【キャスター津田より】3月2日放送「宮城県 東松島」

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 今回は、宮城県東松島(ひがしまつしま)市です。人口が38000あまりで、震災の津波では1100人以上が犠牲になり、全世帯の7割以上が半壊以上の被害を受けました。震災後は、約580世帯が住む“あおい地区”や、約450世帯が住む“野蒜ヶ丘(のびるがおか)地区”など、集団移転で造成した大規模な住宅地が誕生し、特に野蒜ヶ丘地区の中にはJRの2つの駅も移設されました。この地区には、市民センターや福祉施設、小学校、保育所、クリニック、消防署がそろい、一昨年には賃貸や分譲の住宅が追加で整備され、カフェやジェラート店などの店舗が並ぶ新エリアも完成しました。このほか市内では、震災後、県内最大級のパークゴルフ場、防災の体験宿泊施設、盆栽庭園と飲食を楽しめる観光施設などもオープンし、奥松島(おくまつしま)運動公園や矢本(やもと)海浜緑地も復旧しました。

はじめに、市が運営する『東松島市震災復興伝承館』を訪ねました。震災発生時や直後の様子、復興の過程を伝える写真等を展示しており、3月11日が近づくにつれ団体の来訪者も増えています。隣には、JR仙石(せんせき)線・旧野蒜(のびる)駅のホームが、津波を受けて湾曲したままの線路を残し、震災遺構として保存されています。伝承館の職員として展示の案内などを行う、高橋眞実(たかはし・まみ)さん(49)は、震災で全壊した自宅を大規模修繕し、夫と子ども、母親と6人で暮らしています。

「案内をしていて、つらくなるというより、悔しいですね。私たち本当に生と死の紙一重で、一歩間違えれば亡くなる側だったし、あの時こうしていれば、あの人も助かったんじゃないかとか、悔しい思いをしたので…。私の心には、震災前で止まった時がずっとあります。あの時までいた人たちがずっと心の中にいて、野蒜地区の震災前の町並みもずっと心の中にあります。そして、いま現在、生きている人たちと一緒に流れている時もあって、当時ああだった、あんなことをしたと、昔のことを会話しながら2つの時を行き来しています。私は死ぬまでこれを繰り返して、亡くなった人のことを忘れません」

野蒜地区では、住民が避難していた体育館にも津波が入り、中で渦を巻いた…などの非常に過酷な体験が語られています。高橋さんの言葉は、被災地に暮らし続ける人々の思いを端的に表しています。

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次に、JR陸前小野(りくぜんおの)駅の近くに住む方で、8年前に取材した鎌田なほ子(かまた・なおこ)さん(65)を再び訪ねました。自宅は津波で全壊したものの3年後に再建し、現在は夫と息子家族との7人暮らしです。以前会ったのは刺しゅう雑貨の販売店で、商品を作るのは、鎌田さんを含め約70人の被災した女性たちでした。震災の2年後、女性の生きがいづくりやメンタルケアのために始まった活動で、鎌田さんも刺しゅうに救われたと言います。鎌田さんは避難所生活に疲れ果てて人と接するのが怖くなり、夫婦2人で移ったみなし仮設のアパートでは、孤独のため精神的なバランスを崩しました。そんな時に刺しゅうと出会ったそうで、前回はこう言いました。

「生活していると何をしていても、つらいことが自然と頭の中に入ってきちゃうんです。でも好きなことをしていると全然頭に入ってこない…集中できてね。刺しゅうで皆さんに恩返ししたいです」

 あれから8年経ち、鎌田さんは店での商品作りは引退しましたが、今でも趣味で刺しゅうを続けています。震災後は別々の避難先で暮らした息子家族とも、再び同居するようになりました。

「立ち止まって、なかなか立ち上がれない人もいるし、私は刺しゅうがないと前に進めないですね。“おまけ”だと思うの、今の人生…。だってもしかしたら、この世にいなかったかもしれないし、そのくらい切羽詰まっていたから…。この家に家族みんなで暮らせて、孫もいて、幸せだなって…。今が一番幸せかな。孫に支えてもらって、若い人に支えてもらって、これからも暮らしていきます」

 話をしながら、鎌田さんは涙を流しました。

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 その後、赤井(あかい)地区に行きました。津波が川を遡上(そじょう)し、浸水被害が出た地区です。64年続く人気の洋菓子店を訪ねると、2代目の佐藤清喜(さとう・せいき)さん(48)が話をしてくれました。家族は無事でしたが店は約2m浸水し、修繕と設備の買い替えを行い、震災の7カ月後には再開したそうです。修繕費用の約2割に補助金が出ましたが、残り8割は借金でまかないました。本来なら移転して、今の狭くて古い店を建て直し、広い駐車場も確保したいそうですが、その余裕は全くありません。去年から息子の翼(つばさ)さん(19)が父のもとで修行を始め、昔からの人気商品・バターロールケーキを受け継ぐほか、牛タンを使ったパイ菓子など、親子で新商品の開発にも熱心です。

「工場を見た時に“これは無理かな”と…最初に思ったのはそれでした。自分も地元の小学校に避難したんですが、その避難所に、水に濡れなかった焼き菓子を“食べてください”と提供させてもらったんです。それを食べてみんなが笑顔になったのを見た時に、心が救われたというか、本当に純粋に“良かったな”と思いました。借金も残っているし、苦しく、しんどい思いはやっぱりあります。町並みも震災があったとは感じられないほど復興したと思うんですが、自分たちはまだ終わっていないというのが本音ですね。震災を忘れず、感謝の気持ちを忘れず、人々をお菓子で笑顔にしたいです」

そもそも被害額が大きければ、どんなに満額で補助金をもらっても、再建のための借金は膨らみます。今もなお、震災で背負った借金を返済している事業者は大勢います。

 さらに、野蒜地区にある観光イチゴ園にも行ってみました。おととし10月、被災した跡地にオープンした農園で、地元の人も働き、貴重な雇用の場になっています。去年は1月~5月に、4000人ほどがイチゴ狩りに訪れました。開園のきっかけは、東松島市の『令和の果樹の花里づくり』事業で、津波を受けて集団移転した跡地で果樹栽培などを進め、加工や販売の場もつくり、観光や雇用創出につなげるというものです。震災後、東北を応援しようと宮城県大崎(おおさき)市で設立された農業法人が、この事業を利用して移転してきました。イチゴ園の責任者は、農業法人に務める鈴木隆介(すずき・りゅうすけ)さん(43)で、もともと仙台市で自動車整備士をしていましたが、転職しました。

「震災後、原発事故で東北の農家の風評被害がひどいというのを知って、一生懸命やっているのに、関係ない何かで被害が起こってしまうのは、怒りというか憤りというか…私もこの機会に、農業を仕事にしてもいいと思って、思い切って仕事を辞めて農業法人の社員に応募しました。野蒜地区は被害が非常にひどくて、本当は昔、松林や民家が並んでいたのに、人が寄りつかなくなってしまったので、イチゴ園をきっかけにいっぱい来ていただいて、東松島が本当に活性化してくれるといいと思います」

市内では、被災した跡地を農業法人や誘致企業に貸し付けるなど、一定の活用がなされています。しかし、まだ数十haは未利用のままで、市有地と民有地が混在してまとまった使い方ができません。用地買収するにしても地権者は何百人とも言われていて、今後の課題になっています。

最後に、松島湾に面した大塚(おおつか)地区に行き、カキ養殖を営む若手漁師、後藤晃一(ごとう・こういち)さん(32)を訪ねました。後藤さんは父と一緒に仕事をしていて、カキ養殖で家族を支える父に憧れ、子どもの頃に漁師を目指したそうです。家業を継ぐため、大学でもカキなど二枚貝の研究をしていましたが、2年生の時に震災が発生し、養殖業は再開の見通しが全く立たなくなりました。当時のことを父の晃(あきら)さん(63)は、こう言いました。

「資材も全部無くなって一から出直しで、漁場もガレキでいっぱいで、それをひたすら片付ける形でした。経費をかけただけの水揚げを望めるか不安で、息子は外に勤めたほうがいいと思いました」

晃一さんは大学卒業後、東京にある薬品販売の企業に就職し、営業職として働きました。父親は復興に奔走して何とか養殖を再開し、2017年、晃一さんは念願かなって、漁師になるため戻ってきました。

「こんな大変な状況なのに、俺だけ外に行って、何も手伝わない…というのは心苦しかったですね。自分は大塚が好きだし、そこで両親がカキを育てて販売していて、当然、自分もその仕事をやりたかったので、外に出て働くのはすごく複雑でした。漁場をここまで戻すのは大変だったと思うんですよ。それを戻してくれた親父、漁協の方、漁師仲間に感謝しています。だからこそ自分も息子の世代に、海なり、この仕事なりを残したいし、未来に引き継ぎたいので、“終わりにしてたまるか”という感じです」

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今季のカキは記録的な猛暑による水温上昇で成育が遅く、カキが死滅する被害も広く報告されています。環境異変という不安を抱えながらも前を向く若手漁師の姿に、被災地の希望が凝縮されています。

【見逃した方はこちらで】
NHKプラス 東北プレイリスト
https://plus.nhk.jp/watch/pl/f43cf92c-fd9a-4bb2-b6fd-9f7f57486cbd