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長崎県 雲仙・普賢岳災害 復興基金創設 自治体の闘い

シリーズ 普賢岳災害「個人補償」を求めた闘い⑤
  • 2023年05月17日

1990年に噴火した雲仙・普賢岳。この災害では「個人の復興は自助努力」が国の基本的な姿勢でした。そこから、多くの人たちが奮闘し、災害時の公的支援の在り方は少しずつ変わっていきました。そのことが、今の制度に幅広く反映されていると指摘する専門家は少なくありません。 

どのようにして「行政の常識」の厚い壁に風穴を開けたのか。関係者の証言から紐解くシリーズの5回目です。

今回は、被災者の生活支援に役立った基金の創設に向け奮闘した行政職員たちの証言です。

NHK長崎放送局アナウンサー 野村優夫

行政による直接の「個人支援」の難しさ

前回もご紹介したように、雲仙・普賢岳災害では、県や市の創設した基金が、被災者に対する事実上の補填的事業を担いました。

当時、災害復興のための基金を都道府県が設けた例はなく、設立には大きな苦労がありました。 

長崎県雲仙岳災害復興室長だった山口英樹さんも、その苦難に直面した一人です。

元 長崎県雲仙岳災害復興室長 山口英樹さん

当時、県の島原振興局を通じて、被災地の状況はつぶさに県庁に入ってきていました。また、住民や支援者からも直接情報を得ていました。 

長崎県雲仙岳災害復興室長 山口英樹さん
「『牛舎に近寄れなくなって、見殺しにしてしまった』とか『農地に入れずに、作物がすべてダメになってしまった』『ホテルが営業できずに、赤字が膨らんでいる』など、被災された方々の具体的な情報は数多く入っていました。そうした中で、住宅や事業のために借りていたローンが残っている人も少なくない、ということも分かっていました。いわば『ゼロ』からではなく『マイナス』からの復興なのだ、という認識を強く持ちました」

当初、高田勇知事や県庁職員は、普賢岳災害のための特別立法を目指していました。ところが、「自然災害による個人の損失に対して、国などの行政は補償しない」という国の壁は厚く、実現は非常に困難な状況でした。 

そこで出てきたのが、基金というアイデアでした。 

長崎県雲仙岳災害復興室長 山口英樹さん
「知事や県の職員は、『住民に対して財政支援をする』という『実を取る』ためにはどうしたらいいか、懸命に考えました。正面からの直接の支援は無理そうであると。そこで、基金というワンクッションを置いてはどうか、ということになったのだと思います」

 

「個人の財産形成への支出」という懸念を回避するために

しかし、この基金設立に向けても、一筋縄ではいきませんでした。 その事情をよく知る一人が、長崎県雲仙岳災害復興室 課長補佐だった日高春夫さんです。

元 長崎県雲仙岳災害復興室 課長補佐 日高春夫さん

基金を作るため、県は、国からの支援を求めようとしましたが、大きな課題がありました。 行政の責任で被害が生じた場合には、公の基金などを作り、個人の被害の回復をはかることがあります。しかし、災害では、そのような構図にはならないのです。

長崎県雲仙岳災害復興室 課長補佐 日高春夫さん
「雲仙岳災害対策基金は、行政が悪いわけでもなく、住民が悪いわけでもない、そうした中で生活再建をどうするかと考えて、作ろうとした基金です。これはおのずと、それまでの基金と性格も違います。 当時の大蔵省などからは『財産形成に対する補償ってどうなの?おかしいんじゃないの?』という意見が最初からありました」

「行政のせいではなく発生した被害に対し、安易に公のお金を入れることは、個人の財産形成のための支出になる可能性がある」

基金をクッションにしたとしても、やはりこの問題が壁となって立ちはだかったのです。 

この懸念をどうやって拭うのか。日高さんたち県職員は、議論を重ねました。 

その中で参考にしたのが、台風で大きな被害を受けたリンゴ農家の事例でした。 リンゴ農家には、災害にあったときに互いに支え合う共済制度があります。国が法律で定めた制度で、農家が支払う掛け金のおよそ半分を国が負担しています。「被災した一人一人の農家を支えることが、農業全体の健全な発展につながる」という理念が、法律の中で謳われています。

 これは、 
*自分の努力だけでは復興は難しいということ
*一人一人が復興することが、地域全体の復興につながるということ
*そのために、公金を個人に対して使うことは、公益になるということ 
も示しているのではないかと、日高さんたちは考えたのです。

元 長崎県雲仙岳災害復興室 課長補佐 日高春夫さん
「個人に対する援助制度がないと、『明日から、さあやれ』と言われたって、なかなか立ち直りできないのではないかと。では『リンゴはどうなんだ?』と考えたときに、共済制度があります。ある一定割合が、減収から補填される仕組みになっている。 それと同じように、雲仙災害の対策を考えるときに、基金というものができて救えるなら、そういう制度を作っていいのではないかと。それは何も、個人の財産形成に対する補償ということではないではないかと。そんなふうに、論点を整理しました」

復興室長だった山口さんは、こうした理論の整理に加えて、表現の仕方にも注意を払ったといいます。 

元 長崎県雲仙岳災害復興室長 山口英樹さん
「県としては、あえて『個人補償』という表現は使わないようにしていました。『個人の財産への支出』というニュアンスが付きまとうと考えたからです。『自立支援』のための支出なのだ、前に進むための復興支援なのだ、という言い方に徹していました」

 

「住民の思いを胸に」 発揮された政治の力

当時、県職員だった方々に話を伺うと、基金の創設については、「高田勇知事の尽力によるところが大きかったのではないか」と証言する人が、少なくありませんでした。

高田勇 元長崎県知事

高田知事は自治省の出身でした。その人脈も十分に生かしたのではないかと、復興室長だった山口さんは見ています。

元 長崎県雲仙岳災害復興室長 山口英樹さん
「災害が起きたときの国の司令塔は、当時は国土庁防災局が担っていたわけですが、高田さんは国土庁だけでなく、地方財政制度を所管し、自身の出身省庁でもある自治省の幹部に、被災地の実情を丁寧に話していました」

一般的に、行政がこれまでにない仕組みを作り上げていくことは、とても骨が折れることです。その説得のために、高田知事が口にしていた言葉が、山口さんの記憶に鮮明に残っています。

元 長崎県雲仙岳災害復興室長 山口英樹さん
「高田さんは『県が災害復興基金を作るのは前例がないというが、雲仙・普賢岳災害はそもそも前例がない災害だ』と言っていました。『市街地に警戒区域を設定して1万人以上の避難者が出ていること。噴火が長期化していて、いつ本格的な復興が始められるか分からないこと。こうした前例がない災害に対しては、前例のない制度が必要でしょう』と」

高田知事の並々ならぬ基金創設への意気込みを、復興支援に取り組んだ弁護士の福﨑博孝さんも、目の当たりにしたことがあります。

福﨑博孝 弁護士

福﨑さんは、長崎県の復興担当理事から、急遽「来て欲しい」と呼び出されたときのことをよく覚えています。

福﨑博孝 弁護士
「被災した住民が、自分たちの窮状を訴えようと、餓死した牛や鶏をトラックで東京に運んで、霞が関の省庁の前に並べて座り込みをしよう、と計画していたんです。それを止めてほしい、という依頼でした。基金の話が進んでいて、もう少しで創設できるかもしれない、というところまで来ていた時期だったようで、ここで住民に強い行動に出られると、こじれるかもしれない、という話でした」

福﨑さんは、計画を止めるよう住民たちに働きかけるための条件を一つ出しました。

福﨑博孝 弁護士
「『知事に、現場に来てもらって、じっくりと住民の話を膝詰めで聞いて欲しい』とお願いしたんです。被災地の窮状や不安などについて、知事に丁寧に聞いてもらえれば、住民も安心するだろうし、『県のやり方を見ていこう』という気持ちになるのではないかと。そうすれば、死んだ家畜を省庁の前に並べる計画を取りやめるだろうと思ったんです」

高田知事はすぐに島原を訪れ、住民たちの声に耳を傾けたそうです。こうして、住民の実情を知事自らが肌で感じ取っていたことは、基金創設に向け邁進する情熱がさらに高まる結果になったかもしれないと、福﨑さんは考えています。

1991年9月。県による基金が設立されました。県が地方債を発行して資金を作り、その運用益を被災者の生活支援などにあてる、というものでした。地方債の発行で生じる利息の支払いについては、その95%を国の交付税でまかなうことになりました。また、それに加えて、全国から寄せられた義援金の一部も義援金基金として積み立てられました。 

基金は、営農再開の支援、住宅再建の建設費の助成、生活費の補助など、きめ細かい被災者対策を行うために使われました。 

当初、県は「500億円規模の基金」を国に要望していたといいます。その「規模の確保」にも、高田知事の努力があったと、山口元室長は指摘します。 

元 長崎県雲仙岳災害復興室長 山口英樹さん
「自治省による『地方財政措置により300億円規模の基金を設ける』という方向性は、知事の働きかけで、ある程度見えてきていました。さらに、それとは別に、国費による200億円規模の基金に相当する支援が必要ということで、知事を先頭に国土庁に対して強く働きかけました。この基金の実現で生まれたのが、現金給付による食事供与事業と100万円の無利子貸付事業です」
「こうしたものを合わせると、当初県が描いていた500億円規模の基金による支援となります。 高田知事が、懸命に被災地の実情を訴えたことで、最後は、国にも『なんとかしたい』という気持ちになっていた人が数多くいたと、私は思っています」

こうした基金は、その後の阪神・淡路大震災、新潟県中越地震、東日本大震災などでも作られました。雲仙・普賢岳での前例があったことが、その後の基金創設をスムーズにしたのではないか、と指摘する人は少なくありません。

  • 野村優夫

    NHK長崎放送局アナウンサー

    野村優夫

    1992年、長崎局に初任地として赴任。26年ぶりの長崎です。
    社会課題解決のため努力している方々を取材し報道することで、同じ問題に向き合っている人たちへの参考になればと考えています。

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