【キャスター津田より】7月29日放送「福島県 相馬市 新地町」

いつもご覧いただき、ありがとうございます。
このたびの秋田県の大雨災害では、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。
約20年前、私は秋田放送局で勤務しました。今なお生活が大変な方も多いですし、復旧作業は続きますが、何卒お体だけは大切に、無理せず生活再建に取り組んでいただきますよう心から願っております。

今回はまず、福島県相馬(そうま)市の声です。人口が約33000で、12年前の震災では450人以上が亡くなり、5800棟以上の住宅に被害が出ました。住まいや道路、港湾施設などの復興事業を進めましたが、大半が終了した矢先、今度は2年続けて(2021年2月と2022年3月)震度6強の地震に襲われました。去年の地震(名称:令和4年福島県沖地震)では、半壊以上の住宅が市内で2000棟を超え、相馬港では岸壁が1m近く沈下して亀裂が200m以上に及び、公共埠頭は全て使用不能になりました。1年以上経っても、建物の穴やひびをシート等でふさぐなど、応急修理したままの状態が散見されます。

はじめに、海を望む景勝地・松川浦(まつかわうら)に行きました。去年の大地震で、24軒ある旅館のうち、11軒が休廃業に追い込まれました。休業中の旅館の4代目、菅野功(かんの・いさお)さん(46)は、建物が大規模半壊となり、被害額が億単位に上りました。県のグループ補助金を活用して建物を新築する予定ですが、補助金の給付に時間がかかり、今も着工していません。菅野さんは、旅館の前で“浜焼き”(=地元の魚を丸ごと串焼きにしたもの)をつくって売ったり、貯金で子ども4人を養っています。

「今回ばかりは心が折れそうになったけど、修理しても同じ程度の地震が来たら、またやられちゃうじゃないですか。繰り返しなんです。またお金がかかるんです。だったら建て直そうかと…。補助金がなかったら、正直、旅館をやめようと思ったでしょうね。お客さんも来ないような松川浦では、自分の息子たちも、住みたいとか商売したいとは思わないから、そう思ってもらえる松川浦にしたいです。ここまでひどいことが続いたら、少々のことではへこたれないんじゃないですか。ピンチはチャンスと考えないと、試練は乗り越えていけないので」

去年起きた最大震度6強の福島県沖地震では、福島県で34000棟以上、宮城県で21000棟以上の住宅が被害を受けました。屋根瓦の落下、建物の壁や道路の亀裂、水道管・ガス管・ガラスの破損、墓石の被害などがあり、工場や商業施設の休業、物流の混乱もありました。東北新幹線が脱線し、複数の火力発電所も損傷して、相馬共同火力発電の新地(しんち)発電所2号機は、再開まで10か月かかりました。

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次に、蒲庭(かばにわ)地区に行き、震災の記憶を継承するため、自宅倉庫の壁に『津波ここまで』という看板を設置した松村浩安(まつむら・ひろやす)さん(71)を訪ねました。看板は2mほどの高さで、道路沿いにあるため目立ちます。松村さんは震災時、同居する母親と自宅2階へ避難し、押し寄せる津波から何とか助かりました。1階天井まで浸水した自宅は、リフォームして4ヶ月後には生活を再開したそうです。去年の地震では被害がなかったものの、12年前の記憶がよみがえったと言います。

「去年もドーンときました。揺さぶられて、布団から起きられませんでしたから。皆、災害は来ないでほしいと言うけれど、“来ない訳がない、そのうち来るから”って俺は言うんです。寝る時も、枕元に免許証と財布とスマホ、3点は必ず置いています。災害が来て、り災証明書をとるにも、銀行でお金を下すにも、身分証明書が必要ですから。私は生きてさえいれば、どうにかなるって考えています」

2年続けての大地震、さらに言うと相馬市は、2019年の台風19号でも水害に見舞われていて、大災害が連続しています。松村さんの感覚は、相馬市民としてもっともです。

その後、相馬総合高校の前を通ると、制服姿で野球部の練習を眺めている2人を見かけました。スタッフが声をかけて雑談していると、2人は夏の大会を終えた3年生で、震災が縁で野球を始めたことが分かりました。大和田陸(おおわだ・りく)さん(17)と脇坂晃生(わきさか・こうせい)さん(17)は、相馬総合高校のバッテリーで、5歳の時に仮設住宅で出会いました。同じ仮設に住み、敷地内でよくキャッチボールをするうち、2人とも小学校で野球を始め、中学、高校の6年間はバッテリーを組みました。夏の大会は1回戦敗退でしたが、ピッチャーの脇坂さんはこう言いました。

「最後もふがいないピッチングをしてしまったんですけど、それでも最後まで諦めずに、マウンドで声をかけてくれて本当に助かったので、感謝の気持ちしかないです。震災は無いほうがいいんですけど、 その出来事がなかったら、いま僕たちも出会ってないと考えると、いい意味で感謝だと思います」

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その後、相馬市の隣の新地町(しんちまち)でも取材しました。新地町は人口が7700で、震災では120人近くが犠牲になり、津波で470戸あまりが全壊しました。駅から役場周辺まではかさ上げされて、新しい住宅街になり、7カ所に集団移転団地があって、災害公営住宅も整備されました。防潮堤や漁港に関する復興事業も終わり、文化交流センターや複合商業施設、ホテルや入浴施設、フットサル場や防災緑地公園なども、震災後に誕生しました。この新地町も、2年続けて震度6クラスの大地震に見舞われています。特に去年の地震では、町の全世帯の半数にあたる約1500世帯で被害が出ています。

まず、内陸部の真弓(まゆみ)地区で、農家の林(はやし)ナミ子さん(77)から話を聞きました。2つの産直施設の代表を努め、特産のニラを使ったギョウザや豚まんなど、地場産品も開発した女性です。去年の地震では自宅の屋根瓦が落ち、蔵は基礎が崩れたため、町に申請して解体してもらいました。聞けば、林さんは 12年前の津波で、高校3年生だった孫娘を亡くしていました。孫娘が通っていた高校では9人が亡くなり、生徒会は亡くなった仲間を忘れまいと、『おもひの木』を植樹しました。

「初孫だから、今でもかわいい…。校長先生と話していた時、“亡くなった生徒はだんだん忘れられていくんでしょうね”と何気なく言ったのね。そしたら後になって校長先生から、“ナミ子さんのあの一言で、子どもたちが『おもひの木プロジェクト』を立ち上げたんだよ”って言われたの。だから、あの木だけは残しておいてと言ってるの。皆さんに日々感謝して、前向きに生きてゆきたいです」

孫娘の同級生や先生は、今も誕生日になると線香を上げにくるそうです。

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次に、釣師浜(つるしはま)漁港に行きました。去年の大地震で岸壁が大きく沈下し、復旧工事が今も続いています。ここでは地元産のタコを使った加工品“タコシウマイ”を開発した、渡邊京子(わたなべ きょうこ)さん(68)と、日下智子(くさか・ともこ)さん(50)に話を聞きました。“タコシウマイ”は去年販売を始め、今では地元のホテルやコンビニの人気商品です。渡邊さんは漁師の妻ですが、原発事故後は出漁日が限られるため、漁の売り上げは以前の半分だと言いました。

「地元の魚を利用して、全国の皆さんに食べてもらいたかったんです。市場に出しても売れない、水揚げしても買ってくれない、値段がぐっと下がったり…今でもありますよね。魚を獲ってきても、安くて売れなくて、海に捨てるとか、そういう話を聞いた時、どうにかならないのかしらって思ったんです」

今月、IAEA(国際原子力機関)は、福島第一原発の処理水の海洋放出について、国際安全基準に合致していると結論づけた包括報告書を公表しました。放出が現実味を増す中、福島の水産関係者が今どんな思いか、過去の苛烈な風評被害の実例をたくさん知る私たちスタッフには、察するに余りあります。

最後に、雁小屋(がんごや)地区にある集団移転団地に行き、震災から約1か月後の避難所で会った、菅野直己(かんの・なおみ)さん(70) と、伊藤庄治(いとう・しょうじ)さん(60)を再び訪ねました。当時の新地小学校には、津波で家を失った約300人が避難していて、2人は直径1m以上の大鍋で炊き出しのニラ玉を作りながら、明るく話しかけてくれました。今回、再会した2人は元気なままで、菅野さんは漁師を引退し、伊藤さん今も現役で左官職人をしていました。団地内にある互いの新居を行き来して支え合うとともに、この団地に来て、他の地区出身の人や、震災後に生まれた子どもたちとのつながりも生まれたそうです。2人はこう言いました。

「朝起きると“おはよう”って、自動販売機の前でツバメの子みたいに並んで座って、ジュースを飲みながらいろんな話をしたり、隣にいる男の子と遊んでやったり、“おんちゃん、おんちゃん”と言われるとかわいいよね。まるで知らない人と付き合うようになったし、人とのつながりが大事…震災後、特にそう思ったね。みんな仲良く楽しく生きていくのも、人生の一つだと思っています」

伊藤さんは震災前、菅野さんは今の団地に移ってから、ともに妻を亡くしています。人とのつながりの大切さをしみじみ感じる毎日なのでしょう。