【キャスター津田より】11月28日放送「福島県 双葉町」

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 今回は、福島県双葉町(ふたばまち)です。人口は約5800で、福島第一原発が立地しています。県内で出た、放射性物質を含む土などを最長30年保管する“中間貯蔵施設”もあります。町の96%は放射線量が高い“帰還困難区域”であり、震災では津波被害もありました。
 双葉町では今年3月、もともと帰還困難区域を外れていた3つの地区と、帰還困難区域の中にあるJR双葉駅の周辺で、避難指示が解除されました。県内では最も遅い解除です。

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駅周辺は、国が帰還困難区域内に設定した“特定復興再生拠点区域(通称“復興拠点”)の一部です。復興拠点(555ha)では国直轄で除染やインフラ整備が行われ、災害公営住宅(88戸)の整備や宅地造成、商店街や農業の再開、町による診療所の設置も計画されています。住民帰還の目標は2022年春で、現在、復興拠点では立ち入りの際の通行証は不要です。避難指示解除とほぼ同時に、JR常磐線も全線再開しました。
 ただ、避難指示解除は町の面積の約4%で、住民登録者は240人余に過ぎません。生活インフラも整っておらず、結局、居住は不可能です。今も県内で唯一、全住民が町を出て暮らしています。

 

 はじめに、復興拠点に含まれる三字(さんあざ)地区に行き、いわき市に暮らす70代の農家の男性に、解体した自宅の跡地を案内してもらいました。町内ではこれまで、800棟近くの建物が解体されています。

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自宅前には小さな神社があり、男性は一日がかりで、自ら鳥居を赤く塗り直したそうです。

 「さみしいよ、やっぱり。生まれた家がないんだから。諦めたくないんだけど、諦めざるをえない。家を建てて、ここに一生いるんだという気持ちになっていたのが、完全に断ち切られたでしょ。ある程度の賠償をもらっても それとこれとは別だからね。みんなで神社の境内で、また盆踊りでもやってみたいというのが私の念願。黄金色の稲穂をもう一回見たいね。何もかも、家もみな無くなって、若い人たちは他の所で仕事をしていて、それを辞めてまで戻ることはない。だから、高齢者が帰ってきて、明かりをつけるほかないんだよ。日中だけでも帰ってきて、機械の音を出して、誰かが“あそこで働いているのは誰だろうな”と見てくれれば、それだけでも明かりが灯ると思うよ」

 男性は避難指示が解除された両竹(もろたけ)地区にも農地を持っていて、去年から、将来の営農再開を見据え、ホウレンソウ、キャベツ、ブロッコリーなどの試験栽培も始めました。

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 次に“復興拠点”に含まれる上羽鳥(かみはとり)地区に行きました。去年、農地の除染が終わり、取材した日はトラクターで田んぼを整備している人がいました。70代の農家の男性で、一緒に避難していた母と妻を亡くし、現在は郡山(こおりやま)市に再建した自宅で、息子夫婦と暮らしています。

 「除染したからといって、平らではないし、あぜも低いし、排水もだめなんです。それらを全部改修してからの営農再開なんだね。まずは担い手です。やる人がいないと…。営農再開の糸口だけでも携われればいい、そしてバトンタッチできればと思っています。誰もいなくなっても、この上羽鳥のふるさとは永久に残ります。ふるさとは消えず、です。この山並み、風景をみると、なんとなく落ち着くんだね。以前は何かあると集落の人が集まって、ああいうのが、またできればいいなと思うんだけど…」

 町内520戸ほどの農家で、再開の意向を示す人は非常に稀です。ただ、町が今年示した営農再開ビジョンでは、2022年度に園芸作物の栽培、2025年度にはコメの作付再開を目指しています。

 

 そして、避難指示が解除された中野(なかの)地区にも行きました。もともと帰還困難区域外で、県が建てた“東日本大震災・原子力災害伝承館”が9月にオープンし、隣には町の産業交流センターが10月にオープンしました。

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ここには東電の福島復興本社や建設会社など10社が入り、飲食店も3つ入っています。近くにはビジネスホテルもできて、この一帯と双葉駅をつなぐ無料のバスも運行されています。
 伝承館の近くには、今年8月、復興工事の需要に応えて開店した工具店がありました。社長は30代の男性で、父親は隣で建設会社を営んでいます。大学卒業後は都内で就職し、2年前Uターンしました。

 「正直、戻ってくるのも心配でした。でも父親と母親がこちらで働いていたので、双葉町の復興に寄与できる仕事をやれればと思いまして、帰ってきました。地震、原子力災害から発生した遺恨を越えて、双葉町の中で事業をして、これから復興していかなければならないと思います。いずれ、新進気鋭の業者さんも集まると思います。そうすると“こうしていこうぜ”という話し合いもあり、ぶつかることもあるかもしませんが、いろんな人と手を携えていければ、すごく面白いなと思います。ぶっちゃけ、遊びには行きたいですけど、こっちに来たら来たで、景色も意外ときれいだったりするんですよね」

 

 続いて、現在の居住先を訪ね、お話をうかがいました。沿岸南部にあるいわき市には、双葉町民2100人ほどが暮らしています。

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いわき駅の近くでは、双葉町にあった接骨院が8年前から営業していて、町出身の30代の女性が両親や夫と働いていました。音楽の道を志して東京で暮らし、震災翌年に結婚、4年前にいわき市へ来ました。去年誕生した長女には、“ふたば”と名付けました。

 「ふわっと、‟ふたば“って名前をつけたかったので…。何となく双葉町をそばに置いておきたいみたいな。町に帰れないから、何か感じておきたいんですね。今を楽しく、この場所で生きていこうと思います。子どもが生まれたらストレートに物事を考えられるようになって、景色とか眺めるようになりましたよ。いろんなものが震災でなくなったから、‟ちゃんと見ないと”って気づいたと思うんです」

 

 また、内陸の郡山(こおりやま)市にも行きました。双葉町民650人以上が暮らしています。ここには震災の2年後につくられた、双葉町民の交流施設がありました。

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郡山市などに暮らす町民の自治会が運営していて、自治会長の70代の男性によれば、 旅行や食事会などを毎月のように企画し、情報交換と交流を行ってきたそうです。男性は6年前に郡山市に家を新築し、妻と娘夫婦、孫の5人で暮らしています。双葉町の家は、去年12月に解体しました。

 「みんなと顔を合わせるたびに心配事がなくなって、“自治会をやってよかったな”って思います。“双葉に帰りますか?郡山に住むんですか?”って皆さんに聞かれるんですけど、複雑で…。そうかと言って、双葉町にまた家を建てる資金的な余裕は全く無いですから、今ここで生活していくことで精一杯ですね。常に、後戻りしない、日々前に向かって、と思っていて、夜寝る時も朝起きた時も、自分の心に言い聞かせて、孫たちの成長を楽しみに頑張っています。心の奥には双葉町がいつもありますけど、それを言っていたのでは前に進めないですから。私もここ(郡山)の町内会で、次に班長を引き受けるんですよ」

 

 最後に、双葉町の北にある南相馬(みなみそうま)市に行きました。約270人の双葉町民が暮らしています。

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南相馬市で育ち、結婚を機に双葉町へ移ったという60代の男性を訪ねると、双葉駅西側に整備中の災害公営住宅が完成すれば、自分はそこに引っ越すつもりだと言いました。入居開始は2022年春で、双葉町の自宅は不本意ながら解体を考えています。すでに近隣14軒のうち、12軒は解体されました。男性は震災後も、伝統行事『相馬野馬追(そうまのまおい)』に参加し続けていて、身につける甲冑(かっちゅう)から垂れ下がる布には、双葉町の地区の名前がしっかり書かれています。

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 「ここ(南相馬)は生まれて育ったふるさと、あっち(双葉)は結婚して、子どもを持って、育てた拠点だから。自分から行った所だもの、第2の故郷だよ。甲冑を見ると、自分の住所はこれだって書いてあるから、やっぱり双葉は大事にしなきゃいけないって思うね。双葉町に帰ってみたいと思います。仕事でダメージ受けても、家に帰って子どもを見れば、頑張んなきゃいけないって、そういう思いをしたのも双葉の家だし…。ゆっくり、ゆっくりでいいから、双葉町の将来を見てみたいですね」

 町の96%が帰還困難区域、中間貯蔵施設があり、廃炉作業も続く…この状況を冷静にとらえ、早い時期から新天地での幸せに目を向けた町民が多いのも事実です。住民意向調査で“戻りたい”と答えたのは約1割で、避難先に家を構えた人のほうが普通です。町がいわき市内につくった災害公営住宅の団地には、飲食店などが入る商業施設、診療所、町民交流やデイサービスなどを行う施設も一体的に整備されました。これだけの町外コミュニティーを整えたのは双葉町だけでしょう。震災直後は埼玉県加須(かぞ)市に仮役場を置いたので、埼玉で家を買った人も結構います。タブレット端末を配布して町民への情報提供を行うなど、役場の工夫も続いています。ただそれでも、“生活拠点”と“精神的拠点”は全く別です。町民の中から“双葉”の2文字が完全に消えることはありません。