長崎県雲仙・普賢岳災害での復興がコロナ給付金につながった!?
- 2022年12月26日
新型コロナの影響で経済的に困窮する人たちが数多くいます。政府は、国民の生活を守るため、様々な形で現金を給付してきました。しかし、30年前、こうした対応は、必ずしも当たり前のことではありませんでした。
1990年に噴火した雲仙・普賢岳。この災害では「個人の復興は自助努力」が国の基本的な姿勢でした。そこから、多くの人たちが奮闘し、災害時の公的支援の在り方は少しずつ変わっていきました。そのことが、今の制度に幅広く反映されていると指摘する専門家は少なくありません。
どのようにして「行政の常識」の厚い壁に風穴を開けたのか。関係者の証言から紐解くシリーズです。
NHK長崎放送局アナウンサー 野村優夫
消防団員の遺族を支えるために
1991年6月3日。雲仙・普賢岳で大火砕流が発生し、43人が犠牲になりました。この中には、地元の消防団員12人が含まれていました。
島原市出身の弁護士・福﨑博孝さんも、同級生や親しい友人を亡くしました。
当時、福﨑さんは、36歳。大きなショックを受ける中、頭に浮かんだのは、遺された家族のことでした。
福﨑博孝 弁護士
「島原では、親・子・孫の3世代一緒に暮らしている人が多いんです。消防団員といえば、僕の年齢のほとんど同じか、少し上か下。農業を継いだりとか、商売を継いだりして、おじいちゃんやおばあちゃんの世話をしないといけないし、奥さんや子供の面倒を見ないといけない世代です。いわば大黒柱を亡くして、ご遺族の今後の生活がどうなるのか、ということを考えました」
遺族への「賞じゅつ金」とは?
「殉職した消防団の遺族には、行政から“賞じゅつ金”というお金が支払われるらしい」
福﨑さんが、そう耳にしたのは、大火砕流発生からしばらく経ってのことでした。賞じゅつ金は、公務で亡くなったり障害を負ったりした人に支払われるお金です。
制度の詳細を知りたいと考えた福﨑さんは、親しかったある新聞記者に連絡をとりました。
読売新聞の記者だった時枝正信さんです。
当時、福﨑さんは、被災者からの相談の対応で、忙しい日々を送っていました。そこで、時枝さんに「制度について調べて欲しい」と、依頼したのです。
時枝さんは、すぐに取材を始めました。
読売新聞 元記者 時枝正信さん
「当時はインターネットがなかったので、市役所に行って資料を入手しました。市の担当者も、被災直後なので、新聞記者に説明する余裕はありませんでした。そこで、資料を丸ごともらって、それを一から読んでいくというような作業をした記憶があります」
調べた結果、賞じゅつ金は、
*国・県・市から、それぞれ、支払われること
*金額には、330万円から2000万円まで幅があること
が分かりました。
「多大な功労があると認められる者」は330万円、「特に抜群の功労があり他の模範となると認められる者」は1700万円、などとなっています。ところが、どのような状況がそれに当たるのか。具体的には分かりません。
さらに取材を進めると、行政の職員の中には、こんな説明をする人もいたといいます。
読売新聞 元記者 時枝正信さん
「正式な命令を受けたかどうかとか、ちゃんと消防団の服装をしていたかどうかとか、そういう点で差がつくようだ、と言う人もいました。きちんと指示を受けて現場に行ったのか、あるいは、指示を受けずに仲間が走っているのを見て走っていったのか。そうした所がポイントになる話だった記憶がありますね」
「命令も受けずに野良着姿で現場に行って犠牲になった場合には、消防団活動で殉職した、という扱いにならない恐れがあるのかと。それはおかしいよね、という感じはありました」
正式な命令に従っていなかった場合、「業務中の殉職である」と確実に認定することができない可能性もあるというのです。しかし、この話についても、確かな裏付けを取ることはできませんでした。
結局、どれだけ取材を重ねても、どんな亡くなり方のときに、どの金額になるのか、明確な答えは得られませんでした。
この取材結果を聞いた福﨑弁護士は、もし先に国が「低い金額にする」と決定した場合、県や市もその金額に続く恐れがあることを危惧しました。そこで、先手を打つ必要があると考えたのです。
福﨑博孝 弁護士
「国・県・市がそれぞれ2000万円出したら、×3で6000万円になります。330万円の場合と金額が大きく違ってきます。遺された家族のために、これは絶対に何とかしなくちゃいけないと思いました」
「とにかく、最初に、島原市に『2000万円出す』と言わせるのが課題でした。国とか県が、後追いで文句言えないから。市が2000万円を出すのに、『その要件を満たさないから、国は300万円ですよ』って、言えるかっていう話なんです」
住民とマスコミに横たわる深い溝
福﨑さんは、できるだけ多くの金額を得るために、地元の友人に協力を求めました。
喜多淳一さんです。
当時、 喜多さんは、島原市の消防団の副分団長を務めていました。あの日、現場に駆け付け、火砕流に巻き込まれた仲間を何人も病院に運びました。
喜多淳一さん
「悔しい思いをぶつける先がなかったから、『何のために死んでいったのだろうか』という思いは強かったですね」
「ただ、福﨑弁護士から言われて、『賞じゅつ金は、目一杯出してもらわんばいかんな』ということは、考えていました」
福﨑さんは、マスコミと協力して、遺族の窮状を広く伝えてもらうことが、十分な賞じゅつ金を得るために不可欠だと考えていました。しかし、そこには高いハードルがあると感じていました。消防団の人たちのマスコミに対する感情でした。
福﨑博孝弁護士
「当時、住民の中には、『マスコミさえいなければ、消防団員は亡くならなかったはずだ。マスコミから殺された』と言っている人もいましたから、やっぱりその気持ちは尋常じゃなかったはずですよ」
当初、消防団は、避難勧告の区域外に待機所を構えていました。
ところが、報道関係者は、避難勧告が出ていた場所で、山の撮影を続けていました。雲仙・普賢岳の噴火の様子がよく分かるというのが理由でした。また、ある報道関係者が、避難して留守になっていた家に入り、無断で電気を借用したという不祥事も発覚しました。
そのことで、消防団は、マスコミの取材地点に近い場所へ移動したのではないかと考える人が、多くいたのです。
NHKの上田早苗アナウンサーは、その思いを直接受け止めた一人です。大火砕流の発生した後から、島原に入り、被災した住民の声を全国に向けて発信していました。
消防団の詰め所を訪れた時のことです。団員の一人が発した一言が、上田アナウンサーの心に強く刻まれました。
NHK 上田早苗アナウンサー
「詰め所の入り口のところに、亡くなった消防団員の方の消防服や法被が掛かっていて、『そこに掛かっとるのが誰のか分かるか!』って、怒りを込めた声でおっしゃったんです。もうその瞬間に、『あっ!』て・・・」
「やっぱり、すごい怒りの中で、だけど自分たちの町のことは伝えてもらわなきゃっていうところで、これまでロケをさせてもらっていたんだなって・・・」
それまで、島原の町で取材をしていると、親切な人が多く、丁寧に対応してもらえることがほとんどだったといいます。ところが、最後の最後で、本音の部分が見えなかったり、取ってもらえないベールのようなものが自分との間に掛かっているのを感じたりしたそうです。その理由が、この一言で身に染みて分かったというのです。
NHK 上田早苗アナウンサー
「でも、その怒声の後は、中に入れてくださいました。お酒を酌み交わしながら、『あんたたちは、いつも自分たちの欲しい言葉だけ撮って帰る』ということも言われました。ただ、酌み交わしているうちに、分かり合えたわけではきっとないんだけれど、『それでも、あなたたちの今の状況を発信したいと思っているんです』というような、こちらの話も聞いてもらえるようにはなりました」
「以前から『仮設住宅が一戸もなくなるまで被災地の状況を伝え続けるぞ』と言っていたんですが、その消防団の人の言葉が刺さってからは、本当の覚悟に変わった、ということはありました」
福﨑弁護士も、消防団員だった喜多さんの気持ちを、痛いほど分かっていました。しかし「なんとか堪えてほしい」と訴えました。
福﨑博孝弁護士
「彼自身は、本当に親しい友人を亡くしているし、『自分が巻き込まれておかしくなかったのに、自分だけ生き残った』という気持ちがあることも知っていました」
「でも、やっぱりマスコミときちんと接点を持たないと、被災者が置かれている立場、被災者が苦悩している立場を、外に発信できない。発信できないということは、救済されない。そのことを考えてくれっていう話はしました」
福﨑さんの言葉に、喜多さんは、揺れる思いを胸に抱えながらも、同意しました。
喜多淳一さん
「葛藤はありましたよ。ただ、福﨑弁護士から言われて、やっぱり注目されるというのは、一番大事であって、その注目度が高ければ高いほど、行政のほうも動きやすいんだということは、分かりました」
「いろんな思いはありましたけど、もう腹の下に押し込んで、今から先をどうやって復興させていくかっていうことを考えれば、『マスコミの力も借りんばいかんな』って、思いました」
住民×弁護士×記者のタッグが生み出した計画
喜多さんの同意を得た福﨑弁護士は、読売新聞の時枝記者と話し合い、一計を案じます。
*まず、喜多さんの知り合いの市議会議員に依頼して、市長への働きかけをしてもらう
*もし、市側が十分な金額を提示しないようなら、地元消防団員の辞表を取りまとめ、一斉に消防団を辞める
*その時は、時枝記者が、新聞のトップに書く
*その上で、再度、市側と交渉する
というものでした。
福﨑弁護士は、このときの心境を、こう振り返ります。
福﨑博孝 弁護士
「いわば半分脅しみたいな発想でやっていました。あの当時、私は『今のこんな“戦争状態”の中で、普通の平穏な状態の時のやり方やっていても、絶対無理だ』と思っていました。違法なことをしたらいかんですけども、きちんとやるべきことをやらないと、ここの地域は救われない、そう思っていました」
市議会議員と市長との交渉が行われ、迎えた6月下旬。市議会で、賞じゅつ金を支払うための補正予算が提出されました。
消防団員一人あたり、最高額の2000万円が計上されました。
今回、当時の島原市長だった鐘ヶ江管一さんに取材を申し込みましたが、体調不良のため、対応が難しいというお返事をいただきました。
どの程度、福﨑さんたちの計画が、市側の判断に影響を与えたのかは分かりません。
時枝元記者は、こう振り返ります。
読売新聞 元記者 時枝正信さん
「このようなケースでは、地方自治体は、国の決定を待って、国の判断が出てからそれに従う、ということが多いんです。この時もそうなるかもしれない、と思っていたら、島原市が先に判断したので、正直驚きました」
「市長も、被災者の状況を目の当たりにしていたので、心が動いていたのか。もしかしたら、消防団員が辞めるかもしれない、という情報が耳に入って、決定に影響したのか。それは分かりません。ただ、もし、私たちの動きが、少しでも市の決定に寄与できていたのだとしたら、それは嬉しいことですね」
この結果は、喜多さんたち住民に勇気を与え、成功体験として刻まれました。そして、これが、後の「個人補償」を求める原動力にもなっていったのです。