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長崎県 雲仙・普賢岳災害で生きた中坊公平弁護士の教え

  • 2022年12月28日

1990年に噴火した雲仙・普賢岳。この災害では「個人の復興は自助努力」が国の基本的な姿勢でした。そこから、多くの人たちが奮闘し、災害時の公的支援の在り方は少しずつ変わっていきました。そのことが、今の制度に幅広く反映されていると指摘する専門家は少なくありません。

どのようにして「行政の常識」の厚い壁に風穴を開けたのか。関係者の証言から紐解くシリーズの2回目です。

今回は、後に「平成の鬼平」とも呼ばれた中坊公平弁護士と普賢岳災害との関係についてです。

NHK長崎放送局アナウンサー 野村優夫

原点となった豊田商事事件

前回の記事でご紹介したように、島原市出身の弁護士・福﨑博孝さんは、被災者の生活再建に役立つ「実利」を取るため、あらゆる方法を探りました。

福﨑博孝 弁護士

その姿勢が福﨑弁護士の中で育まれたのは、1980年代に起きた「豊田商事事件」がきっかけでした。

金の架空の売買を持ちかける「現物まがい商法」を手口とした組織的な詐欺事件で、被害者は全国で数万人に及び、被害総額はおよそ2000億円に達したと見られています。

福﨑さんは、その被害者の長崎弁護団のメンバーでした。

この時、破産した豊田商事の破産管財人になったのが、弁護士の中坊公平さんでした。中坊さんは、森永ヒ素ミルク中毒事件や豊島産業廃棄物問題など日本を揺るがした数々の社会問題で、被害者の救済に取り組み、後に「平成の鬼平」とも呼ばれました。

中坊公平 弁護士

この事件で、中坊さんは、破産した豊田商事の資産を差し押さえながら、被害者に返還する役割を担いました。

当時、豊田商事の子会社が、長崎県大村市の海沿いに、広大な土地を所有していました。

大村の土地を調査する中坊公平さん

中坊さんは、会社が勝手にこの土地を処分しないようにするため、大村の裁判所に仮処分を申し立てました。この時、福﨑さんも同行しました。

裁判官は、すぐには仮処分を出そうとしませんでした。

「子会社が持っているとはいえ、この土地が事実上、豊田商事のものであると本当に言えるのか。十分な証拠がそろっていない」というのが、理由でした。

一方の中坊さんは、というと・・・

福﨑博孝 弁護士
「中坊先生は『この土地を抑えるかどうかで、何億円もの差が出てくる』という気持ちがものすごく強かったんです。大村の裁判所の弁護士控室で『決定を出さなければ、大阪に帰らない』とまで言っておられて、『居座る』と。そんな感じの勢いでした」

困ってしまった裁判官は、福﨑さんを別室に呼び出しました。

福﨑博孝 弁護士
「その担当の裁判官は、実は、長崎の本庁におられた方で、その時、私が司法修習生で教えていただいた教官だったんです。ですから、私は、板ばさみになってしまいました。裁判官からは『中坊先生に帰ってもらってくれ』と。中坊さんは『仮処分を出させろ』ということで、二人の間を行ったり来たりした記憶があります」

福﨑さんが何度か裁判官と中坊さんの間を往復するうち、ついに裁判官が折れます。

「1億円の保証金を裁判所に預ければ、仮処分を出す」というのです。保証金は、後で仮押さえが正しくなかったと判断された時に、会社側の補償にあてるためのお金です。判断が変わらなければ、お金は返却されます。

「やっと仮処分が下りる」と、喜んで中坊さんのもとに向かった福﨑さん。

ところが、思いもよらない言葉を中坊さんからかけられました。

福﨑博孝 弁護士
「『うん』と言わないんですよ。中坊さんが。『保証金が高すぎる』って。確か『5000万円に値切って来い』と言われた記憶があります。やっとの思いで、裁判官に仮処分を認めさせたのに、困り果ててしまいました」

「中坊さんとしては、まだ押さえないといけない土地が全国・海外にありましたから、『保証金が、この後いくら必要か分からない。寝かせる金はない』ということだったんです」

結局、側にいた弁護士が、「福﨑さんの顔を立てて1億円で手を打ちましょう」と間をとりなし、なんとかその場が収まったといいます。

「実利を取れ」中坊さんの教え

また、こんなこともありました。

中坊さんは、豊田商事の社員が国に納めた税金を被害者に返すよう、国との交渉を行いました。

「豊田商事の社員の給与は、不正に得たものなのだから、そこから納税されたものを国は返すべきだ」というのです。

この交渉が続く中、一人の被害者が、自分たちの窮状を訴えるため、国税庁の前で座り込みを行いました。

「この行為は、国を動かす力になる」

そう考えた中坊さんから、福﨑さんのもとへ電話が来たといいます。

福﨑博孝 弁護士
「中坊さんが『何月何日の何時から、国税庁長官と交渉に行くので、その時間に合わせて、各地の弁護団は、各地の税務署の前に被害者を連れて行って、座り込みをさせなさい』って言うんです」

「被害者は高齢の方が多いので、私が『体調不良とか、何か起こったらどうするんですか』と尋ねると、中坊さんは『何とかならないようにするのが、君たちの役割だろ!』って。熱中症にならないような対策を取った上で、何人かと一緒に税務署に行きましたが、『ここまでやるのか・・・』と思いましたね」

こうした中坊さんの姿勢に、福﨑さんは、強く影響を受けたといいます。

福﨑博孝 弁護士
「いつも中坊さんから言われていたのが『弁護士は、きれいごとを言うな』ということでした。『犬の遠吠えみたいな主張をしたって何にもならない。とにかく、実をとれ。被害者のために実をとるのが弁護士なんだ』と」

「やっぱりそれって、知らず知らずのうちに自分の体に染みついてきている可能性は強いとは思いましたよね。たぶん普賢岳の災害でも、そういう発想でやったんだろうっていう気はします」

これが、前回の記事でご紹介したような、弁護士の枠を超えるような「計画」を発想する源にもなりました。そして、福﨑さんの行動力が、普賢岳災害の復興過程で、周囲の人を巻き込むエネルギーとなっていくのです。

  • 野村優夫

    NHK長崎放送局アナウンサー

    野村優夫

    1992年、長崎局に初任地として赴任。
    およそ30年ぶりに当時取材でお世話になった方々を再度訪れ、今だから話せる証言をいただきラジオドキュメンタリーを制作しました。

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