛んで、津波では25人が犠牲になりました。2013年に島内の小中学校が閉校し、診療所や商店もなくなりました。人口は震災前の約500から90に激減し、65歳以上の住民が半数を占めます。子育て世帯は本土で暮らし、親は毎日、島に通って仕事をしています。
去年11月、この島と本土を結ぶ、全長364mのアーチ橋が架かりました。橋上の道路舗装などを行い、今年12月に開通する予定です。建設の要望が出たのは約40年前。ひとたび海が荒れれば、山火事があっても島から出られず、急病人や妊婦も搬送できないなど、島民は大きな不安を抱えてきました。建設費用の3分の2は国の交付金で賄われ、開通すれば、町の中心部まで車で15分ほどになります。
出島では、7年前に取材した木村洋子(きむら・ようこ)さん(74)を再び訪ねました。出島で生まれ育ち、食料品店を経営していましたが、自宅と店は津波で流されました。店の再建を諦め、震災の3年後に完成した災害公営住宅に一人で暮らしていて、当時はこう言いました。

「避難しましたが、とにかく私は島に戻らなきゃ、という思いだけだったから…。気持ちの根っこがここにあるんですね。定期船を乗り降りする人とのちょっとした会話に、すごく元気をもらいます」

その後、木村さんは船会社の委託で新聞と宅配便の配達を始め、今も元気に暮らしています。

「学校の廃校が、島にとって大変なショック…島の人たちがそれぞれ散らばった後の結果だったので、余計にあとがないんです。不法投棄とか、橋が開通した後の不安を数えたらきりがないですけど、島にある自分の土地に家を建てて住む人も出てくるはずです。そう言っていた人もいるんです。楽しみですよね。少しずつ変わってくるでしょうけど、とにかくこの島が生かされればいいんです。島民は決まりきった人たちとの交流で過ごしてきましたけど、今度は交流が広がるわけですから、人と人とのつながりを大事にしていければ、出島もいい場所になるんじゃないかと思います」

悲願の橋が住民を取り戻し、新たな人も呼び込んでくれることを、木村さんは心底期待していました。

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