『らんまん』万太郎の幼なじみ、佑一郎って史実では・・・?
- 2023年07月06日
朝ドラ『らんまん』で、万太郎と再会した名教館時代の学友・広瀬佑一郎(中村蒼)。第69回の放送では、万太郎にアメリカへ留学することを告げました。佑一郎がどのような人物なのか、史実で同じような経歴を持つ人を探りました。
(高知放送局 リポーター 五十嵐優衣)
万太郎と佑一郎
万太郎と佑一郎は幼少期、共に名教館で学んだ学友でした。ふたりは久しぶりの再会を喜び合いました。
ドラマの中で佑一郎は、北海道の札幌農学校で土木工学を学び、その後、東京の工部省で鉄道を敷く仕事をしていると話していました。
第69回の放送では、アメリカに渡り、ミシシッピ川の治水工事に従事することを万太郎に告げました。
高知県出身で、佑一郎と同じような経歴の人物がいないか探りました。
佐川町出身の廣井勇
佐川町にある「青山(せいざん)文庫」の学芸員、藤田有紀さんに聞きました。
藤田有紀さん
「高知県佐川町出身の廣井勇は、“日本の近代土木の礎を築いた”と言われています。江戸から明治へと時代が変わる中、新しい時代で生きていくために技術者になる道を選び、日本の近代土木の発展に貢献しました」
廣井勇は、万太郎のモデルとなった牧野富太郎博士と同じ年に、同じ佐川町に生まれています。廣井勇は、『らんまん』の佑一郎と同じく札幌農学校を卒業し、のちにアメリカに留学しています。どのような人物なのでしょうか。
学問のため上京 札幌農学校へ
廣井勇は明治維新後に没落した武士の子で、早くに父親を亡くしました。11歳の時に義理の叔父を頼って上京し、私塾で英語や数学などを学びました。その後、最年少で札幌農学校(現・北海道大学)への入校を許可されます。
藤田有紀さん
「札幌農学校では、当時、北海道を開拓するための高度で専門的な技術と知識を学ぶカリキュラムが組まれていました。学びながら給与が支給され、卒業後は5年間の雇用が前提となっていました」
こちらは開校当時のカリキュラムです。植物学や獣医学など、多岐にわたる専門的な授業が行われていたことがうかがえます。
廣井勇は2期生として入校しました。同期生には内村鑑三、新渡戸稲造などがいました。
アメリカ・ドイツ留学
卒業後は鉄道建設工事や橋りょうの架設などの仕事をしながら留学費用をため、当時、土木技術の先進国だったアメリカへ自費で渡りました。
アメリカでは、ドラマの佑一郎と同じく、ミシシッピ川の改修工事に従事し、昼間は実務経験を積み夜や休日は学術研究にあて、学び続けたそうです。
こちらは、その頃に廣井勇が書いた、橋りょうの構造に関する英文の著書『PLATE-GIRDER CONSTRUCTION(プレート ガーダー コンストラクション)』です。
ニューヨークにある専門書の出版社から出されました。この著書は高い評価を得て、多くの技術者がバイブルとしたそうです。今でも理工系の大学に置かれているといいます。
その後、ドイツへも留学し、大学で土木工学や水理工学を学び、工学士の学位を取得しています。
日本初のコンクリート製防波堤
およそ6年の外国留学を経て帰国後、28歳で札幌農学校の土木工学科教授に就任。後には東京帝国大学でも教授となり、多くのすぐれた門下生を輩出しました。その一方で、数々の港湾工事にも関わり、日本を代表する技術者として名をはせます。中でも代表的なのは、小樽港北防波堤です。
そのころ小樽港では、冬の強風に耐えうる強度を持った防波堤の建設が急がれていました。廣井は、当時日本では成功例がなかった、水中に沈むコンクリートブロックを斜めに積み上げる方法を採用し、明治41年に北防波堤を完成させました。
また、防波堤の建設において、海水に強いコンクリートの開発が重要だと考え、使用する材料の質や配合などを変えながら実験・研究を行い、海水の影響を受けないコンクリートの製造に成功しました。この時の試験体の実物が、高知県佐川町の「うえまち駅」に展示されています。
こうして作られた北防波堤は、100年以上たった今も、小樽港を守っています。
多岐にわたる功績
さらに、廣井は若手の育成にも尽力したといいます。
藤田有紀さん
「廣井は札幌農学校および、東京帝国大学の教授として多くの優れた門下生を輩出しました。その多くの門下生たちが日本の近代土木をけん引し日本のインフラを築いた、といわれています」
また、英語の専門用語を和訳をした『英和工学辞典』の編さんを行い、近代土木の普及に努めました。『英和工学辞典』は明治41年に初版が出版され、その後も訂正や最新用語の追加が続けられ、廣井は亡くなる当日まで、編さん作業を行っていたといわれています。
藤田有紀さん
「牧野博士と同じ年に同じ場所で生まれ、ふたりとも日本を背負って一生懸命研究を続けました。『らんまん』をきっかけに、廣井勇の生き方や功績を知ってもらえたらうれしいです」
取材を終えて
亡くなる直前まで土木技術の発展に熱心に取り組んだ廣井勇の姿は、同じように、生涯を植物の研究にささげた牧野富太郎博士と、どこか重なるところがあります。
同じ時代を生き、共に日本の発展に貢献した佐川町出身のふたりに、思いをはせてみてはいかがでしょうか。
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