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知的障害者の施設をめぐって 第6回 最後の課題となった重症心身障害児・者2

2017年01月26日(木)

201701_06_chiteki000_nhklogo.jpg第6回 最後の課題となった重症心身障害児・者 2
▼ 障害児本人とともに親の幸せにも目を向ける


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Webライターの木下です。
第6回は重症児者施設の歴史の続きです。


障害児本人とともに親の幸せにも目をむける


重症児施設の先駆者である3人の中でも、「島田療育園」の小林提樹は、行政に対して、積極的に働きかけて、制度の改革に大きな力を果たしました。とくに、1964年(昭和39)に発足した「全国重症心身障害児を守る会」の設立に深くかかわり、親の支えとなるとともに、親の力を借りながら、社会に広く現状を訴えていきました。

小林が家族への思いに目が開かれたのは、戦前のことでした。慶應義塾大学小児科助手となり、心身障害児の診療相談に当たっていた頃、1934年(昭和9)、東北から診療を求めてやってきた5人家族と出会います。

子ども3人はいずれも症例の異なる障害児でした。そして、診断を終え、後日故郷に戻ったその家族から「治らない障害であるとわかったら、心中する覚悟であった」という手紙を受け取ります。小林は大きなショックを受けるとともに、なぜその家族が心中を思いとどまったのかを自問します。そして、家族の支えとなったのは、自分の本領の医学の力ではなく、強いて言えば、奉仕の心によるものだと思い至ります。そのことがきっかけとなり、小林は障害児の症状だけではなく、親の苦しみにも気持ちが向くようになっていきました。

また、1940年(昭和15)には、東京の下町に住む、ある母親が小頭症の赤ん坊を連れて、診察を受けにきます。小林は小頭症に関する知識を総動員して、母親にその赤ん坊の症状について伝えます。それから、10日間ほどして、その母親は再び小林の診察室を訪れ、部屋に入るや否や、床の上に泣き崩れます。母親は10日間大病院をめぐりましたが、正直に子どもの障害について語る医師はおらず、再び小林のもとを訪れ、自分の子どもが本当に重い知的障害をもち、回復の余地がないのかを確かめにきたのです。

写真・小林提樹のレリーフ

島田療育センター内に掲げられる小林提樹のレリーフ。
「この子は私である。あの子も私である。
どんなに障害が重くとも、みんな、
その福祉を堅く守ってあげなければと、深く心に誓う」
という座右の銘が刻まれています。

小林は、重い障害のある子どもの親に対しては、教科書で学んだ知識で客観的な診断を下すだけでは終わらないことを痛感します。この時の体験を自伝の中で「障害児への思いは、客観的立場から彼らへの同一化へと飛躍した」と記しています。小林は、障害のある子どもとその家族を幸せにするには、医療だけではなく、社会福祉的な活動が必要であるという信念をもつに至ります。戦争中は軍医として満州などに赴きますが、戦後はその思いを実現するために尽力することになります。

戦地から引き揚げてきて、小林は日本赤十字社産院に勤務することになります。そこで小林は重症児を守るための施策が何もないことを思い知らされます。

戦後の混乱期は捨て子が多く、産婦人科には出産後置き去りにされた重い障害のある子どもたちがいました。小林は小児科に障害児病棟をつくって、そのような行き場のない障害乳児を入院させました。しかし、当時重い障害のある子どもは入院治療に値しないとして健康保険の対象外とされ、制度的には病院内に置くことは許されませんでした。そこで、小林は院内に乳児院を開設することで保護しようと試みます。しかし、乳児院は児童福祉法で「健康な子どもを収容し、介護するところ」と規定されている上に、満一歳までの収容が原則でした。

すなわち、当時は家庭での養育が不可能とされる重度の障害児を保護するための法律も制度も存在していなかったのです。そのために小林の思いは認められず、国の方針により、家庭の明らかな障害児たちは家族に強制的に引き渡されることになりました。憤りを覚えた小林は、健康保険基準局の担当者に対して、「万一この家族が障害児殺し、あるいは一家心中したとしても、当然当局のみなさんに責任を取ってもらいます」という言葉をぶつけました。

小林は制度の問題点をただすためには、現状を広く社会に公開する必要があると考えるようになりました。そこで、1957年(昭和32)の全国乳児院研究協議会、さらに全国社会福祉大会で、重症児の問題の実態と、その対策の必要性について訴えました。権利を奪われた子どもたちがいるという訴えは大きな反響を呼び、翌年の全国社会福祉大会において「全国的な重症心身障害対策委員会の設置」が議決され、具体的な対策を進める第一歩となりました。

そのような重症児の問題を訴える活動を続けるのにあわせて、小林の周辺では施設建設の話が持ち上がりました。「島田療育園」の名前の由来ともなった島田伊三郎という実業家と小林の出会いがきっかけでした。伊三郎の四番目の子どもの良夫には、重い知的障害とてんかんがあり、行動にも異常が見られました。ある日慶應義塾大学病院の外来を訪れた伊三郎は、自分の子どもと同じような重い障害のある子どもたちがたくさんいることに驚き、小林に対して、「学校に行けない重症心身障害児を受け入れる学園をつくってほしい」と提案します。

住民の反対運動などにも遭い、土地探しには苦労しますが、現在の島田療育センターがある東京都多摩市の一万坪の土地を伊三郎が寄贈し、各界からの寄付金も募り、紆余曲折を経ながら計画が進みました。

写真・現在の島田療育園(島田療育センター)

「島田療育園」は「島田療育センター」という名称で現在も活動を続けています。


1961年(昭和36)には、国から正式に認可された初めての重症児施設「島田療育園」が日本に誕生し、小林が初代園長となります。その後、1963年(昭和38)には「びわこ学園」が、1964年(昭和39)には「秋津療育園」が続いて認可を受けることになりました。

戦前の日本の知的障害者の施設は、公的な制度が整う前に、まず民間からその動きは始まりましたが、戦後の重症児者施設の場合も同様です。黎明期の3つの施設の創設者たちは、それまで概念さえなかった「重症心身障害児」の存在を広く世に知らしめました。そして、障害者を一般社会で自立生活を送れるかどうかで、線引きしてきた社会に対して、施設の中で医療を含めた手厚い保護を受けることで可能となる自立や自己実現もあることを示しました。障害者を施設によって終生保護しようとする発想は、現在では否定される考え方ですが、この時代においては、施設は見捨てられた重度や重複の障害者の生命や尊厳を守るための拠点として、親や支援者たちから強く支持されていました。


木下 真

 

参照:『重い障害を生きるということ』(高谷 清)、『施設養護論』(浦辺 史/積 惟勝/秦 安雄 編)、『天地を拓く』(津田 裕次監修)、「重症心身障害児施設の黎明-島田療育園の創設と法制化―」『〈全国重症心身障害児(者)を守る会〉の発足と活動の背景』(窪田 好恵)

▼関連番組
 『ハートネットTV』(Eテレ)

  2017年1月26日放送 障害者殺傷事件から半年 次郎は「次郎という仕事」をしている
 ※アンコール放送決定! 2017年3月21日(火)夜8時/再放送:3月28日(火)昼1時5分

▼関連ブログ
 知的障害者の施設をめぐって(全14回・連載中)
 第 1回 教育機関として始まった施設の歴史
 第 2回 民間施設の孤高の輝き
 第 3回 戦後の精神薄弱児施設の増設
 第 4回 成人のための施設福祉を求めて
 第 5回 最後の課題となった重症心身障害児・者 1
 
第 6回 最後の課題となった重症心身障害児・者 2
 第 7回 最後の課題となった重症心身障害児・者 3
 第 8回 終生保護のための大規模施設コロニー
 第 9回 大規模コロニーの多難のスタート
 
第10回 政策論議の場から消えていったコロニー

   (※随時更新予定)

 
 障害者の暮らす場所
 第2回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐前編‐
 第3回 日本で最初の知的障害者施設・滝乃川学園‐後編‐

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