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知的障害者の施設をめぐって 第13回 津久井やまゆり園の創設

2017年02月27日(月)

 

Webライターの木下です。

第13回は、津久井やまゆり園の「十周年記念誌」(1974)から、その創設期を振り返ります。
ニュース報道で伝えられるとおり、当初計画されていた津久井やまゆり園の施設の建て替えに関して、神奈川県が提示した「再生基本構想」についての公聴会の場で障害者団体や有識者から、大規模施設の再建はノーマライゼーションの時代に逆行するという意見が出され、さらに検討がなされることになりました。

そのような中、「津久井やまゆり園」のような施設が、過去にどのような背景から誕生したのか、そして大規模施設にはどのような課題があるかを改めて考えてみたいと思います。



人手不足から生じる隔離状態


これまでの日本の知的障害者施設の歴史を振り返ってわかる通り、日本ではそもそも障害者を一般社会から「隔離」することを目的に施設がつくられたわけではありませんでした。しかし、「施設の場所が町から遠く離れていて、地域社会から遊離している」「スケジュールが優先され、自由を束縛されることが多い」「集団行動ばかりで、プライバシーがない」「付き合う人が限られてしまう」など、施設特有の制約から、結果として当初から入所者や家族が隔離されていると感じる状況が生まれることはありました。

その背景のひとつに、専門職員の確保が難しく、慢性的な人手不足の施設が多いことがあります。高度成長期には、重度の知的障害者を理解するための研究も未熟で、職員を育成するためのノウハウも十分には蓄積されていませんでした。そのために、大人数を収容する施設が建設されても、その人数に見合うだけの経験ある専門職員を配置することはできませんでした。また、終生保護の施設の場合、入所条件を重度や重症の人に限ったために、職員の介助負担は大きくなり、労働環境の整備や運営管理面でさまざまな問題が生じることになりました。そして、そのようなしわ寄せは入所者にも及び、職員のケアが手薄になるのを補完する意味で管理が強化され、それが隔離状態をもたらすこともありました。

2016年7月26日に殺傷事件が起きた「津久井やまゆり園」に関しても、神奈川県立図書館で閲覧した「十周年記念誌」(1974)によると、当時の日本の多くの施設が抱えるのと同様の課題を内包していたことがわかります。理想と現実のギャップのひとつの実例として、「津久井やまゆり園」の創設期について振り返ってみたいと思います。


日本初の重度知的障害者の専門施設


「津久井やまゆり園」が誕生したのは、東京オリンピックが開催された1964年(昭和39年)です。その4年前には「精神薄弱者福祉法」が制定され、同法により「精神薄弱者援護施設」が規定され、神奈川県でもいち早く施設の設置が決定されました。1960年代は、地方都市では公共施設や企業の誘致合戦がさかんに繰り広げられていて、神奈川県内の各市町村も誘致に熱心に取り組んでいました。しかし、「津久井やまゆり園」のある相模湖町は山岳地帯の狭間にあり、交通の不便さなどから、有力な施設は望めないとして、当時はあまり人気のなかった精神薄弱者援護施設の誘致に名乗りを上げ、福祉の町づくりをめざしました。

 写真・津久井やまゆり園がある相模原市緑区千良木の風景

津久井やまゆり園がある相模原市緑区千木は、住宅地からも、自然が望める山間の地です。


この頃、知的障害者福祉の世界では、重度の人の処遇が大きな課題となっていました。そこで、神奈川県では、新たに建設する施設を全国初の重度を専門とする精神薄弱者援護施設にする計画を立てました。受け入れ先が得られない障害当事者と厳しい状況にあった家族に援助の手を差し伸べる画期的な施設であり、また、自立生活を前提とした一時収容施設が主流だった時代に、終生保護を目的としている点でも注目を集めました。

開園時の入所者数は100人。入所希望者が多かったために4年後には倍の200人まで増員することになりました。年齢は18歳以上で、IQは測定不能や最重度・重度の知的障害者が9割近くを占め、その中には身体障害を合併する人も1割含まれていました。


環境改善のための試行錯誤


写真・津久井やまゆり園

津久井やまゆり園は県立施設であり、現在は指定管理制度に基づき、社会福祉法人かながわ共同会が運営しています。


周囲の期待を集めてスタートした施設でしたが、日本初の重度の知的障害者施設である上に、交通不便な地であり、当初職員の確保は困難をきわめました。福祉関係の機関紙に募集広告を出しても応募者は一人もなかったそうです。開園当初、精神薄弱者施設から転勤してきた指導課長を除いて、ようやく集めた職員は全員素人でした。「十周年記念誌」の職員による座談会では、初代園長も、福祉事務所に3年間の勤務経験があっただけで、まったくの素人であったと自ら語っています。

活動記録では10年間を3期に分けて振り返っています。第1期として、職員は入所者を施設の集団生活に慣れさせるだけで一苦労であり、心身の疲れを訴える日々であったことが記されています。入所者は重度である上に、能力も年齢もまちまちで、さらに職員が不慣れだったこともあり、入浴や食事などの介助で時間を奪われ、集団生活の訓練や学習指導などのカリキュラムの消化は難しかったことも正直に書かれています。

開園から4年後の第2期には、入所者数が200人に増員されたのにともない、職員も100人へと倍増されました。活動記録には、「新たに採用された職員も未経験者であり、十分な研修や教育を受けることもなく、先輩職員の助言のもとで、手探りで指導や介助に当たったこと」や「入所者の増員にともない、新たに重症者(重度の知的障害と重度の肢体不自由が重複する)を含む最重度の障害者が30人あまり加わったために、園生の障害の程度に格差が生じ、最重度者に職員の手が多く取られるようになった」などが記されています。

そして、そのような試行錯誤の日々が続く中、1970年(昭和45)には、園生の一人が、園の下を流れる相模川に転落し、溺死するという痛ましい事故も発生しました。「十周年記念誌」には、我が子のようにかわいがっていた園生を失った悲しみが、痛恨の出来事として繰り返し記されています。その後、園では施設や施設職員のあり方を厳しく検証するための施設改善委員会を発足させました。

そして、それまで1棟に100人を収容した方式を、事故後は1棟50人の4棟制に改め、職員の目が届きやすいようにしました。また、4棟のうちの1棟を最重度棟にすることで全面的に身辺介助が必要な園生に気を取られて、他の園生への対応がおろそかにならないようにしました。さらに、施設周囲のフェンスを高くしたり、防御柵を設けたり、出入り口を施錠するなどの安全対策も取られるようになりました。そして、管理者も職員も一丸となって環境の改善に努め、指導訓練と介助のノウハウを蓄積し、前例のない施設の運営に努力を重ねていったことが回顧されています。



問われ続ける重度の知的障害者の支援


「津久井やまゆり園」のように重度施設の黎明期には、職員の人手不足や経験不足などから入所者の処遇に苦労するのは、他の多くの施設でも見られることでした。障害の程度にばらつきがあれば、本来は一人ひとりに見合った介助が必要です。集団行動が苦手な重度や重症の障害者を寮生活のようにまとめて処遇するのは、無理が生じやすいと現場の職員たちも感じていました。施設によっては職員の組合が組織され、職員数の増員、処遇の少人数化、入所者の人権尊重など、施設内部から改革を求める動きも見られました。

重度の知的障害者や重症児・者の福祉施策の欠如が訴えられた1960年代半ば。大規模な施設によって、それを一気に解決することが求められました。しかし、その後厳しい現実に直面して、どのような環境を作ることが必要であり、可能なのかが、さまざまな現場で慎重に模索されてきたと言えます。施設内を家庭的な雰囲気にするにはどうすればいいのか、地域社会との交流を増やしていく機会をどうやって得るのか、職員の専門性をどのように高めるかなど・・・・。そして、施設福祉であろうと、地域福祉であろうと、本人がもっとも本人らしく生きられるようにするためには、どのような支援が望ましいのかが、現在も問われ続けています。


木下真


参照:『十周年記念誌』(神奈川県立津久井やまゆり園編 1974年2月) 

▼関連番組
 『ハートネットTV』(Eテレ)

  2017年1月26日放送 障害者殺傷事件から半年 次郎は「次郎という仕事」をしている
 ※アンコール放送決定! 2017年3月21日(火)夜8時/再放送:3月28日(火)昼1時5分

▼関連ブログ
 知的障害者の施設をめぐって(全14回)

第 1回 教育機関として始まった施設の歴史第 2回 民間施設の孤高の輝き第 3回 戦後の精神薄弱児施設の増設第 4回 成人のための施設福祉を求めて第 5回 最後の課題となった重症心身障害児・者 1第 6回 最後の課題となった重症心身障害児・者 2第 7回 最後の課題となった重症心身障害児・者 3第 8回 終生保護のための大規模施設コロニー第 9回 大規模コロニーの多難のスタート第10回 政策論議の場から消えていったコロニー第11回 島田療育センター:地域支援へと広がる活動第12回 のぞみの園:施設から地域へ第13回 津久井やまゆり園の創設第14回 施設からも家族からも自立して生きる

 
 障害者の暮らす場所

第2回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐前編後編‐

コメント

津久井やまゆり園は歴史ある施設ですが、地域交流は他のどのグループホームを持つ法人よりも盛んだと思いますよ。毎月の地域の清掃活動や地域小学校の運動会参加は毎回ですし、そして、地域から職員を多数採用したおかげで、OBとして園を支えるという、真の意味での地域交流と構造が完成している。そういう場面は全く報道されませんが・・・。それに、津久井やまゆり園自体も、その運営法人は、グループホーム4つを稼働させ、この事件前にさらに2つを増設する計画でした。もちろん本体施設からの地域移行も行われていましたがなぜそういう場面はNHKさんは取り上げないのでしょうか?やはり「施設=悪」と言う構図が報道上分かりやすいからでしょうか?加えていいますが、神奈川県の地域移行を提唱する法人のグループホームは医療面、人員、人財など果たして本当に受け入れ態勢は万全なのでしょうか?むしろそちらの方が心配です。現行の民間グループホームが、ある意味での「小さな施設」になっているような気がしますが・・・。

投稿:I-BOT 2017年10月03日(火曜日) 23時50分

御本人御家族みなさまのあつまった一つの思い出場所なので、建て替えいらないのでしょう。御実家お近くなのでしょう。

投稿:香 2017年07月06日(木曜日) 18時40分