【キャスター津田より】11月21日放送「宮城県 気仙沼市」

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 今回は、宮城県気仙沼(けせんぬま)市です。人口およそ63000で、カツオやサンマ、メカジキでは全国屈指の水揚げを誇る港町です。震災では1300人以上が犠牲になり、15000棟余の住宅が被災しました。3年前に災害公営住宅が全て完成し、去年は集団移転先の宅地整備が完了、今年は8千人以上が入居していたプレハブ仮設住宅の退去が完了しました。飲食店や鮮魚店などの様々な店、ビール醸造所やラジオ局も入る4つの大きな施設が、中心部の内湾(ないわん)地区に集中して整備され、鹿折(ししおり)地区では去年、当初の予定より2年近く遅れて土地区画整理事業が完了しました。かさ上げされた約42haの土地に、公営住宅、水産加工場、再建した商店街、飲食店などが並んでいます。南気仙沼地区でも土地区画整理事業が完了し、残るは内湾地区の土地区画整理事業、防潮堤や道路の整備などです。

 

 はじめに、今年9月にオープンした、階上(はしかみ)地区のパークゴルフ場に行きました。

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震災遺構『旧気仙沼向洋高校』の校庭の跡地で、土地を市が買い取り、市内の建設会社が創立100周年事業の一環でパークゴルフ場を整備して、市に寄付しました。コースの総延長2㎞、全36ホールに池やバンカーなどもあり、市民のほか、震災遺構の見学者もレジャーとして利用しています。支配人を務める、元教師の60代の男性はこう言いました。

 「パークゴルフ場で楽しんでいただく、そうして少しでも幸せな心をつかんでいくことが、復興につながっていくことだなと思います。お子さんから年配の方までプレーしている姿を見ますと、気仙沼市の復興のためにも、皆さんが健康であることを祈っております。モノができたからといって、復興が完成したとは思っておりません。毎日が復興である、それを信じながら、一つ一つ目の前のことをやることで完成に近づいていくのかなと思います。」 

 

 次に、市の中心部にある潮見町(しおみちょう)に行きました。建物が立ち並ぶ震災前の姿とは異なり、現在は空き地も目立ちます。この町内にある塗料店は、震災の4か月後に取材した店で、当時は70代の男性店主が話をしてくれました。津波に耐えた倉庫と仮設店舗で、営業を再開していました。

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 「隣近所、仲よくお茶飲みしたりして、楽しく商売をさせていただいていました。ここに私が営業中の旗を立てておけば、潮見町の人たちがここを通ったら、寄っていただけるんじゃないかと思って…。 何とかここで、5年、10年と続けたいです」

あれから9年…。80代になった男性は、今も店に立っていました。震災翌年に自宅を再建、その2年後には、国の補助金を利用して新店舗も建てました。その後、高齢のため事業を他社に譲渡したものの、顧問として経営に携わりながら、娘夫婦や孫と暮らしています。

 「店には毎日通っているんです。生き甲斐だろうね。今まで世話になったお客さんを思うとね、自分だけ引退というわけにはいかないと思うんです。私が店をやっていると、何となく昔の潮見町の方たちがほっとするっていう話も聞きます。潮見町が賑やかになってもらいたいと思うけどね」

 

 そして、内陸部の新月(にいつき)地区にも行きました。小さな子どものいる母親たちの交流施設を訪ねると、敷地内に小さなパン工房がありました。

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40代の女性が去年開業した店で、店頭のほか、駅前の施設の一角などで手作りのパンを販売しています。女性は震災時、隣の陸前高田(りくぜんたかた)市の職員で、自宅を失いながらも最前線で働きました。夫や息子と気仙沼市に避難し、震災の3年後に公務員を退職しました。被災地支援の“パン作り教室”に何気なく参加したそうですが、そこでパン作りに目覚め、多くの人にパンを届けたいと、趣味から店舗経営に発展したそうです。

 「震災後、生き残ったことの罪悪感があったり、自分に何が出来るのか分からない、宙ぶらりんの状態だったり、育児をしていく中で行き詰まることもあって…。そういう中で、パンがこねられて食べられる状態になるという達成感とか、“私にもできた”というような自信につながったのはありますね。友達とかに配って、おいしい、おいしいと言ってもらえたのが喜びになって、今に至るという感じです。今も子どもが遊ぶ施設の中でパンを作って、パン作りを通して子どもの体をつくる、そのお手伝いをしているような気でやっています。これからも続けていけたらと思っています」

 

 さらに、大谷(おおや)地区にある寺に行き、30代の僧侶の男性から話を聞きました。震災から5か月間、寺は避難所になったそうで、当時をしみじみ振り返っていました。

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男性は僧侶以外に、NPO法人『浜わらす」の理事も務めています。この団体は子どもたちに海を身近に感じてもらおうと設立され、砂浜遊びやシーカヤック、漁業体験など、海を通じて地元の良さを伝えています。

 「震災後、海を知らない子どもというか、親が“あまり海に近づかないように”って教える流れを地域全体に感じていたので、やっぱり気仙沼は海から恩恵を受けて生活しているので、きちんと海のことを知って、ちゃんと暮らしていくことが大切なのかなと…。子どもたちはいつも笑顔で、本当に心から楽しんでやっているのかなと思います。海とか自然の体験を通して、“思いやる気持ち”が出てきますので、地元の気仙沼は素晴らしい所だと、少しずつ思ってもらって、愛着を持ってほしいと思います」

 

 その後、鹿折地区にあるうどん店に行きました。

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店主の50代の男性は4年前に取材した方で、当時は仮設商店街に店がありました。かさ上げ工事のため1か月後には商店街の閉鎖が決まっていましたが、元の場所は造成中で、引き渡しまでの7か月間は営業する場所がない状態でした。

 「また別の場所に店を構えると、そこから動けなくなりますし…。今後はちょっと分からないので、いったんここで“お疲れ様です”という感じです。引き渡しを待って店を構えるなら、出稼ぎなりなんなりして家族の生活をみて、何年かかるか分からないけども再建に向けて動こうかなと…」

 時が経ち、男性は去年暮れに、元の場所で念願の店を再建しました。奥様や次男とともに、家族で切り盛りしています。ただ現在はコロナ禍の影響で、夜間の営業は売り上げが激減したそうです。

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 「本当は平成のうちに再建したかったんですけどね(笑)。平日は建設関係の人たちが来てくれて、土日は家族連れとか、地元の人たちにかなり来ていただいて、本当に助かっています。お客さんに来てもらわないといけない商売なのに、それがコロナでなかなか言いづらかったり…作戦はほとんどないですよ。“店を建てました、スタートしました、閉めました”という形にはなりたくないので、何とかこのコロナを乗り切りながら頑張っていかないと…。震災後から“有言実行”という言葉にひかれまして、今も本当に大変な状況なんですけど、自分にプレッシャーを与えて現実に進んでいこうと思って…」

 

 最後に、気仙沼湾に浮かぶ大島(おおしま)に行きました。

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去年、半世紀にわたる悲願が実って本土への橋が開通し、島の店主たちがつくった商業施設がオープンして、工事延期が続いていた観光施設も今年3月にようやく完成しました。去年の大島の観光客数は60万人を超え、開通前(2018年)の約7倍です。島では、震災直後から営業している旅館を訪ねてみました。3代目となる40代の男性に聞くと、これまで主な宿泊客は復興工事の作業員でしたが、橋の開通とともに売り上げが増加したため、資金を調達して37年ぶりの大規模改修を始めたそうです。

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しかし、コロナ禍で手元資金の減少に不安を感じ、一部の工事は中止しました。来年春には気仙沼湾を横断する高速道路(三陸道)が開通し、仙台からのさらなるアクセス向上に期待していました。

 「震災時は気仙沼湾が火の海で、もうこんな所に観光客が来るわけないと思ったので、精神的にだいぶまいりましたけど…。リピーターの方とか旅行会社の方のおかげで、何とかこの商売を今日まで続けてこられました。震災の場合は1日1日経つごとに、ゴールが遠くのほうでも何となく光が見えてきましたけど、コロナだけは本当に収まるのか、この生活がずっと続くのか、不安でいっぱいです。また半年、1年続くのであれば、とても100万、200万の給付金をもらったところで、どうにもならないですね。そろそろタイムリミット…今がギブアップするぎりぎりのラインですね。来年3月31日までには三陸道も気仙沼湾を通りますので、ぜひ気仙沼大島にいらしてください。ちょうど震災から10年になりますので、私は前を向いて、10年を節目として、自立してやっていかなきゃいけないと思っています」

 大島への架橋、三陸道による市中心部と仙台との直結、さらに来年には三陸道が気仙沼湾も横断するという、観光に追い風が吹く中でのコロナ禍です。特産のフカヒレの業者なども、外食需要の低迷で大打撃を受けました。震災より厳しいと語る事業者もいて、本当に感染症の終息を祈るしかありません。