【キャスター津田より】2月27日放送「福島県 大熊町」

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 今回は、福島県大熊町(おおくままち)です。福島第一原発が立地する人口約1万の町で、全町民が避難を強いられました。9割以上の町民が住んでいたのは、現在、放射線量が高い帰還困難区域です。そこから外れた2つの地区では、一昨年4月に避難指示が解除され、去年3月のJR常磐線の全線再開とともに、帰還困難区域の大野(おおの)駅周辺などでも避難指示が解除されました。現在は帰還困難区域の中にある、いわゆる“復興拠点”(町の面積の約1割)で、再び人が住めるよう、国費で除染とインフラ整備が進んでおり、復興拠点は来年春の避難指示解除が目標です。

 

 はじめに、大川原(おおがわら)地区にある災害公営住宅に行きました。

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92戸の戸建て住宅が並び、避難指示解除の2か月後に入居が始まりました。ここで会った70代の男性は、避難先のいわき市に家を購入したものの、どうしても町に戻りたい一心で、妻と2人で災害公営住宅に入居したそうです。

 「やっぱり大熊が好きだから、大熊がいい。最初から戻ってくるつもりでいたんだよ。体を動かさないと健康上のために良くないので、妻と2人で毎日頑張っています。これから生きているうちは、頑張っていきます」

 また、同じく災害公営住宅に住む、町出身の20代の女性にも話を聞きました。震災当時は中学1年生で、会津若松(あいづわかまつ)市の県営団地に避難し、高校進学とともに南相馬(みなみそうま)市へ移りました。変化に対応しきれず、一時は不登校になったそうです。現在は東京の大学で演劇を学んでいますが、去年、大学に在学しつつ町へ戻って来ました。空き地の有効利用や住民の絆づくりを進める「おおくままちづくり公社」で働き、除染した田んぼのコメを使った酒造りでは、PRを担当しました。

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 「コロナで大学がオンライン授業になって、東京で生活しなくても大学生ができる状況になったので、東京にこだわる必要が全くないなら、思い切って帰ってこようと思って…。コメ作りや野菜作りを諦めていた方もいると思うんですけど、日本酒という1つの形になったのは、希望になるんじゃないかと思います。震災でメンタル的に落ち込んでいる時、楽しかったのが演劇とか舞台なので、大熊町に劇場を建てるというのがでっかい目標です。被災地だけど楽しそうって思ってもらったら、万々歳だと思います。自分がまず楽しまなきゃ到達できないので、楽しんでいけるように頑張っていきたいです」

 避難指示が解除された大川原地区には、新しい役場庁舎や駐在所、災害公営住宅や移住者向けの賃貸住宅があり、東電の社員など住民登録のない人も含めると、現在約860人が住んでいます(町推計)。雑貨店、電器店、コンビニが仮設店舗で営業し、夜にお酒が飲める飲食店も1年前にオープンしました。去年4月、高齢者のグループホームを併設した福祉施設が開業し、今月初旬には診療所がスタートしました。町が20億円で建設した、約3haの広さがあるイチゴ栽培施設では、最先端設備で通年出荷しています。商店、飲食店が入る商業施設、町民交流施設、入浴施設を建設中で、2023年度には、AI教材を多用するなど先進的な教育を行う幼小中一貫校が開校する予定です。こうした動きの中で、20代女性のように、町の将来に期待を寄せる声も(わずかですが)確実にあります。

 その後、帰還困難区域の野上(のがみ)地区に行きました。ここは前述の復興拠点内にあり、ちょうど1年前に立ち入り規制が緩和されました(宿泊不可だが、許可証なしで立ち入り可能)。牛の放牧を見かけて訪ねると、牧場主は30代の女性でした。静岡出身で、移住先の楢葉町(ならはまち)から通って牛を飼っています。震災当時は東京で会社に勤めていて、避難で放置された牛の存在を知り、福島へやって来ました。地元農家とともに町内に取り残された牛を集めて放牧し、全国のボランティアや研究者も協力しています。

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さらに原発事故から教訓を学んで継承していこうと、農家の震災体験を聞き取り、内容をインターネットで公開する活動も続けてきました。生活は楽ではないそうで、塾の講師や蕎麦店のアルバイトで生活費をまかなっています。

 「東京に住んでいる者として、何かやらなきゃいけないんじゃないかと支援を始めました。電力を使っている側なので…。大変は大変で、精神的にもつらかったです。でも、それに浸っている時間もないので、とにかくずっと走ってきた感じですね。家畜の餓死とか、殺処分せざるをえなかったとか、農家の方は本当に断腸の思いで、悲しくて…というのもあるから、苦しみや悲しみ、農家が頑張ってきたということは、ぜひ多くの方に知ってもらいたいです。同じビジョンを共有できる方がいたら、ここで一緒にやっていきましょうっていう感じですね」

 

 次に、避難先で暮らす町民を訪ねました。そもそも大熊町の中には爆発が起きた原発があり、除染廃棄物などを貯めておく中間貯蔵施設もあります。9割以上の町民の家は帰還困難区域の中にあり、ほとんどの方は別の町に居を構えて生きていく選択をしました(前半の方々はむしろ稀な存在です)。

 避難した大熊町民約4500人が暮らすいわき市では、震災の9か月後に出会った60代の男性を再び訪ねました。甥のいる埼玉へ車で愛犬と避難した後、会津若松市の仮設住宅に移りました。ここで取材し時は、“大熊町に帰りたいです。やっぱり地元に帰ったほうが精神的にも落ち着きますから”と言っていました。4年前、いわき市小川(おがわ)地区に完成した災害公営住宅に入居しましたが、去年、20年間生活を共にした愛犬を亡くし、今は1人暮らしです。

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大熊町の自宅は除染したものの、その後、野生動物に荒らされて傷みが激しくなり、3年前に解体したそうです。

 「悔しいは悔しいですね。やっぱり10年という年月が経っちゃうと、帰るっていう気持ちはもう…。こっちはこっちで、ある程度、生活ができちゃっていますからね。犬がいなくなって寂しいですよ、本当に…。やっぱり気が抜けちゃいますよね。もし保護犬がいれば、譲ってもらおうと思っているんです。親戚とかに迷惑かけないように、寿命がくるまで健康で生きようとは思っています。それだけですね」

 そして、避難した大熊町民約600人が暮らす会津若松市に行き、7年前に出会った女性を再び訪ねました。子ども4人を育てながら市内の仮設住宅で暮らしていて、当時はこう言っていました。

 「一時帰宅に行って思うのは、放射線量が高いことと、やっぱりネズミの糞。行くたびに無残なのが 一番嫌です。ここまで来て、振り返ることができないので、もう前に向かって進むのみです」

 あれから7年…。女性は50代になり、6年前に完成した災害公営住宅に、祖父と夫、子ども達と一緒に暮らしています。一人暮らしも多い公営住宅は住民交流が希薄なため、女性が発起人となって住民が集まるサロンを始め、週1回、布マスクの制作や昼食会など、イベントを通して交流しています。ただ女性は、子育てが一段落した上、公営住宅に入ったことで緊張の糸が切れ、体調を崩したままでした。

 「ここに来る前は常に家にいる人じゃないもんね。あっち行ったり、こっち行ったり…。それがやることがなくて、あれ?みたいな…。私は動いているほうがいいから、週に1回、サロンをやっています。私は今から何したいんだろうって、自分を見失ったところもあって、体が思うように動かないこともあるから、なるべく楽しく笑って、過ごしていけるような日々にしたいです」

 隣にいた次男は、“母がやりたいこと聞きながら、ついて行きたい”と言いました。

 最後に、大熊町出身者が営む金魚店を訪ねました。会津若松市の中心部にあり、店主は40代の男性で、8年前に開店しました。子どもの頃、金魚の産卵を見て感動したのがきっかけで、震災前から大熊町で金魚の繁殖を行い、東北から関東までのホームセンターに卸していました。避難してから現在まで、市内の借り上げ住宅で暮らし、繁殖は続けながら、30種類以上の金魚を店頭販売しています。

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 「大熊町で繁殖して世代をつないでいた金魚も、ここにいるんですよ。今は14世代くらいになりますね。意地でもつなぎます。原発事故で何もかも無くなったので、それも無くなったら、自分のメンタルが持たないと思います。“負けないで頑張った人間がいるぞ”っていう気持ちを持ち続けたいです。そして、いろんな人の垣根がない未来が来るといいですよね。震災に遭った、遭わないとか、原発への批判もあるけど、東京電力に勤めていた方は使命感があってやっていたと思うし、その関係性って難しいですよね。“金魚でも見ながら、気楽に楽しくいこうよ”っていうような、垣根のない、みんなが“まあ、いっか”って言えるような、そんな楽しい時代がいつか来てくれたらいいなって思います」

 いま福島では、東電の賠償の有無、または賠償額の多い・少ないで、あからさまに他人を非難する人も残念ながら存在します。10年間で常態化した分断を前にして、彼の言葉は非常に重く響きます。