【キャスター津田より】12月2日放送「岩手県 山田町」

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今回は、岩手県山田町(やまだまち)です。人口が14,000あまりで、震災では津波はもちろん、津波後に火災も発生し、中心部の広範囲が焼失しました。関連死を含めて825人が犠牲になり、全家屋の半分近く、3300棟以上が被災しました(うち約8割は全壊)。
プレハブ仮設住宅の退去完了は、つい3年前です。2019年度~20年度で、約3mのかさ上げを伴う中心部の土地区画整理事業や、災害公営住宅(18団地640戸)の整備、造成した宅地の引き渡しがほぼ終了しました。2019年に開通した三陸鉄道リアス線の陸中(りくちゅう)山田駅の周囲には、地元スーパーや飲食店などの被災事業者(約10店舗)が入る共同店舗『オール』が開業し、図書館と一体化した交流施設も整備されました。個人の店も駅周辺に集まり、理髪店、クリーニング店、書店、金融機関、郵便局など、生活インフラが整っています。少し離れた国道45号沿いにも、被災事業者(計8店舗)でつくる『新生やまだ商店街』があります。2017年には、世界最大級のマッコウクジラの骨格標本で知られる『鯨と海の科学館』が、資料の流失を乗り越えて再開しました。今年7月には、『道の駅やまだ』がオープンし、自慢の海産物を扱う直売所やレストラン、遊具のある緑地広場などがそろっています。
また、山田町はカキ養殖が全国的に有名ですが、近年の極端なサケの不漁をふまえ、トラウトサーモンの海面養殖も始まりました。漁協組合員は震災後に約3割減り、担い手不足が深刻です。県立山田病院は高台に再建されましたが、医師不足により訪問診療は縮小しました。小中学校は震災後の統合で小学校3校と中学校1校になり、来年4月には、船越(ふなこし)小学校が山田小学校に統合されます。

はじめに、2年前に国道45号沿いに開業した中古車販売店を訪ねました。すぐ隣に高さ10mほどの防潮堤がそびえています。店主の阿部佳津久(あべ・かつひさ)さん(40)は、町外の自動車販売店で働き、震災後に独立しました。商工会青年部の部長として、花火大会や商店街をあげての飲み歩きなど、様々なイベントも企画してきました。震災前は一番の賑わいだった国道沿いも、大半の店がなくなってしまい、昔のような光景を取り戻したいと、開店する際にあえて国道沿いを選んだそうです。

「育った町が壊滅的な被害で、原形がない状態を見ると、何かしないといけないと思って…。微力ながら山田町のためにできることは何か考えて、ここに店を建てることに決めました。まだみんな“復興しました”という気持ちではないと思うんですよね。町をどうにかするというより、人のほうなんですよ。人を元気にしたいとか、笑顔にしたいとか、そういうほうで活動しています」

町の商工会によると、被災した337の会員事業者のうち、震災後の廃業や脱退は約4割です。町が買い取った集団移転跡地(51.5ヘクタール)のうち、半分以上は使い道が未定とみられ、国道45号の周辺はガソリンスタンドや飲食店が点在するものの、以前の光景にはほど遠く、空き地が目立ちます。

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次に、『道の駅やまだ』に行き、ひときわ目を引くクレープの店を訪ねました。店主の佐藤美保捺(さとう・みほな)さん(24)は、起業する町民のために設けた“チャレンジショップ”というスペースに店を出しました。県内の製菓学校を卒業後、横浜市の洋菓子店で働き、チャレンジショップの話を聞いて地元に戻ったそうです。震災時は小学5年生で、自宅は高台にあり無事でした。地元の菓子の“山田せんべい”を使ったクレープが人気商品で、ウミネコの形をしたクッキーがトッピングしてあります。

「意味がわからないくらいの揺れの大きさで、気づいたら小学校の下の建物なども無くなって、煙とか出ていて…。今も地震で揺れるたびに思い出すので、震災は終わったことではないですね。小さい頃、駄菓子屋に行けば、気さくに話しかけてくれるおばあちゃんがいたのが当たり前で、震災でいろいろな店が少なくなったので、ここで自分が店をすることで、昔、小銭を握りしめて駄菓子屋に行っていたみたいな感覚で、小さい子とかが買いに来てくれるのがうれしい…やってよかったと思います」

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その後、織笠(おりかさ)地区にある高台の住宅地に行きました。山田町では海沿いの低地が“災害危険区域”になり、住宅の建築が原則禁止になりました(店舗や倉庫は可)。住民の多くは高台に移って自宅を再建しています。織笠地区では約半数が高台に移転し、4年前に完成した集会所を訪ねると、高齢者が週2回集まってラジオ体操やリハビリ体操を行う“ゆうなご会”が開かれていました。ラジオ体操に熱心に取り組む団体として、表彰されたこともあるそうです。代表の菊地隆男(きくち・たかお)さん(77)は、仮設住宅でのボランティア活動がきっかけで代表を引き受けたと言います。

「仮設ではボランティアで3年間、草刈りをやっていました。今もここで集会所の草刈りをしていますよ。仮設の頃はおもしろかったですよ。いろんな行事があって、集会所でバーベキューやお茶会をやったり…。仮設に住まわせてもらった“恩返し”というつもりで、今はやっています。皆さんに頼られているという思いがありますので、まだまだ続けたいと思っております」

震災後、若い世代を中心に人口が25%も減っていて、国道や公共施設、店舗が集まる駅前から離れた高台に、高齢者がまとまって暮らすという状況が生まれました。もちろん運転免許のない人もおり、被災地の町は大体どこも同じです。山田町では2020年から、駅前の中心部と県立山田病院、高台をつなぐ循環バスの運行を始めましたが、財政面など様々な事情から、平日は1日6便、土曜日は1日3便で、日曜日はありません。高台の高齢化に対応した行政サービスには、どの自治体も悩んでいます。

また、この会の中には、10年前に取材した昆(こん)シメ子さん(80)もいました。以前の取材は仮設住宅で、自宅を流され、夫と2人で高台移転を待ちながら暮らし、集会所で開かれる手芸の会にも参加していました。当時はこう言いました。

「今まで一軒家で暮らしてきたでしょう。アパートとかは味わったことないので…。こうして近所の人が集まるのは楽しいけど、やっぱり、わが家が欲しいです。成り行きにまかせて、みんなと仲よく生きていくほかないですね」

あれから10年…。昆さんは2017年に、高台に自宅を建てました。10年前に取材した数日後、入院中だった夫が亡くなったそうで、現在は釜石(かまいし)市からUターンした次男と2人暮らしです。“ゆうなご会”の菊池さんとともに、草刈りや花の手入れなど、ボランティア活動に精を出しています。

「お父さんが“小さくてもいいから家が欲しい”と、いつも言っていたんです。本当はこの家に入れてやりたかったけど、もう叶わないから、一生懸命手を合わせています。新しい家ができて、自分の家に入れるだけでも幸せだと思わなきゃね。建てたくても公営住宅に入る人もいますし、子どもたちが遠くにいて、向こうに行く人もいましたから…。こうやって高いところに住めるから、幸せですね」

復興に時間がかかるうち、盛岡など遠くに住む息子や娘が心配して、同居を勧めるケースは非常に多いです。泣く泣く故郷を離れた高齢者も多く、以前、盛岡市の団地でこのような高齢者を取材した際、別れ際に“自分の町に戻りたいから、このまま一緒に連れて行ってくれ”と言われたこともありました。地元に残れただけでも幸せ…確かにそうかもしれません。

最後に、9年前に取材した漁師、山﨑一仁(やまざき・かずひと)さん(70)を再び訪ねました。8m超の津波で自宅と船を流され、当時は親戚の家を借りて暮らしていました。漁は再開したものの、流された家のローンが残っており、自宅再建のめどは立っていませんでした。当時はこう言いました。

「震災当時は勢いでなんとかしましたけど、今は津波で流されたものがボディーブローのように、かなり効いてきました。今が苦しい時です。資金不足で家を建てられないとか…地域の人たちが家を再建すると、いいなと思う反面、俺にはできないのかなと、どうしても精神的な弱さが出てきます」

山崎さんはこの翌年、再びローンを組んで漁港近くの高台に自宅を再建し、現在は妻と2人で暮らしています。定置網漁を続けていますが、秋サケが前代未聞の不漁で、悩みの種だそうです。

「暖かい家で、建物は復旧しましたけど、震災前を思い出して、“やっぱり昔はよかったな”と思うんです。つらさがお腹のどこかにあるんでしょうね。心のケアはまだ大事かな。震災後に景気がよくなったことはあまりないし、やっぱりボディーブローのように効いていますね。みなさん笑顔で挨拶ができる、子どもたちが元気に笑えるような地域をつくっていきたい…そういう町になればうれしいですね」

家を建てた安堵の表情を見せつつも、どこか寂しそうな目が印象的でした。

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