【キャスター津田より】9月16日放送「福島県 大熊町」

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 今回は福島県大熊町(おおくままち)の声です。重大事故を起こした東京電力福島第一原子力発電所が立地し、津波被害も受けています。約96%の町民は、放射線量が高い帰還困難区域に自宅があり、除染で出た土などを最長30年貯めておく中間貯蔵施設も建設されました。
2019年、帰還困難区域を外れたごく一部(2地区)で、避難指示が解除されました。このうち大川原(おおがわら)地区には、新しい役場や災害公営住宅、診療所、高齢者グループホームを併設した福祉施設、飲食店やコンビニ、電器店などが入った商業施設、大浴場を備えた宿泊温浴施設、トレーニングジム付きのイベントホールなどが整備されました。こども園と一体化した小中一貫校が今年4月に授業を始め、0~15歳の30人ほどが通っています。大規模なイチゴ栽培やコメ作りも行われています。
 また去年6月には、優先的に除染とインフラ整備が行われた帰還困難区域の一部(=特定復興再生拠点)でも、避難指示が解除されました。人口の半数超が住んでいた場所で、町民交流施設や起業を支援する施設がオープンし、宅地や賃貸住宅、商業施設、廃炉関連企業の入居を見込む産業交流施設の整備も進んでいます。図書館と公民館、震災関連文書などを展示する伝承館を融合した施設の整備構想もあります。今年からコメの実証栽培が始まり、ホウレンソウなどの葉物野菜の一部は、出荷制限も解除されました。
町の人口はぴったり10000(9月1日現在)で、町民の居住地は、72%がいわき市など他の自治体、22%が県外、6%が町内です(実数は584人。廃炉関係者など、住民登録がない人を含めた町内居住者の推計は1100人ほど)。全町避難の影響は大きく、多くの町民は全国各地へ離散したままです。

はじめに、約90世帯が暮らす大川原地区の災害公営住宅に行き、8年前に取材した新妻茂(にいつま・しげる)さん(74)を再び訪ねました。当時、大川原地区は日中の出入りだけ許可されており、代々農家の新妻さんは、避難先の茨城県から頻繁に通っていました。放射性物質の影響を調べるため、自分の畑で野菜を試験的に栽培していて、“除染後は家の手入れができるようになってよかった。少しずつ復興が進めばいいと思う”と話していました。その後、新妻さんは元の自宅を解体し、避難先の茨城県に家を新築しました。自身は4年前に帰還しましたが、妻や子どもは避難先に定住しました。

「親から引き継いだ土地も少しばかりあるし、その土地をなくしたくない…。前の取材は65、6歳だから、まだまだ大丈夫だと思って自分の土地をきれいに手入れしていたし、俺らが一生懸命やっているうちに皆が帰ってきて、どんどん田畑がきれいになっていくと思ってたけど、長くて…。もう74歳になって、あと何年生きられるかと思うようになったね。茨城でも、結構、便利な所に避難したんだよ。歩いて10分くらいで買い物できる。ここは店も病院もないし、はじめは町で一緒に暮らそうと家族で言ってたけど、バラバラになっちゃって…。この状況で、“俺は帰るから皆も帰れ”とは言えないしね」

その夜、盆踊りがあると聞き、6月に避難指示が解除された復興拠点の駐車場を訪ねました。大熊町の魅力を体験するツアー(1泊2日)の一環で、東京、大阪、広島などから41人が参加していました。伝統のお囃子を演奏するのは、町内居住者が4年前に結成した『平馬(へいま)会』で、演奏のほか、国の登録有形文化財に指定された明治期の屋敷『渡部家』の保存活動も行っています。代表の愛場学(あいば・まなぶ)さん (43) は役場職員で、妻子は避難先の群馬県に定住し、4年前に1人で帰還しました。

「演奏が終わった時の拍手はたまらないですね。お子さんから大人まで、輪をえがいて楽しそうに踊っていたので、よかったと思います。12年も経って、戻りたくても戻れない、避難先で生活が落ちついた町民もいます。そういった方が大熊町に来た時に、すごく懐かしいと思える、安心できる場を、大熊に住む自分たちがつくっていくことが大事だと思います」

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次の日、宿泊温浴施設『ほっと大態』に行き、ここで働く堀本大樹(ほりもと・たいき)さん(27)から話を聞きました。自宅は今も帰還困難区域で、両親は茨城県、自身はいわき市で暮らし、毎日通勤しています。鍼灸(しんきゅう)師と柔道整復師の資格も持ち、去年から訪問鍼灸も行っています。

「避難所でボランティアの方が整体をやっているのを見て、その場に何もない状況でも人に貢献できる仕事はいいなと、志しました。避難後に体がガタついて痛みが出ていたりするので、大熊町に接骨院などがあったら“医療”として成り立つと思うし、1つでも戻ってくる安心材料になると思います。大熊町に店を持って、来てもらうのが夢です。前よりステップアップした大熊町になれたらと思います」

さらに、盆踊りがあった復興拠点で、起業を支援する施設『大熊インキュベーションセンター』を訪ねました。旧大野小学校を改装し、起業を志す人たちのため、共同オフィスや貸事務所、会議室などを備えています。ここ数年、大熊町は若い移住者が増えており、ここでも多くの移住者が、パソコンを前に仕事をしていました。この施設で起業家のサポート業務を担う谷田川佐和(やたがわ・さわ)さん(26)は、学生時代から岩手県などで震災復興に関わり、去年7月、東京から移住しました。全国の大学生が大熊町の活性化策を発表し、町長や商工会長などが審査するというイベントも企画しました。

「町がどう発展していくべきか、いろんな人が意見を出せて、それを聞いてもらえて、一緒に挑戦できそうな空気があったのがすごく意外で、うれしくて、移住を決めました。大熊町は今、メインとなる産業がないし、人口も少なくて、土台のインフラも整っていない状況です。まさに今、発展させようと頑張っているところで、そういった挑戦する人々の姿は、若者が見てすごく学びになると思うんです。日本中の若者に大熊町を知ってもらいたいし、町の未来を担う人が増えるのを願って仕事しています」

4年前の避難指示解除から累積すると、廃炉作業の関係者や若い移住者など、348人が新たに町に住民登録し、町内に住んでいます。福島第一原発の立地自治体で、ネット上で“今後10年草木も生えない”と言わんばかりに書かれた2011年、12年ごろを思えば、若い移住者の増加など驚くばかりです。

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また今回は、避難先に住む町民も取材しました。冒頭のデータで示したように、町外に住む人が今も9割以上です。広野町(ひろのまち)では、『おおくまパークゴルフ協会』(会員32人)が活動しており、各地に住む大熊町民が集まってプレーを楽しんでいました。会長の佐藤秀一(さとう・しゅういち)さん(70)は、いわき市に家を新築し、妻と息子と暮らしています。自宅と農地が除染廃棄物を保管する中間貯蔵施設の予定地となり、東電に売却。もはや大熊町には、自分の人生の痕跡が残っていません。

「震災がなければ大熊町で生活して、例えば今なら稲刈りとか、農作業で汗を流していたので、パークゴルフを始めていたかどうか分からないね。避難して初めて面白さを感じましたね。大熊にいた時は知らなかった人と、同じ趣味を見つけて集まって、世間話をしながら楽しくできるのが一番だね」

副会長の新藤建次(しんどう・けんじ)さん(70)も、“嫌なことを振り返っても仕方ない。私も好きなことに出会えたので、体を動かせる限り、みんなと楽しみたい”と言いました。

最後に、最も多くの大熊町民が暮らすいわき市へ行き、ふるさとの集落をジオラマで再現したという、元農家の猪狩松一(いがり・しょういち)さん(76)を訪ねました。26年前に妻を亡くし、いわき市に購入した中古住宅に 1人で暮らしています。自宅は津波で破壊され、しかも今なお帰還困難区域で、すぐ近くには中間貯蔵施設もあります。ジオラマは半畳ほどの大きさで、紙粘土と絵の具を使って実に精巧に集落を再現していました。さらに庭では、農家の誇りは捨てまいと、限られた広さに様々な作物を育てていました。町の特産だったキウイフルーツも、たわわに実っていました。

「震災後は全て失った…。農家もできなくなったし、そういう経験をしていると、この世には救う神なんかいない、神には絶対頼らないという気持ちになるね。諦めるのは簡単だけど、昔から住んでいる所だから、いわき市から1時間もあれば行けるんだから、住まなくても通勤農業でいいから、俺はそこで好きなことをやりたいんだ。ジオラマを作っていると、“ここはもう少し高かったかな、低かったかな”とか、楽しいというより故郷に帰ったという感じだよ。キウイは妹に食べたいと言われたから、“待ってろ、作るから”って作り始めたの。大熊町はやっぱり今でも本当に大好きなんです。できれば町で生活したいんですけど、帰れないものですから、とにかくいつか戻れるだろうと、わずかな望みを託して、先祖の土地を絶やさず活かしていきたい気持ちでいます」

今年6月に可決・成立した“改正福島復興再生特別措置法”によると、帰還困難区域内の復興拠点を外れた地区は、先に住民が帰還意向を示せば、その後、宅地や道路、田畑の除染、インフラ整備が国費で行われます。猪狩さんは、“一切除染していない故郷を目の前にして、ここに帰るかと聞かれても、はいと答える人が少ないのは当たり前だ”と言います。“地区内の除染は全部終わりましたが、あなたは戻りますか?”と尋ねるのが筋だ”と言います。人生の回復がほぼ不可能となった大勢の人々がいます。

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