チッソ元従業員 抱えた葛藤といまの思い
- 2024年03月26日
今回、チッソ元従業員の山下善寬(よしひろ)さんにお話をうかがいました。
山下さんは、チッソで働きながらも、患者支援に長年あたってきた方です。
水俣の町の中核だった化学メーカーチッソの工場での実態や、従業員がどのように水俣病と向き合ってきたのか。
水俣市にある展示資料館で、山下さんが抱えてきた葛藤といまの思いを聞きました。
(NHK熊本放送局アナウンサー 佐藤茉那)
チッソは憧れだった
水俣市に住む山下善寬(やました・よしひろ)さん、83歳です。
昭和31年。地元の中学校を卒業後、チッソ水俣工場に就職しました。
かなりの人が高校に行くよりも、という形でチッソを受験しましたので。赤飯炊いたりなんかするというか。近所の人呼んでごちそうするとか。そういうのもあったぐらいのですね。やっぱりチッソに入れたことは誇りに思えるというか。
水俣病が公式確認されたのは、昭和31年5月。
入社した直後のことでした。
山下さんは、水俣病の原因を分析する「特殊研究室」に配属され、魚や実験用の猫などの体内に含まれる水銀を分析しました。
しかし、水銀分析用の動物は、番号だけがつけられた状態で渡され、その経緯や詳細は分からないようになっていたといいます。
どういう経歴で、今のサンプルを分析しているのか全然わからない。それをまた今度報告するときには、預かった何番のサンプルは水銀が幾らありましたと。そういう形で報告をしていたと。
(排水から)有機水銀が出ることは研究してる方たちは、当時知らなかったんですか?
幹部はですね、おそらく知ってたんじゃないかというふうに思うんですけども、従業員というか作業員は全然知らないところで作業させられたと。
そんなある日、研究室の同僚から、工場排水から抽出された有機水銀をみせられ、初めて、チッソに原因があることを知りました。
しかし、チッソがその実験結果を公表することはありませんでした。
政府が原因を公表するまでの5年以上、山下さんも、周囲にこのことを話すことができなかったといいます。
みんなが知らないことを知ってしまうわけですから。
しかしそれをしゃべると解雇されると。
チッソから解雇されるのは、それだけ大きなことだったんですか?
そうですよね。
というのはその当時は、仕事はあんまりなかったし、水俣ではチッソが一番大きくて、チッソの関連会社いろいろあったけれども、そこまでチッソが権力を持っていまして。チッソをクビになることは非常に怖かった。
転機となったのが、昭和40年におきた新潟水俣病でした。
山下さんは、患者の助けになりたいと、償いの思いで支援活動に加わるようになります。
職場で担当しててチッソが原因だということが分かったけれども、それを言わないまま、言えないままいたと。それがやっぱり、事実は事実として伝えんといかんと。患者支援に向かっていったという歴史があります。
山下さんが所属するチッソの労働組合は、企業内にありながら、水俣病を告発。
会社と激しく対立しました。
その組合活動の象徴となったのが、いわゆる「恥宣言」です。
チッソに原因があることを認めて水俣病患者と向き合う決意をし、会社にも認めるよう訴えました。
今まで労働者として何もやってこなかったことを恥として、今後人間として労働者として水俣病の患者さんを支援すると。
そういうのを今すべきじゃないんじゃないかという話もあるなかで、やっぱりこれは労働者として人間としてするべきだと大会で決議をしたわけですね。
患者支援にあたった組合員たちは、チッソから、賃金の大幅な削減、過酷な現場への配置転換や自宅待機を命じられるなど、不当な扱いを受けました。
裁判では、組合員たちが、工場でのずさんな排水処理の状況など、内部にいなければわからない実態を証言。患者が勝訴する判決につながりました。
24年前にチッソを定年退職した山下さん。
現在は、自身も、ふるえなどの症状があると言います。
12年前、水俣病患者の認定申請をしましたが棄却され、現在も認定を求め続けています。
いまなお多くの問題を抱える水俣病。
チッソが正面から向き合うことを望んでいます。
私はやっぱりチッソとしては「いろいろ長い間ご迷惑かけた」というふうにまず患者さんに謝る事。それから(水俣)市民 に謝ること。まだ見つかってない患者さんについてもね、調査をして救済しますというような形になればいいなと。
Q今後の教訓、同じようなことが起こらないためには、どういうことが必要だと思いますか?
やっぱり真実を知ること。真実を知ったならば行動することが必要じゃないかというふうに思うんですね。それとやっぱり誤りと誤りと認める勇気というかね、それを片一方で必要じゃないかというふうに思います。
取材後記
今回、山下さんの中学の同級生で、チッソ元従業員の同期である石田博文さんにもお話をうかがいました。
石田さんは、裁判で患者を支援する証言をしたほか、労働組合の「恥宣言」を、実際に大会で読み上げた方です。
恥宣言をしたあとに、患者の方から「自分たちの出世を犠牲にしてまで私たちのために言ってくれて本当にありがとう」と感謝のことばを言われたことを、何十年も経ったいまでも、涙を流しながらお話しされていました。
当時、チッソに対して意見を言うことは、相当勇気のいることだったのだと痛感しました。
労働組合の記録を後世に
山下さんは、現在、所属していた労働組合の資料の整理と保存作業を、
チッソ元従業員の緒方さん・徳永さんとともに進めています。
誰が写っているのかを確認して紙に詳細を記入する作業や、
写っている情報をヒントに、執務日誌や組合の資料などから写真が撮られた年代を特定する作業など、
何万点もの資料を一つ一つ整理しています。
この資料は、当時を知る人がいなくなった未来にも残り続け、私たちに大切なことを伝えてくれると感じます。
今回取材をしてみて、
水俣病の問題については、患者家族の話はもちろんのこと、チッソ内で起きたことの記録や証言を聞いて、その教訓を考えることも大事だと痛感しました。
それぞれ違った水俣病との向き合い方があって、そこには水俣病に限らず、社会で起きているあらゆる問題に通ずることがたくさんあると思います。
いろいろな角度から水俣を見つめて考えることが大切だと感じました。