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『らんまん』 高知の植物 なぜ海外で命名?

  • 2023年06月26日

『らんまん』で、万太郎がロシアの植物学者に植物標本を送り、田邊教授の「戸隠草(とがくしそう)」がメギ科の新属に、マルバマンネングサが新種と認められました。
しかしなぜ高知の植物が海外で名付けられたのか、なぜ“発見者”と“命名者”がいるのか。
「学名」をつけるルールや意義、それにまつわる牧野博士たちの悲喜こもごものエピソードを高知県立牧野植物園の専門家に聞きました。
(高知放送局 アナウンサー 千野秀和)

植物に「学名」がつく意味

ドラマの中で、新種として「学名」がついたマルバマンネングサ。もともとの「マルバマンネングサ」という名前は、日本国内で習慣的に呼ばれてきた「和名」で、今回万太郎の活躍で学名がついたことにより、植物分類学の世界でも“佐川のぷにぷにした多肉植物”の存在が認められた、というわけです。

マルバマンネングサ

学名をつけるには、それまでに命名されたどの種とも違う植物と証明する必要があります。そのためには、特徴や似た種との区別を明らかにした「記載論文」を発表し、その発表者が命名者となるのが一般的です。

またこのとき、新種となる植物の標本(タイプ標本)を必ず提出します。これは永久保存され、その後の研究にも役立てられるとても重要なものです。万太郎の標本によって学名がついたということは、その標本が証明に足る情報量を備えていたことを意味します。

“命名者”への高いハードル

“命名者”になるということは、世界共通の“名付け親”になるわけですから、ハードルは高いです。世に出した「論文」と「標本」がともに新種であることを証明するに足るものと認められて初めて、“命名者”となります。また学名には必ずラテン語でつける、属名と種名の2つでまとめるなどのルールがあり、その知識も必要です。
これを踏まえると、今回、万太郎は論文を提出した訳ではないので“命名者”ではなく、あくまでひとつの植物を「新たな種」として発見し、その証となる標本をそろえた“発見者”ということになります。
ちなみに、モデルである牧野富太郎博士も、実在のロシアの植物学者、カール・ヨハン・マキシモヴィッチ博士に標本や植物図を送っていて、現実世界のマルバマンネングサの学名はドラマと同じ
Sedum makinoi Maxim. です。
マキシモヴィッチ博士は「makino」という名字を学名に採用(献名)しましたが、植物の命名のルールでは必ずしも発見者の名前をつけるものではありません。実際の牧野博士は見事な植物図を褒め称える手紙を受け取っていたので、そうした努力や才能に報いたいと思ってもらえたのでしょうか。

マキシモヴィッチ博士

ドラマでは、初の快挙に一時は大喜びした万太郎ですが、自分が命名者になれなかったことに悔しがります。すさまじい向上心、そして「日本のすべての植物を明らかにする」という自分の夢のために、「名付け親」になりたいという思いには大いに共感するところです。

牧野博士がマキシモヴィッチ博士に贈った標本

高知県立牧野植物園では、1999年~2000年にかけて特別展「牧野富太郎とマキシモヴィッチ」を開催。
その中で、ロシアに保管されている貴重な植物標本や記載文などが紹介されました。

特別展の図録

いま、国際情勢により現物を見ることは難しいですが、牧野博士がマキシモヴィッチ博士に実際に送った貴重な標本を、特別展の図録からご紹介します。

学名に牧野博士の名がつくきっかけとなったマルバマンネングサの標本
(1885年 牧野博士が佐川で採集)
ジョウロウホトトギス(1885年 牧野博士が横倉山で採集)
この植物図が日本植物志図篇のトップを飾った
ヒメキリンソウ(1885年 牧野博士が土佐、手箱山で採集)

牧野博士は、マキシモヴィッチ博士に複数回にわたり植物標本を送っていて、その数は800点にものぼります。実際の標本を見ると、博士の植物への情熱や真摯(しんし)に向き合う姿勢を感じます。

命名権は早い者勝ち!

植物の分類のためにつけられる「学名」。これには先取権の原則というルールがあります。

先取権の原則
<同一の種に別々の人物が異なる学名を命名して記載論文を発表した場合、
                     原則として先に発表された学名が有効となる>

つまり、世界で最も早く論文を発表し、かつ新種と認められるだけの標本をそろえて、はじめて命名者となれるのです。

牧野博士は、25歳の時に植物学教室の仲間と「植物学雑誌」の発行をはじめますが、はじめは植物図を載せることに注力していました。やがて、英語で植物の特徴などを説明する「記載文」をつけるようになり、ここから学術誌として国内外で認められるようになります。26歳の時にはドラマでも描かれた石版印刷による「植物誌図篇」を発行。のちの「牧野日本植物図鑑」につながる、日本の植物図鑑のはしりとして、国内外で高い評価を得ました。

牧野富太郎博士

牧野植物園によりますと「新種などの発表は手軽に印刷・発行できた植物学雑誌で行われていました。一方の石版印刷の植物誌図篇は手間がかかります。『らんまん』で万太郎が「日本の植物すべてを明らかにする」と誓っていますが、これを図篇で実現するには、何百年とかかります。図篇は、あくまでじっくりと図を見てもらうための図鑑的役割で作られていました」。
ドラマでは、“命名者”になれなかったと悔しがる万太郎を見て竹雄が「雑誌に発表したらえいがじゃったら」と気づき、寿恵子もそばにあった雑誌を手に取り万太郎に「雑誌あります!」と背中を押したシーンが思い出されます。
いち早く発表した人が命名者になるという意味では、「分冊」の雑誌としてこまめに本を出し、やがて図鑑として完成させるという万太郎と寿恵子が編み出した“八犬伝方式”は、「植物学雑誌」ですばやく発表し、数々の植物を分類・命名した牧野博士の方法とも重なり、理にかなったものと言えます。

ものに名前がなかった時代

万太郎の母ヒサが好きだったバイカオウレン。でも、彼女はその名前を知りませんでした。当時、世界には名前のないものがあふれていたのです。
それを変えたのが、カール・フォン・リンネなどの学者。
彼らが、植物や動物、鉱物などあらゆるものに名前をつけられる仕組みを作りました。分類学です。
植物でいうと、18世紀から19世紀にかけて、多くの新しい植物種が発見され、分類学が急速に進歩しました。新しい分類体系や分類法によって、植物を「種」や「科」などで系統立てて分類するルールが確立していきます。
また植物がどのように地理的な領域に分布しているか、地球上の異なる地域の植物相(フローラ)の違いや共通性など多様性の研究も進みました。
さらに顕微鏡の普及で細胞や組織の観察が可能になり、植物の解剖学的な研究が進み、植物の進化、遺伝的な変異や種の形成に関する理論も唱えられはじめました。

田邊教授が歓喜した「トガクシソウ」にまつわる話

さて、ドラマの中で、マキシモヴィッチ教授の手紙を読んだ田邊教授が「私のトガクシソウ(戸隠草)が、メギ科の新属だと認められた!」と喜んでいましたね。

『らんまん』東大植物学教室の田邊教授

このトガクシソウも、史実で日本で発見された植物として国際的に認められていますが、命名権争いを象徴する植物であり、牧野博士の功績にも大きく関わっているのです。

牧野博士が通った東京大学植物学教室の矢田部良吉(やたべ・りょうきち)教授が、マキシモヴィッチ博士にトガクシソウの標本を送り、メギ科の新属として
Yatabea japonica Maxim. という学名をつけようということになりました。
しかし、同じトガクシソウ(トガクシショウマ)をより早く見つけていた人物がいました。当時、植物学教室に出入りしていた伊藤篤太郎(いとう・とくたろう)という、いわばフリーランスの植物学者です。伊藤は、このままでは矢田部教授の名がつけられてしまうと考え、急遽イギリスの植物学雑誌に
Ranzania japonica (T.Itô ex Maxim.) T.Itô という学名の、新属の植物として発表してしまいます。マキシモヴィッチ博士の発表はこの後だったため、矢田部教授の名にちなんだ「Yatabea...」という学名は採用されませんでした。あとでこの経緯を知った矢田部教授は、伊藤の教室への出入りを禁止してしまいました。
ともあれ、この伊藤篤太郎こそ、日本人としてはじめて主体的に植物に名をつけた“命名者”であり、トガクシソウは、その学名を日本人がつけた初めての植物ということになります。
牧野博士は、その後「ヤマトグサ」という日本の固有種を自らの雑誌で発表し、初めて命名者として認められます。命名者としては2人目ですが、日本で発行された学術雑誌において日本人が発表した植物としては初めての栄誉あることでした。「ヤマトグサ」という和名も、日本固有の種ということから博士が名付けたもの。ここから、およそ1500種にのぼる植物の名付け親として、牧野富太郎博士は世界的な活躍を遂げていくのです。

「幻のロシア移住」牧野博士夫妻が夢みた大冒険

牧野博士と壽衛さん

牧野博士は壽衛さんと結婚したころ植物学教室での研究が難しくなり、苦難の時期を迎えます。そこで頼ったのがマキシモヴィッチ博士。夫婦でロシアに渡り、そこで研究を続けようと考えたのです。
牧野博士が日本にいるロシア人のつてで彼に手紙を送ったことは、特別展に際して植物園が行った調査で裏付けられています。
しかし、届いたのは「マキシモヴィッチ博士がインフルエンザで亡くなっていた」という悲しい知らせでした。もし生きていたら、もし夫婦でロシアに渡っていたら、まさにドラマで寿恵子が言う“大冒険”になっていたでしょう。博士の活躍、そして日本の植物学研究もまた違ったものになっていたかもしれません。

後年、牧野博士は新種のササに和名として「スエコザサ」学名としてもSasaella ramosa var. suwekoana と、亡き妻・壽衛さんの名を付けました。博士の壽衛さんへの愛情の物語としてだけでなく、苦難を乗り越え長年取り組んだ標本採集と、精力的な論文発表の積み重ね、「日本の植物学の父」と賞された植物学者だからこそなしえた、すばらしい業績の一つと言えるでしょう。

  • 千野秀和

    高知局 アナウンサー

    千野秀和

    2000年入局/ 1976年生まれ
    リポーターとして現場に
    行くのが大好きです
    2度目の高知勤務、
    より深い魅力を探っていきます!

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