「水俣」を撮り続けた写真家・桑原史成
- 2023年02月01日

60年以上にわたり水俣病を記録し続ける写真家・桑原史成さん。
去年10月には、新たな写真集「いのちの物語 水俣」を出版しました。
なぜ桑原さんはこれほど長きにわたり、水俣に向き合い続けているのか? 知りたいと思い、お会いして話を聞いてきました。
(熊本放送局アナウンサー・佐藤茉那、ディレクター・佐々木駿平)
このシリーズの過去の記事はこちらからご覧いただけます。
https://www.nhk.jp/p/ts/7P5MRK4ZKV/blog/bl/pjDYqMzdwo/bp/p21L00bGxV/
60年目の写真集 “水俣”との出会い

漁業で生計を立てていた、水俣病患者の手。
水俣病の現実を現在に伝える、力強さを感じる写真。
この写真も去年出版された新しい写真集、「いのちの物語 水俣」に収録されている一枚です。

撮影したのは東京在住の報道写真家、桑原史成さん(86)。桑原さんは水俣病をはじめ、ベトナム戦争や旧ソ連の崩壊など、国内外で撮影を続けてきました。
「ざっと100万回ぐらいはシャッターを切ってるんじゃないか」
桑原さんが水俣病と出会ったのは、写真家を志し、追いかけるべきテーマを探していた23歳の時。
島根県の実家への帰省のため乗っていた夜行列車の中で、偶然目にした週刊朝日の記事がきっかけでした。
「めくりかけたときに、『水俣を見よ』という十数ページの掲載記事ですけどね、このとき「ああ、このテーマでいこう!」と決心したんですよ。もう1・2ページ読んだら判断しましたね」
水俣で目の当たりにした現実
写真家としての覚悟
雑誌の記事を見た2か月後には、水俣に飛び込んだ桑原さん。
しかし、取材で訪れた病院で目の当たりにした現実は、あまりにも過酷なものでした。

「それは悲惨ですよ。あれは本当にかわいそうだ。どうお救いしていいのか分からないですけどね。つらいですね。見るだけでも」
それでも桑原さんは、写真家として自分ができることを考え、カメラを向け続けました。
「写真を撮る行為は、僕は冷酷だと思うんですよ。どんなところでもね。だけど、それを否定したらこの職業は成り立たないですから、それは鬼になるというか、撮ることが当然になる。是が非でも記録する。1枚でいいから撮ると」

水俣で出会ったある家族
病と隣り合わせの日常
桑原さんは水俣で撮影を続ける中、ある家族と出会います。
漁業を営んでいた船場(ふなば)家です。代表作の一つである「水俣病患者の手」を撮影した船場岩蔵さんは、水俣病により入院。息子の藤吉(とうきち)さんは、桑原さんが訪れた1年前に水俣病が原因で34歳という若さで亡くなっていました。
桑原さんは藤吉さんが入院していた、病院の壁にカメラを向けました。

「亡くなる間際の断末、苦しみを壁に手を当てて痕を残したというか、もがいた。それは大変な象徴的な出来事だと僕は思って(撮った)」
水俣病の過酷な現実を記録し続ける一方で、桑原さんのカメラは船場家の“全く異なる側面”も捉えていました。

「長女、男2人の3人を連れて見舞いに来るんですよ。男の子はじいさん、ばあさんの病院食をつつくわけですよ。じいさんが見て喜んでましたね、子どもたちが一生懸命食べるのを。ユーモラスだったですね」
水俣病という苦しみのすぐそばに “どこにでもある家族の日常” が広がっていたのです。

「子どもたち3人、長女、男の子2人の歩いているところとか、学校、幼稚園へ行くところとかいろいろ撮らせてもらって」
今も続く船場家との交流
今回、写真に写っていた船場家の人たちが、津奈木町で暮らしていることが分かりました。
壁に爪痕を残し若くして亡くなった藤吉さんの妻・恵美香さん、88歳。
病室でおじいさんのご飯を食べていた当時4歳の泉さんは、66歳になっていました。


(船場泉さん)
当時4歳くらいでカメラとか全然気にしなくてですね

(佐藤)
日常生活の中で桑原さんが気付いたら撮っている?

(船場恵美香さん)
そうです。私たちはもう何も気付かんとにですね
出会ってから60年以上経った今も、船場さんと桑原さんの交流は続いています。

(船場恵美香さん)
家族ぐるみのお付き合いをさせてもらって、本当幸せです。ここで焼酎を飲んだり。ふたりでですね
桑原さんにとっての「水俣」
写真への信頼
半世紀以上にわたり水俣に通い、記録し続けた桑原さん。
向き合い続けた水俣は、いつしか “かけがえのない場所” になっていました。
「(水俣は)僕の大事な故郷になりましたね。生きた故郷というような表現でね、水俣はあるな。過去の故郷じゃなくて現代の故郷という感じが」
桑原さんの写真は、水俣病がごく普通の家族の日常に突然起きた出来事であること、そしてその水俣病と長い時間向き合い続けてきた人たちがいることを教えてくれました。
「(家族の)生きざまを撮り続けることが一つのテーマの終着というか終結というか、まとまっていくと思いましてね、追っかけますよ」

86歳になった今も、水俣などで “現場” を撮り続けている桑原さん。
その背景には、写真の「記録」への信頼がありました。
「写真は僕は記録だと何回も言ってますけどね。そして事実の記録は正確に、数は少ないけど伝わっていくという、自負というかな、信頼は持ってるんですよ。信じているんですよ。事実の本物の記録は末代まで、たぶん生き続ける生命力があると思いますよ」

取材後記
これだけ有名な写真を沢山残している桑原史成さん。「当時のことを何も知らない私が取材しても大丈夫だろうか?」と不安がありましたが、桑原さんはとてもお話し好きで親しみやすい方で、いろんなことを教えてくださいました。
撮影時のエピソードなどを聞きながら当時の水俣を想像し、患者とその家族の方々に思いを馳せました。加えて今回の取材では、患者家族の船場さんとも会ってお話ししたことで、ごく普通の家族を突然襲った水俣病の恐ろしさをより強く感じました。
私の知らない水俣の側面をもっと見ていきたいという思いが強くなりました。今後も色んな方にお話を聞きたいです。(アナウンサー 佐藤茉那)
『水俣病 写真』と検索して出てくるものの多くは、過酷な現実を映した写真。私自身も教科書などを見ても水俣病というと、モノクロの世界の中から出てこない、“過去の出来事”という印象を持っていました。しかし、桑原さんが映していたように、その背景には私たちと変わらない“家族の日常”がある。だからこそ、その写真の「記録」はよりリアルに、歴史と地続きの私たちに「2度と起こしてはならない」と訴えかけているように思いました。特に印象に残っているのは、桑原さんが写真の力を「信じているんですよ」と最後に語ったインタビュー。その信念があるからこそ、長く一つの現場に向き合い続ける桑原さんの姿があるのではないでしょうか。私自身も映像の力を信じ、何かを伝えるため、残すためにできることを真剣に考え続けなければ…と桑原さんの鋭い眼差しを見て感じました。
(ディレクター 佐々木駿平)
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