【キャスター津田より】3月6日放送「宮城県 南三陸町」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 東日本大震災と東京電力福島第一原発の事故から10年。
 番組は震災の9日後に始まってから440回を数え、のべ4813人の声をお伝えしました。毎回皆さんの声に聞き入り、考えされられているうち、あっという間に10年が過ぎました。様々な逆境から立ち上がる被災した方々の生きざまには、本当に頭が下がり、深い敬意を抱いてきました。皆さんの10年に及ぶ労を心からねぎらいたい…いま私たちスタッフが抱くのは、この思いに尽きます。

 

 今回は、宮城県南三陸町(みなみさんりくちょう)です。人口およそ12000の町で、震災では831人が犠牲になり、住宅被害は全壊だけで3000戸以上です。

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町の震災復興計画では、高台に住まいを整備し、かさ上げされた低地に商店街や水産加工場を配置する“職住分離”を徹底しました。復興計画は今年度が最終年度で、一時100人を超えた応援職員も今年度末で派遣要請を終了します。仮設住宅は一昨年12月に解消され、災害公営住宅の整備と集団移転は4年ほど前に完了しました。2015年に総合病院が開業し、翌年には町中心部にスーパーやホームセンターがオープンしました。公民館や図書館も復旧し、最新の衛生管理を導入した魚市場も一昨年完成しています。去年は民間企業が志津川漁港の近くにワイナリーを開設、震災復興祈念公園も開園しました。今後は、新たな道の駅の建設が決まっています。

 

 はじめに、志津川湾を望む戸倉(とくら)地区に行きました。ここでカキやワカメなどの養殖を行う60代の男性は、震災の翌年、漁師仲間と新たな取り組みを始めました。思い切って養殖いかだを震災前の3分の1に減らし、カキに十分な栄養が行き渡るようにしたのです。結果、震災前はカキの成長に2〜3年かかっていたのが、1年で出荷可能になり、生産の回転が向上して、個々の生産者の年間生産量や生産額が大幅に増えました。労働時間も大きく減ったそうです。

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 「津波でいかだも全部、船もなくなりました。もう漁業ができる状態じゃないと思ったんですけど、 学校が始まって地域の子ども達が動き出して、元気ももらいましたし、沈んでばかりもいられないって思いました。災害って、また必ず来るんですよね。10年、20年後を考えた時、自然とたたかうんじゃなくて、すべてを受け入れて持続可能な漁業を目指そうと、生産方法が変わったんです。チャレンジすれば必ず乗り越えられる、そんな経験させてもらいました。自然や資源を大事にすれば、必ず恵みは返してくれますので、おごらない…人間としておごったり、傲慢にならないことが秘けつですね」

 男性が会長を務める、県漁協の志津川支所戸倉出張所のカキ部会は、昨年度、農林水産省などが主催する優良生産者の表彰(農林水産祭)で、水産部門の最高賞“天皇杯”を受賞しました。

 次に、集団移転先の高台にある松崎(まつざき)団地に行きました。団地には、町の移動図書館が月に1度やって来ます。

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訪れていた80代の男性は、代々漁師の家で育ち、漁師と町の職員を兼業してきました。津波で自宅は全壊して大切な蔵書も流され、命からがら高台に逃げたそうです。もちろん当時は読書する気にもなれませんでしたが、今は穏やかに、息子夫婦など家族6人で暮らしています。

 「やっぱり高台にいると、海を眺めて、山を眺めて、本当に自然と親しめるのが一番の強みで、私は最高だと思っています。朝は本当に気持ちよくて、4時ごろ起きて、万歳したいような気持ちになっています。ここで生まれて、ここに先祖がいて、やっぱりここに落ち着いて一生を終わりたいなと思います」

 そして、彼岸に向けて菊を栽培する、30代の農家の男性を訪ねました。震災前、町内に約50戸あった菊農家は、津波で被害を受けて20戸未満に減りました。男性の家は酪農や稲作をしていましたが、減反政策を機に父親が菊栽培を始めたそうです。20歳の時に父親が他界、津波ではハウスや農機具を失いました。海水に浸かった土をすべて入れ替え、国の補助などもあってハウスが完成し、震災の翌年には同じ土地で菊の栽培を再開しました。現在の年間出荷数は、60万本以上です。

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 「今はコロナで葬儀需要が激減していますので、白い菊は極力減らすようにして、仏壇に飾るようなものを多めに作っています。この10年、自分を支えてくれたものは、やっぱり家族ですかね。震災のちょっと前に入籍したばかりで、そこからいろいろありながらも、子どもも生まれて、責任感というか、やらなくちゃいけないなと思いました。生産というのは、歩みを止めたら終わりなのかなと思いますので、“常に前進”と思っています」

 さらに、震災時は避難所だった入谷(いりや)小学校に行きました。

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放課後の体育館では、町で唯一の子ども向けサッカーチームが練習していました。37年前に結成され、現在メンバーは男女26人。コーチは60代の男性で、本業は大型車両の運転手です。震災で職場が被災して仕事もなくなりましたが、支援物資の運搬ボランティアとして活躍しました。奥様の両親が津波の犠牲になったそうです。

 「子ども達は避難所でバラバラになっていたので、そこにバイクで行って“みんなでサッカーやらないか”と声をかけて歩いて、5月5日に再開というか、みんなが集まってくれたのがすごくうれしかったです。震災直後、子ども達とサッカーができるとは思っていなかったので、みんなと一緒にサッカーするのが楽しくてしょうがないです。私たちもいろんな方々からの支援を受けて、ここまで復興にこぎつけたので、何かあった時、子ども達には誰かのために役に立つような人になってほしいです」

 

 その後、町の北部にある歌津(うたつ)地区に行きました。国道45号線沿いにある商店街“ハマーレ歌津”は、飲食店、衣料品店、電器店、酒店など、8つの店が集まっています。

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衣料品店の70代の男性は4年前にも取材していて、当時は仮設商店街での取材でした。当時はこう言いました。

 「ふるさとに賑わいを取り戻したいです。どうしても元のように戻りたい、その一心でやってきたので、今いる我々がこのふるさとを復活させなければならない…みんなで盛り上げていきたいです」

 その後、2017年に現在の“ハマーレ歌津”が完成し、男性は補助金と貯蓄を取り崩して店を構えました。ワカメやシロウオなど、特産品をいかしたイベントで賑わい、1年で約30万人が訪れました。しかし商店街に面した国道の工事が始まり、ほとんどの車が迂回路を通るようになって、2年近く苦戦を強いられました。ようやく工事が終わると、今度は感染症の拡大で、頼みのイベントができません。2年前、仙台と気仙沼を結ぶ高速道路が開通し、国道の交通量が徐々に減ったのも客足に影響しています。

 「気仙沼で離島の大島(おおしま)まで車で行ける大島架橋が開通したとか、注目度が北へ行ってしまって…コロナもあってダブルパンチです。売り上げも、以前の3割とか半分といった変わりようの1年でした。だから、ここが踏んばりどころ。またイベントをやっていければ、元気になると思っています。“ハマーレ歌津”は希望を持った名前なんです。“はまれ”は、方言で“一緒にやろう”のことで、みんなと楽しみながら発展していく、我々も楽しいと思える商店街づくりを続けていきたいです」

 町の人口は、震災前から約3割減り、3人に1人は高齢者です。個人商店の衰退は、地域の衰退にも直結します。男性の気概は、自分の商売はもちろん、地域を守るという気概でもあります。

 最後に、地区にある薬局を訪ねました。店主で薬剤師の40代の男性に聞くと、津波で膝上ぐらいまで浸水しましたが、商品の4分の3程度が残ったため、町の薬局では唯一、震災直後から店を開けたそうです。

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その後も薬の卸売業者やボランティアの協力で、営業を続けることができたといいます。

 「医薬品がなくなってしまった方が、ここを頼りに来られることが多かったので、商品が残って助かったなという思いがあります。震災の時に南三陸町で残った医療機関はここだけになってしまったので、保健所の方が来た時も、“この店しかないので、意地でも店をやってください”と言われて…。小学生の長女と長男が、2人とも薬剤師になって、ここで働きたいと言ってくれています。復興にどう貢献できたかは分からないですが、2人も何か感じてくれたのかなと思います。下の子は、避難所に行ってから妊娠していると分かって…。もしかすると津波で家族が減っていたかもしれないし、逆に増えるという状態だったので、ありがたい気持ちでいっぱいでした。これからも、この町の医療に貢献したいです」

 津波で破壊され尽くした南三陸町の光景や、避難所で会った方々の、見たこともない硬直した表情は、今も脳裏に焼き付いています。復興事業のペースに心が追いついていない町民もたくさんいますが、10年前のあの様子を思えば、皆さんの顔は別人のように穏やかになりました。