【キャスター津田より】12月16日放送「首都圏」

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 今回は、年に1回の“首都圏編”です。原発事故後、国の指示で避難を余儀なくされ、東京など首都圏に住む息子や娘、友人知人のもとに避難した人は大勢います。事故直後、“直ちに影響はない”と繰り返す政府発表を信じて、すぐに戻れると思って避難したものの、2年が過ぎ、3年が過ぎ、子どもを持つ親はさすがに生活の安定を考える必要に迫られました。仕事を失い、避難先での求職や商売の再開も必要になりました。年を重ね、通院が必要になった人もいます。様々な事情から、避難指示の解除を待たずに避難先での定住を選択した人がたくさんいるのです。今年8月1日に調査した復興庁のデータによると、福島県外に住む避難者は20,704人で、そのうちほぼ半分は、東京と近隣の6県に住んでいます。

 はじめに、楢葉町(ならはまち)で営業していたそば店が再開していると聞き、埼玉県鳩山町(はとやままち)を訪ねました。埼玉県に住む福島からの避難者は約2,300人です。楢葉町で人気店だったその店では、店主と妻、長女とその息子が各地を転々と避難し、鳩山町が被災者支援で用意した公営住宅に入居しました。店主は、20代の長女と未就学の孫が安心して暮らせるようにと、避難指示解除を待たずに鳩山町での定住と開店を決心。2015年、店は再開しましたが、開店の3か月後にガンに倒れ、その年のうちに他界しました。店主の妻がそば打ちを猛勉強して、1年間の休業後に再びオープンし、今では地元の繫盛店です。接客を担当する長女の塚越玲奈(つかごし・れな)さん(37)はこう言いました。

「父には家を建てるのもストレスだったでしょうし、“本当に鳩山でよかったのかな”って、ずっと言っていました。私は海が好きで楢葉町の海を見たいなって思うんですけど、息子は覚えてないんですよね…避難した時は3歳だったので。楢葉にいる時はその良さに気づけなくて、ただの田舎町って感じだったんですけど、水とか空気がおいしいとか、自然が豊かだとか、埼玉に来て、改めて福島が好きになりました。地震も、父が亡くなったのもつらかったですけど、家族で乗り越えて生活しています」

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 次に、東京都三鷹(みたか)市に行きました。東京には、約2,300人の福島県からの避難者が暮らしています。三鷹市で整体院を営む紺野芳雄(こんの・よしお)さん(72)は、夫婦で浪江町(なみえまち)から避難しました。30年間、浪江町で接骨院を続け、避難指示により息子らが住む東京へ避難しました。放射能への不安が消えず、帰還は諦め、三鷹市に自宅を建てて整体院を開きました。

「こっちでのストレスは、あまりにも東電がふざけているので、謝罪しないので、これが一番のストレス。もう怒り心頭で、ダンプカーで土を持ってきて、(東電本社に)ばらまいてやろうかと思っていました。いまだにストレスだよね。ただ、たまたま昔の戦争のドキュメンタリーを見た時、赤紙1枚で戦争に引っ張られた人が、いまだに遺骨すら帰ってきていないんですよね。僕らは賠償金をもらって仕事ができますよね。これは文句言ったら、ばちが当たると…それで考えを変えたの。隣の人も親切で楽しいですし、今はここにずっと住まわせてもらうのが一番です」

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 また東京では、世田谷区にある進学塾も訪ねました。塾長は、浪江町から避難してきた佐々木瑛永(ささき・あきひさ)さん(29)で、5年間の塾講師の経験を生かして独立・開業しました。震災当時は高校1年生で、国からの避難指示を受け、母と妹とともに千葉県船橋(ふなばし)市にある単身赴任中の父のアパートへ避難しました。避難指示解除が一向に見通せない中、父は子どもが安心して暮らせるようにと千葉に定住することを決め、市川(いちかわ)市に新たな自宅を構えました。佐々木さんは千葉県内の高校に転校。大学を卒業し、現在は塾経営の傍ら、高齢化した浪江町の役に立ちたいと、大学院の博士課程で高齢者の健康寿命について研究しています。夢は、祖父母が浪江町で経営し、町民の社交場にもなっていたスポーツクラブの再建だそうです。

「浪江はゆっくりしていたんですが、急に船橋とかベッドタウンに来て、朝の通勤ラッシュは想像できないくらいにぎゅうぎゅう詰めだったし、正直、何も考えられないというか、この先どうなるんだろうって不安が大きかったと思います。勉強も頑張っていたと思うんですけど、震災があって糸が切れたというか、ほぼ勉強しなくなりましたね。ただ、いろんな人と話していく中で、自分のことを話す際に結構福島の話が出て、自分にとって浪江は何なのかって考えた時に、自分の故郷という意識がだんだん大きくなって、町のために何ができるのかを考えるようになって、また大学進学を考え始めたんです」

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この後、スタッフは埼玉県和光(わこう)市に行き、福島第一原発がある大熊町(おおくままち)から避難した、松永郁子(まつなが・いくこ)さん(71)にお会いしました。海の近くにあった家を津波で流され、全財産を失いました。親せきを頼って東京へ避難し、文京区のマンションに入居。自宅があった場所は除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の敷地となり、土地は国に売却しました。帰る場所を失い、家と土地を探して和光市に一戸建ての住宅を購入し、現在は夫と次男との3人暮らしです。

「震災の後、5月の初めかな。娘が来た時に“お母さん、帰れるような所じゃないし、もしかすると帰れないかもしれないよ”という話をしていたので、もう受け入れざるを得ないですよね。気持ちの整理はついていません。つくわけがないですよね。まさか、こんな都会に逃げてくるとは思わないし、あのまま大熊にいられるものだと思っていたので…。大熊の家だと、太陽が海から上がってきて、紅葉した山にお日様が沈むとき、真っ赤に染まって消えるのね。“あの生活って最高だったんだね”って言いながら、時々、旦那と話します。今は、ここでの友達がいないっていうのが、一番寂しいです」

 さらに神奈川県川崎(かわさき)市に移動し、楢葉町出身の武内英子(たけうち・えいこ)さん(84)にお会いしました。神奈川県内には、約1,200人の福島県民が避難しています。武内さんは川崎市に住む妹を頼って避難し、その後、アパートで一人暮らしを始めました。複数ある持病の通院のため、帰還を断念。6年前、川崎市内にマンションを購入し、楢葉町の自宅は解体したそうです。武内さんは、ずっと楢葉町に置いていた住民票を、最近、川崎市へ移そうと決心しました。

「5年ぐらいは睡眠薬を飲んでいました。楢葉と川崎のどっちに住むべきか、楢葉の家に置いてきた物をどうするか、いろんな心配ごとがあって、もう本当に無我夢中でした。やっぱり楢葉は自然ですよね。しばらく、“うさぎ追いし…”の『ふるさと』が歌えなかったです。本当、楢葉町ってあの歌の文句のとおりなので、やっぱり3年ぐらいはなかなか声が出なかったですね。この歳なので、住民票は自分が住んでいる所にないと、何かあった時に死亡診断書も何も出てこないと聞いて、大変みたいなんですね。何があるか分からないので この先、みんなに迷惑をかけないようにしたいと生活したいと思います」

最後に、同じく神奈川県の横浜市旭(あさひ)区に行き、南相馬(みなみそうま)市小高(おだか)区から避難した、元新聞記者の村田弘(むらた・ひろむ)さん(81)の自宅を訪ねました。記者時代は東京本社を拠点に支局勤務も経験し、定年後は田舎で暮らそうと夫婦の故郷である南相馬市へ帰りました。妻の実家を退職金で修繕し、果樹園だった荒れ地にモモやリンゴの木を植えて栽培を復活させ、晴耕雨読の日々を送っていました。その後、国から避難指示が出て神奈川県に住む子どもたちの家を転々とし、現在は妻と次女夫婦との4人暮らしです。避難生活で2度の脳梗塞を発症し、妻の通院もあるため帰還を諦め、横浜への定住を決めました。2013年9月、村田さんは“福島原発かながわ訴訟団”を組織し、自ら代表を務めて、国と東電の責任を問う損害賠償請求訴訟を起こしました(控訴審判決は2024年1月)。今なお、テレビを見ても、おいしい物を食べても、心からは楽しめなといいます。

「なんか足が地に着いていない状態ですよね。現役の時に転勤もしましたが、そこに住んでいる実感はありました。けど、理由もなく避難しているということは、ふわふわ宙に、浮き草みたいな感じが…それはいつになっても変わらないですね。前はNHKの朝ドラも必ず見てたんだけど、全く見る気がなくなった…自分の気持ちとドラマの世界のかい離がものすごく大きいんです。国が原発を推進して、結果としてこれだけの被害が出たんだから、まずはその責任をきちんと認めろと、それが第一歩だろうと…。そこがないもんだから、(今の状態に)納得できないんですよね」

いま横浜で暮らす理由が、“自然災害のせい”だけでは納得がいかない。原発を推進し、電力会社の管理監督を怠った国にも責任があるはずだ…81歳のその声には、元ジャーナリストの矜持が込められていました。国と東電の責任を問う損害賠償請求訴訟は全国各地で起きていて、一部の訴訟は2022年6月に最高裁の判断も出ていますが、国の責任は認められませんでした。

【見逃した方はこちらで】
NHKプラス 東北プレイリスト
https://plus.nhk.jp/watch/pl/f43cf92c-fd9a-4bb2-b6fd-9f7f57486cbd