本文へジャンプ

知的障害者の施設をめぐって 第9回 大規模コロニーの多難のスタート

2017年02月20日(月)

 

Webライターの木下です。
第9回は大規模コロニー建設後の経過を振り返ります。



対象から除外された重症児者


1971年(昭和46)に 入所が開始された群馬県高崎市の国立コロニー「のぞみの園」は、従来施設に入所できなかった重い障害のある人たちをもれなく受け入れ、終生保護するという、当時にしては画期的で、日本の施設福祉のモデルとなることを期待されて誕生した施設でした。しかし、それまで日本では運営経験のない大規模コロニーは、当初から多くの困難を抱えることになりました。

まず、入所する障害者の総数は約1500人が予定されていましたが、当時の財政事情や建設工事の遅れから、実際の入所者の規模は、550人へと大きく縮小されました。また、コロニー設置計画が要請された根本的な理由であった「重症心身障害児者(重度の肢体不自由と重度の知的障害が重複した状態にある子どもや成人。以下「重症児者」)」は、対象から除外されることになったのです。入所者は重度の知的障害者と軽度の肢体不自由をともなう知的障害者に限られました。「全国重症心身障害児を守る会」は、コロニー建設によって、重症児者をめぐる諸問題が一気に改善されることを期待していただけに、支援者も親たちも大きな失望を味わうことになりました。

重症児者については、1967年(昭和42)以降、国において国立療養所に付設する施策が進むとともに、民間施設の財政的援助も拡充されてきたことが除外された理由として挙げられました。また、たとえ定員が550人に縮小されたとしても、それまで経験のない大規模施設であり、医師や看護師の確保などの困難な課題もあり、現実的な対応として、より多くの専門スタッフを必要とする重症児者の受け入れを先送りせざるを得ない事情もありました。


全国46都府道府県から集められた入所者


「のぞみの園」の入所者は、関東圏を中心に、北は北海道から南は九州まで、46都道府県から集められました。年齢は15歳以上とされました。一般に障害者施設の開所当初は、入所者の受け入れについては時間をかけ、先に入所した者が安定してから次の入所者を受け入れるのが通例でしたが、国立コロニーの場合はわずか1年間で500人以上の入所者を受け入れることになりました。

しかも、その入所者の半数以上は施設で暮らした経験がない人であり、また、たとえ施設経験のある人でも、見知らぬ土地で家族からも離れて暮らすことになったために心理的に不安定になり、職員は開所から3、4年は無断外出や問題行動への対応に追われることになりました。

また、重い知的障害のある人たちに対する治療訓練は未開拓の分野であったために参考となる資料は限られていて、担当職員も理論と実践方法を理解するのに時間がかかりました。当初は高い目標を掲げ、国立コロニーの入所者処遇の特色として治療訓練に取り組みましたが、新しい環境に適応させることが精いっぱいで、意図した治療訓練の実践は満足のいくものとはなりませんでした。


開園当初から理想と現実のギャップに苦しむ


「のぞみの園」の初代理事長はコロニー懇談会の委員の一人でもあった菅修でした。管は日本で唯一の国立精神薄弱児施設「秩父学園」の園長として、療育・訓練と施設職員の指導に当たってきた精神科医であり、精神薄弱者の治療教育学という指導理念を確立した研究者でした。菅は、欧米の事情にも通じていて、すでに長期収容を前提とした大規模コロニーが世界的に時代遅れであることを十分に認識していました。それでも、あえて責任者を引き受けたのは、いかに訓練を施しても社会で自立生活をするのが難しい障害者がいることを承知していたからです。


写真・図書資料を備えた田中資料センター

モデル施設であるのぞみの園は、調査研究の機関でもあります。
写真は内外の図書資料を備えた田中資料センター。



菅は障害者の「症状」よりも、「人間性」を重視する考え方をもっていました。入所者から生活を奪うことがあってはならないとし、家族との交流、プライバシー、くつろぎの時間、社会生活をする上での経験などを施設の運営にも反映させようとしました。また、入所者が社会と隔絶することのないように、地域の人々と交流するためのイベントなども積極的に設けるように心がけました。


菅は、のぞみの園の開園式の理事長あいさつで、将来の運営の難しさを予想して、以下のような決意の言葉を語っています。
「私どもがこれから世話しようとする障害者は、精神薄弱の程度が重いか、精神薄弱の上に、肢体不自由やその他の合併症をもったいずれも従来誰もがその取扱いを避けてきた人たちばかりであり・・・・そのような人たちを何百人も集めて、保護指導、治療および訓練し、社会復帰をはかることは、決して生やさしいことではありません。しかし、私どもはあえてその難しい仕事に取り組んで、あらゆる手段を講じて、それらの人たちを治療、訓練して、その障害を軽減し、残存機能を発達させ、社会復帰を可能ならしめるように努力する覚悟でおります。また、社会復帰がどうしても成功しない場合は、障害をもっていても人間らしい生活が送れるよう、その生活全般にわたって心を配るつもりであります」


しかし、入所者の尊厳を守り、欧米の隔離施設とは異なる日本独自のコロニー運営を試みようとした菅の思いにもかかわらず、短期間で理想的な生活共同体を実現するのは困難でした。菅が理事長を退職する1975年には、職員の組合による労働争議も起こり、管理運営面で大きな混乱が生じ、管理者と職員と親との間に軋轢も生まれました。入所者を隔離することなく、地域に開かれた施設とするという理想を実現する前に、運営管理の改善や入所者の処遇に追われる日々が続くことになります。




木下 真


参照:「国立コロニー開設に至る道のり」(遠藤浩)、『天地を拓く』(津曲裕次監修)

▼関連番組
 『ハートネットTV』(Eテレ)

  2017年1月26日放送 障害者殺傷事件から半年 次郎は「次郎という仕事」をしている
 ※アンコール放送決定! 2017年3月21日(火)夜8時/再放送:3月28日(火)昼1時5分

▼関連ブログ
 知的障害者の施設をめぐって(全14回・連載中)
 第 1回 教育機関として始まった施設の歴史
 第 2回 民間施設の孤高の輝き
 第 3回 戦後の精神薄弱児施設の増設
 第 4回 成人のための施設福祉を求めて
 第 5回 最後の課題となった重症心身障害児・者 1
 
第 6回 最後の課題となった重症心身障害児・者 2
 第 7回 最後の課題となった重症心身障害児・者 3
 第 8回 終生保護のための大規模施設コロニー
 第 9回 大規模コロニーの多難のスタート
 
第10回 政策論議の場から消えていったコロニー

   (※随時更新予定)

 
 障害者の暮らす場所
 第2回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐前編‐
 第3回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐後編‐

コメント

※コメントはありません