【キャスター津田より】11月7日放送「岩手県 大船渡市」

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 今回は、岩手県大船渡(おおふなと)市です。人口約3万5千の漁業のまちで、震災では中心部が最大10m近い津波に襲われました。400人以上が犠牲になり、2700あまりの家屋が全壊しています。

 6年前に新たな魚市場が完成し、水産加工場や冷凍・冷蔵施設の復旧に弾みがつきました。その2年後にJR大船渡駅前に広場やホテルが完成し、さらにその次の年、多くの飲食店や小売店が入る商業施設が中心部にオープンして、約800戸の災害公営住宅の整備と集団移転事業の宅地整備もすべて完了しました。去年、一時4500人以上が暮らしたプレハブの仮設住宅から全員が退去し、被災した22の漁港すべてが復旧しました。市の復興計画にある事業は9割がた完了しています。集団移転事業の跡地では、用途がまだ決まらない空き地はあるものの、トマトやイチゴの栽培施設が建った場所もあります。

 

 はじめに、中心部から車で5分の市民センターに行き、週に1度、高齢者を対象に開かれる体操教室におじゃましました。

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教室を主宰するのは30代の女性で、大船渡で生まれ育ち、東京のスポーツジムなどで働いてきたそうです。震災の2年後に大船渡に戻り、 仮設住宅などで体操を教えてきました。女子ラグビー日本代表候補の合宿にも参加した経験があり、東京五輪の聖火ランナーにも選ばれています。

 「両親が共働きだったので、ばあちゃんの家に預けられていて、他のばあちゃんの家にも連れていってくれたりして…。でも、そのエリアが半分くらい被災してしまって、その時いたばあちゃんたちもバラバラになったんですよ。近くに住んでいた人たちが違う仮設に入って、私が仮設を回った時に、「あの人、元気か?」って聞いてくるのが、なんか寂しいなって…。聖火ランナーで私が走るって言えば、そのばあちゃん達もみんな来てくれるかな、それで集まる機会を持てたらいいなって思います。私の走る姿は見なくていいんです。お互い、“久しぶりに会ったよ”って、それがいいです。会いたい人に会いに行けるような体づくりを広めたいです。出かけるにも、健康で足腰が丈夫じゃないといけないですから」

 そして、大船渡東高校に行きました。

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情報処理科の授業では地元をPRする映像を制作していて、中心メンバーの3年生の男子生徒が話をしてくれました。作った動画を見ると、三陸鉄道の恋し浜(こいしはま)駅や碁石(ごいし)海岸など、名所がふんだんに盛り込まれています。震災時は小学2年生で、津波は自宅の玄関前まで押し寄せました。漁師だった祖父は、津波で亡くなりました。

 「船に乗せてもらったことが、一番思い出深いです。漁で使う道具を教えてもらったり、おじいちゃんの周りの漁師さん達にもとても優しくしてもらったので、大船渡には愛着がありますね。歩いて小学校に通う時も、地域の方が見守ってくれているのがすごくうれしかったし、その恩返しができたらいいなと思って、撮影していました。知っている方も亡くなってつらかったので、今後は少しでもつらい思いをする人が少なくなればいいなと思います。大船渡はもっと賑わっていけると思うので、そういうところで尽力できるような人材になりたいです」

 さらに、震災後に市の中心部にできた飲食店街にも行きました。60代の母と40代の娘が営む店は、ラーメンや定食などが評判で、夜は地元の人が酒を酌み交わす場にもなっています。

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異色のメニューは、地元の家庭に伝わってきたおやつ『なべやき』(小麦粉に黒砂糖などを入れて練り、鍋で焼いたもの)で、お母さんがつくる『なべやき』を目当てに来店する客も多いそうです。

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震災から1年半のあいだ、お母さんは避難所やボランティアに『なべやき』を配り続けました。娘さんは当時を振り返り、“何かに取りつかれたように、起きるとボウルを出して練りだして、焼いて、フタが閉まらないくらい入れて、日々いろんな所に行ってたね”と言いました。震災の2年後、『なべやき』に感動したボランティアの仲介で、お母さんはキッチンカーで販売を始め、仮設商店街を経て、2年前に念願の店を構えました。

 「ボランティアにわざわざ駆けつけてくれるんだよ、被災地に…つくづく思ったね、ありがたいよね。自分にできることって『なべやき』を焼くことだけ、そう思ったらやるしかない。弱火で20分…すべてはここから始まったの。弱火で20分というのは『なべやき』の焼き方。ボランティアの全国の若者が“おいしい、おいしい”って2つも3つも食べるから、“胃を悪くするからそんなに食うな”って言うと、“なんか懐かしい気がする”って喜んでくれたの。いろんな人に喜ばれたことが何よりの幸せだよね」

 震災後、お母さんと同じような思いを持つ方々を何十人、何百人と見てきました。“これしかできなくて、ごめんね”と恐縮しながら、庭の畑で取った野菜をボランティアに渡す被災者の姿…今の自分ができる精一杯の恩返しは何だろうと必死に考える人々の中に、人間の尊さのようなものを感じてきました。

 

 その後、末崎町(まっさきちょう)にある、6年前に取材した水産加工会社を再び訪ねました。近年、大船渡はサンマの水揚げ量が本州一で、この会社では新鮮なサンマを冷蔵して全国に出荷しています。

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前回の取材では、工場の天井付近に津波の痕跡が残る中、社員みずから生産ラインを修理し、施設の7割ほどを再開させていました。当時60代だった工場長の男性は、こう言いました。

 「ホントはもうだめかなと思った…全部自分たちで修理して、使っている状態だから。工場を被災前に戻すことが夢です。製氷設備がまだできていないし、加工場もまだ足りないんで、その点ですかね」

 あれから6年…。冷蔵施設も新しく完成し、工場は震災前の状態にほぼ戻りました。しかし、去年と今年のサンマの水揚げ量は、震災前より桁一つ減っていて、深刻な不漁です。加工業者は原料不足と価格高騰に直面していますが、売値に転嫁するにも限界があります。まして震災後の、あるいは震災前からの負債を抱える業者も多く、工場長はこう言いました。

 「復旧は、自分でも“やり切ったなぁ”っていう感じかな。サンマの水揚げだけは、もう自然のものだからねぇ…神頼み、ホントに神頼み。水揚げアップを願っています。こういう魚の仕事をやっているのが楽しみだね。みんなにおいしい魚を食べてもらいたい、それが励みになっているのかな」

 そして、吉浜(よしはま)地区に行き、ウニやアワビの漁を行う70代の女性にも話を聞きました。女性は漁業の他に各地のイベントに出店し、ホタテやフノリ、ワカメといった地元の海の幸を使ったラーメンを提供しています。

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取材期間中も、隣接する陸前高田(りくぜんたかた)市で行われた “三陸花火大会”に出店し、多くのお客さんがそのおいしさに満足していました。現在はアワビの漁期で、吉浜のアワビは高級品として海外でも有名です。漁から戻った女性は、スタッフにバケツ一杯のアワビを見せてくれました。震災後は、壊れた船を修理して使ってきたそうです。

 「ホタテとかシュウリ貝をいっぱい使っていた…ラーメンのだしをとるためにね。それが震災で全然だめになっていたから、すごく大変だったけどね。それでも結局、ワカメとかホタテは吉浜のものにこだわってしまうんだよね。どうしても吉浜産でないとだめだと思うんだよ。吉浜のものが一番おいしいと思っているから。イベントがあったらお店を出したい…どこでも行くから声かけて(笑)」

 最後に、吉浜地区の高台で“日本一小っちゃな本屋さん”の看板を掲げる家を訪ねました。

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築150年の民家の玄関脇に、震災体験などをもとにした絵本が4冊置かれています。この家に住む80代の女性の震災体験を教師の息子が絵本にしたそうで、女性は娘と2人で入院中の夫を見舞っている時、津波に遭いました。病室は天井ギリギリまで浸水し、浮き上がるベッドにつかまりながら必死に耐えていると、奇跡的に水が引いたそうです。一命をとりとめたご主人は、1か月後、肺炎で亡くなりました。

 「娘がね、“親子3人でここで死ぬべし”って言ったのね。3人で死ぬんだという言葉が胸に刺さってね…しばらく考えて絵本にしたの。ベッドの近くに風呂敷包みが浮いていて、中身が毛布だと思ったから、拾って抱えて屋上に避難したんだけど、開けたら全然濡れていなくてね。その毛布でじいちゃんをくるんだりして、寒さをしのいで助かったの。じいちゃんの供養になるから、絵本を出してよかったと思っています。じいちゃんには、“まだ元気ですよ、これからも元気でいるから、家族みんなを見守って下さい”って毎日拝んでいます」

 去年この番組で大船渡市を取り上げた際も、被災の痕跡を残す遺物や写真を集めて、個人で伝承施設を作った男性が出演しています。また岩手県には、昭和三陸津波の自らの体験を紙芝居にして、全国の学校などで40年近く伝え続けた田畑(たばた)ヨシさん(享年93)という方もいました。各地の語り部をはじめ、個人での伝承は非常に地味ですが、風化を抑止する強力な手段です。