10月24日放送「宮城県 女川町」

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 今回は、宮城県女川町(おながわちょう)です。いま宮城県では、東北電力女川原発2号機が大きなニュースになっていて、原発がある女川町、石巻(いしのまき)市の両議会、そして宮城県議会が再稼働を容認しました。津波で被災した原発の行方が注目されています。一方、町内で会う一般の方々に話を聞くと、原発の話を出す人はまずいません。“経済振興”か“安全”か、地元ではとても微妙な話題です。最近はあまりに原発に注目が集まるため、復興の現状や課題は取り上げられることが少なく、今回の声からは是非その点を感じていただきたいと思います。

 

 女川町は、震災で800人以上が犠牲になり、4000戸近い家屋が被害を受けました。周辺の丘陵を削った土で中心部を大規模にかさ上げし、新しい女川駅をはじめ、市街地がつくられました。人口は約6200で、震災直前(2011年2月末)と比べると、37%も減少しています。これは被災地の中でも特筆すべき数字です。災害公営住宅(計859戸)が全て完成するまで7年、宅地整備が全て完了するまで8年と時間がかかり、町を出て生活再建する人が増えました。中心部では、5年前にJR石巻線が全線で再開し、女川駅前の商業施設「シーパルピア女川」がオープンしました。

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被災した魚市場に新しい荷さばき場がつくられ、今年3月には、町で唯一のスーパーが9年ぶりに新店舗での営業を再開しました。

 

 はじめに、“シーパルピア女川”に行きました。飲食店や小売店など、約30店舗が営業しています。その中に、地元で約50年続く果物店がありました。店を営むのは70代の夫婦で、津波で自宅と店舗を流されました。常連客も多く、中心部に来ると必ず立ち寄って買い物し、お茶を飲んでいく高齢者もいます。常連客の要望に応じ、豆腐や納豆をはじめ様々な食品も置いていて、宅配サービスも好評です。

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 「震災当時、10年前ですから60歳ちょっと過ぎで、それから新たに商売を始めていいものか、悩みました。女川町の人口減少の問題も考えて、はたして商売が成り立つのか?ということに始まって…。でも、やってみたら大丈夫でした。思ったより全国から観光客の方も来てくれて…。震災前はフルーツ専門店だったんですけど、今はお客さんに言われたら何でも、“はい、明日持っていきますから”って答えています。お客さんが笑顔で来て、“本当によかった”って、その言葉が一番です」

 次に、女川町グラウンドゴルフ協会が活動する運動場に行きました。

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46人のメンバーのうち、8割ほどが被災しています。自宅を流された70代の夫婦は、仮設住宅にいる時も熱心に通ったそうです。息子夫婦や孫と暮らす中、奥様は5年前にがんを発症しました。闘病の支えは仲間だったと言います

 「グラウンドゴルフのみんなが、“早く元気で帰って来いよ”と…。あれがよかった気がします。その言葉で“頑張らなくちゃ”って思いました。グラウンドゴルフがあるから、生きて頑張ってこられたと思います。家にばかりいて動かなかったり、スポーツもしないでいるより、ここに来ればいい運動になるし、みんなと話をして生きがいになっている感じがします」

 ちなみに奥様愛用のクラブは、日本グラウンドゴルフ協会の寄贈品で、被災地支援で贈られたものです。愛着があって、新しく買い替えることができないそうです。ご主人のクラブは津波で流された自家用車から奇跡的に見つかったもので、震災を乗り越えた“強運のクラブ”と呼んでいます。

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 さらに、勤労青少年センターに行き、今年7月に始まったばかりのバレエ教室におじゃましました。

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教室を主宰する女性は28歳のプロのバレエダンサーで、今年1月、故郷の女川にUターンしました。生徒は6人で、健康維持のストレッチ教室も開いています。女性は6歳でバレエを始め、中学卒業後は京都のバレエ専門学校へ入学しました。在学中に震災があり、自宅は流され、父親を亡くしました。

 「教室を開いて、父は喜んでくれていると思います。生前、父にも“女川でバレエ教室をやる”と言っていたので…。願いが叶えられて、父もちょっと安心してくれたかな。京都に行くこともバレエを続けることも、一切反対されたことがなくて、“自分が決めたんだったら努力して精一杯やれ”と言われ続けてきました。震災後は私もそうだったんですけど、子どもたちにも、我慢しなきゃならない、笑わなきゃいけないというのが無意識にあると思います。周りに迷惑や心配をかけちゃいけないって…。でも、子どもたちの笑顔がずっと絶えずに、どんな感情にもうそをつかずに素直に育って、この町に明るさをもっともっと取り戻していってほしいです」

 女性は目を潤ませながら話してくれました。津波犠牲者が多い小さな町の住民は、必ずと言っていいほど自分と関わる誰かを亡くしています。そして誰もが、心の中で亡くなった方と一緒に生きています。

 

 その後、高台の住宅地に行きました。女川では、かさ上げした中心部を市街地として整備し、住宅はおおむね高台に集約しています。今年8月には、女川小学校と女川中学校の新校舎も高台に完成しました。

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高台は高齢者が多い一方で食料品店がなく、移動販売車が生活を支えています。さらに高台の団地と中心部をつなぐ町民バスは4路線で、それぞれ1日3~4便と本数も限られます。バスのない時間帯ならば、免許のない高齢者は料金の高いタクシーを使うしかありません。中心部から車で15分の高白浜(たかしらはま)地区(13世帯)を訪ねた際、区長を務める60代の男性はこう言いました。

 「大変だよ、ここで免許が無いってなると…。病院に行く人もいるし、買い物に行ったりするしね。でも、ここはみんなまとまっているし、気持ちは楽だよね。地区一体でがんばりたいです。草刈りとか、みんなで掃除をするんですよ。今後 何が起きるかわからないし、みんなで協力しながら、これからも頑張りたいと思います」

 この地区は震災前の集落ごと移転したため、地区の全員が顔見知りで、大きな支えになっています。震災後、国土交通省の“地域公共交通確保維持改善事業”の中に“被災地特例”が設けられ、バス路線や乗り合いタクシーの維持・拡充のため、補助金が増額されました。しかし、この特例は今年度で終了する予定で、影響は今後も注視しなければなりません。

 また、別の高台にある住宅地に行くと、新しい食堂がありました。

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店主の60代の女性は5年前にも取材した方で、当時は中心部で大規模なかさ上げ工事が続き、女性は仮設商店街で営業していました。

 「店を新たにつくらなければいけないでしょ。借金するのもちょっと無理だしね。いろんな補助金を受けて建てるという気持ちなんだけど…。とにかく、お店を続けていくことが大切です」

あれから5年…。女性は取材の翌年、高台に2階建ての自宅を構え、1階で食堂を開店しました。

 「どんなことがあっても続けようという気持ちがあったから、この店もできたんです。仮設で店を続ける中でも、お客さんと話したり、おいしいと言われるとうれしいし、また同じ商売を続けていきたいと思ったんです。いま店によく来るのは、震災前の近所にいた人たちとか、お世話になった方とか、楽しいよ。お店にみんなで集い、楽しく生きるのが大切です。町はずいぶん様子が変わったけど、みんな助け合って仮設商店街でもやってきたし、女川の人たちの気持ちは変わらないと思う」

 ここまで振り返ってみると、果物店や食堂のような店主と常連客の輪、グラウンドゴルフのような仲間同士の輪、高台に移転した住民の輪など、あちこちに町民の小さな輪がありました。人口減少と高齢化の中、たくさんの小さな輪で支え合いながら生きているのが、女川町の現状です。

 最後に生涯学習センターで、県の無形民俗文化財『江島法印神楽(えのしまほういんかぐら)』の保存会の方と会いました。

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70代の男性で、神楽では笛を担当しており、生涯学習センターに保管している神楽の道具一式を見せてもらいました。『江島法印神楽』は、町の離島・江島で伝承されてきたもので、面の中には大正8年製作のものもあります。震災の5日前に保管場所を役場から島に移し、そのおかげで道具が助かったそうです(役場は全壊)。震災の翌年、半分のメンバーで練習を再開しました。

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 「町全体が被災している状況で、自分たちだけが神楽をやっていいのか?という声もありましたし、話し合った結果、こういう時だからこそ、一生懸命やっている姿を周りの人たちに見てもらうべきだということで、練習を再開しました。昨年、100周年の記念行事をした時に、“よく頑張ったね”“今まで楽しみに待っていたんだよ”と皆さんから声をかけてもらったのがうれしかったですね。舞を笑顔で見る人たちのことを考えると、地域社会にとって、これからもなくてはならないものと思います」

 しみじみ語った男性の表情には、伝統芸能を震災から守ったという安堵感がにじみ出ていました。