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長崎県 雲仙・普賢岳災害 農家が一つの制度を作り上げた

シリーズ 普賢岳災害「個人補償」を求めた闘い④
  • 2023年02月06日

1990年に噴火した雲仙・普賢岳。この災害が起こった当時、「個人の復興は自助努力」が国の基本的な姿勢でした。そこから、多くの人たちが奮闘し、災害時の公的支援の在り方は少しずつ変わっていきました。そのことが、今の制度に幅広く反映されていると指摘する専門家は少なくありません。

どのようにして「行政の常識」の厚い壁に風穴を開けたのか。関係者の証言から紐解くシリーズの4回目です。(1回目はこちら

今回は、被災した農家が行政とともに作り上げた制度について、その過程を見ていきます。

NHK長崎放送局アナウンサー 野村優夫

「制度は変えられる」という信念

普賢岳災害で大きな課題となった生活再建への道。

被災者の中には、福﨑博孝弁護士からのアドバイスを受け、営農再開へ自ら行動を起こす人も少なくありませんでした。

福﨑博孝 弁護士

亡くなった消防団員の賞じゅつ金の件で福﨑さんに協力した喜多淳一さんもその一人です。

喜多淳一さん

喜多さんは、4代続く農家です。当時、火砕流や土石流などの影響によって、畑は壊滅的な被害を受けました。

被災した当初、行政から個人に直接助成を行う制度はありませんでした。しかし、喜多さんは、賞じゅつ金をめぐる成功経験から、希望はあると考えていました。

喜多淳一さん
「いろんな決まりというのは、人間が作った代物ですからね。『人間が変えられないことはない』『頑張ればなんとかなるんだ』っていう気持ちになれたのは、賞じゅつ金での経験が、最初のきっかけですよね」

喜多さんを支えた福﨑弁護士の言葉

何か助成をしてくれる制度はないのか。

必死で探す中、喜多さんの目にとまったのが、火山灰の降る地域に適用される「降灰対策事業」でした。火山灰を防ぐための設備などに対して、国や自治体から補助が出ます。この制度を使って、農業用ハウスを立てられないかと喜多さんは考えたのです。

降灰対策事業で建てられた農業設備

ただし、この制度を利用するには、「原則として、3者以上が集まって営農すること」が条件でした。農家個人の財産形成につながらないように、という配慮からです。

しかし、避難生活が続く中、3人がまとまり、広い土地を探すのは簡単なことではありません。なんとか条件を緩和できないか。喜多さんは長崎県の職員に相談してみました。

喜多淳一さん
「県の職員から『無理だ』と言われたんですよね。私は『原則として3名というなら、2名でもいいのでは?』という話をしたんですけど、『それはだめでしょう』と言われて」

「問答になって、頭にきたもんですから、福﨑弁護士に電話して、『文章はこうなっています。どう思われますか?』と電話したら、福﨑さんから『そういう文章でしたら、できないことはないでしょう』と言われたんですよ」

福﨑弁護士は、「『原則』という言葉がついているということは、弾力的に運用する余地はあるのではないか」と指摘したのです。

災害当時の福﨑博孝 弁護士

この言葉の背景には、ある行政の職員と交わしたこんな会話があったのだと、福﨑さんは振り返ります。

福﨑博孝 弁護士
「ある中央省庁から出向していた職員から『霞が関には、お金の入ったポケットがいっぱいあります。そのポケットからお金を出すには、通常は厳格な要件があります。ところが、災害時には、それが緩くなります。厳格な要件を緩和して、ポケットからお金を出すのが、国の災害対策なんですよ』と言われたことがあったんです。これが記憶に残っていたので、喜多さんに、こうした助言をしたのだと思います」

福﨑弁護士の言葉に勇気を得た喜多さんは、改めて県や市の職員と交渉を重ねました。

「一人であっても利用できる制度を作れば、農業を再開する人が増え、地域の復興にもつながる」

熱心に訴える喜多さんの言葉に、県や市の職員も、次第に、真摯に耳を傾けてくれるようになったといいます。

喜多淳一さん
「『営農再開したい人はいっぱいいるんですよ。だから、営農再開できるようなことをやってください』と、ずっと要望してきたんです。『現実にこういう事例があります。これに対して、こう緩和してください』とかね」

「お互い人間と人間の付き合いでしょ。だから、お互いにやっぱり信頼ができたと思うんですよ。だから、『あなたの言い分は分かりました。でも、行政側としては、ここまでしか応えられません。今度は、国への要望書にこれを入れていきましょうか』というような検討を一緒にしていくことができるようになったんです」

県や市の職員は、粘り強く国に働きかけてくれました。その結果、条件の緩和まであと一歩というところまで行きました。しかし、最後の最後で、「これまでの条件で営農した人たちとの公平性や整合性がとれない」という意見が出て、認められませんでした。

 

ところが、喜多さんはあきらめません。次に、目をつけたのが「リース事業」という制度でした。事業者が農機具などを購入し農家に貸し出す事業に対し、費用の一部を行政が支援するという仕組みです。

この制度を使って、ハウスを建てることはできないのか。喜多さんは、県や市の職員のもとに通い続けました。県や市の職員も知恵を絞りました。

そして、ついに、新しい仕組みが生み出されました。

「農協が事業主体になってハウスを建て、それを農家に貸し出す」というものです。

費用の75%は、県と市の基金から出され、残りは農家がレンタル料を支払うことで賄います。そして、農家の負担分が完済された時点で、ハウスは農家のものになります。

一度農協を挟むことによって、個人補償という形を避けながらも、事実上、公的な資金で営農が再開できたのです。

様々な困難を乗り越えた喜多さん。その原動力は、あの日亡くなった消防団の仲間の姿だったと、涙を浮かべながら語ってくれました。

大火砕流当日 消防団活動をしていた喜多淳一さん

喜多淳一さん
「やっぱり死んだ人間も・・なんちゅうかな・・命の値打ちじゃないですけど、仲間が犠牲になった分だけ、復興もそれ以上にやっぱりさせんば、申し訳ないというか・・・。このままでは終わらせんという気持ちは強かったです。半端では終わりたくなかった・・」

福﨑弁護士の言葉が、喜多さんの秘めた思いに火を灯し、一つの制度ができました。この制度を使い、平成12年度までに70戸の農家が、営農再開にこぎつけました。

  • 野村優夫

    NHK長崎放送局アナウンサー

    野村優夫

    1992年、長崎局に初任地として赴任。
    およそ30年ぶりに当時取材でお世話になった方々を再度訪れ、今だから話せる証言をいただきラジオドキュメンタリーを制作しました。

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