10月17日放送「宮城県 丸森町」

 いつもご覧いただき、ありがとうございます。
 今回は、“台風19号から1年”の特集です。岩手・宮城・福島の3県では、台風19号により28000棟以上の住宅が被災し、62人が犠牲になりました(うち行方不明2人)。プレハブ仮設住宅やみなし仮設住宅に暮らす方々は、3県で4700人を超えています。宮城と福島の河川堤防の決壊地点(87ヶ所)のうち、26ヶ所はまだ本格的に復旧していません。この番組では発災直後、福島県の阿武隈(あぶくま)川沿いや、宮城県の吉田(よしだ)川沿いの被災地を取材しました。1年後の今回は、去年訪れることができなかった宮城県丸森町(まるもりまち)を訪ねました。

 

 丸森町では、台風19号で11人が亡くなり、今も1人が行方不明です。

20201017_1.jpg

川の氾濫のほか、役場や住宅が集まる中心部は排水が追いつかず、浸水しました。土砂崩れも発生し、今も巨大な岩が散乱した地区があります。被害総額は470億円以上で、半壊以上の住宅は817戸、床上・床下浸水は1223戸です。9月末現在、プレハブ仮設住宅とみなし仮設住宅に564人が暮らしていて、町は浸水した町営住宅を現地再建し、災害公営住宅も建設する予定です。福島県境にある丸森町は、震災以降、山菜などの出荷制限や風評被害など、原発事故の影響を受けてきました。その上、台風に見舞われたのです。

 

 はじめに、町の中心部から20㎞離れた、筆甫(ひっぽ)地区・鷲ノ平(わしのひら)集落を訪ねました。台風の直後、一時孤立した集落です(孤立解消は台風の4日後)。

20201017_2.jpg

夫婦でここに暮らす70代の男性によれば、8世帯ある集落の住民が力をあわせ、行政の手を借りず、重機で道路のがれきを片づけたそうです。町の中心部への主要ルートは今も寸断されていて、県道丸森霊山(りょうぜん)線は4.8㎞が通行止め、町道五福谷北山(ごふくやきたやま)線も通行止めで、復旧工事はあと1~2年かかります。男性が使う林道鷲の平線も不通で、車両通行止めの地点から歩いて20分行くと、川沿いの山肌を走る道路は完全に崩れ落ちて消滅し、ひたすら岩石が散らばっていました。復旧工事の終了は4年後だそうです。

 「電気も電話も全部ストップで、木も倒れるし、電柱も倒れたから、それをどかして、砂利を集めてならして、とにかく歩けるように片づけたんです。道を通した時は、“自分たちでやったんだ”って思ったね。以前は15分くらいで(中心部まで)行ったのに、その倍以上かかるから、みんな一番苦労しているね。山のほうは工事が遅れている感じがします。後回しになっているというか…。買い物だけでなく、とにかく中央(=中心部)に行けるのは、災害の時なども何か情報が入るし、安心感はあるよね」

 次に、プレハブ仮設が並ぶ和田(わだ)仮設団地に行きました。

20201017_3.jpg

2人の娘と暮らす80代の男性は、自宅が川の氾濫で大規模半壊しました(まもなく解体予定)。男性の集落では、国から費用が出る防災集団移転事業を要望しましたが、規定のルール通りに進めると、移転まで3年半を越える可能性がありました。そこで住民自身が地権者の協力を得て、500m離れた場所に用地を確保し、自己資金で宅地で造成することになりました。国の事業ならあるはずの移転跡地の買い取りはなく、その分のお金が手に入りません。道路と水道だけは町が整備し、来年中には10戸の移転が完了する見込みです。

20201017_4.jpg

 「あそこ(浸水した自宅)で生まれたんですから、夜寝るとね、幼いときからの思い出が走馬灯のように思い出されるんですね、“あの時こうだった、ああだった”って…。集団移転するのは、ただただ集落の人との交際を断ちたくないから。心のつながりだね。何かの時は無償でお手伝いして共同でやってきたし…。家を建てなくちゃならないって、それが一つの励みになっているね。ただただ前進、これしか思い浮かばないんですよ。人生行けるところまで行ってみましょう、頑張ってみようと思います」

 そして町の中心部の近くでは、60代の農家の男性にも話を聞きました。男性の自宅から100mの地点で堤防が決壊し、家族6人は無事だったものの、自宅のほか、田畑や農業用ハウス5棟、農機具や車も水に浸かりました(自宅は床上191cmも浸水)。ボランティアの協力で5か月後には自宅の修繕が完了し、ハウス3棟を修理して農業も再開しましたが、出荷量は以前の3割です。一部のハウスや田畑には、1m以上の泥が積もり、手つかずのままです。

20201017_5.jpg

男性は地域の自主防災会の事務局も務め、県のハザードマップに台風19号の堤防決壊地点や洪水の流れを書き込み、住民に防災を呼びかけています。

 「家の中のものはヘドロだらけで、残ったのはテーブル2つくらいでしたね。いま復旧工事をやっていますけど、それを待つしかないでしょう。泥が浅いところは自力でやりますけど、ほとんどは自分では無理な状態です。地域として今回の災害を教訓にしなければ、これからの人の安全は確保できないです。どこが危険なのかを知っておくのが一番大事で、振り返りが大事ですよ。この災害を理解して、防災力を深めていって、少しでも災害を押し返すことができれば…みんなの協力が必要です」

 さらに、中心部から8㎞の大内(おおうち)地区にも行きました。直売所の新米販売会に来ていた60代の男性は、30戸の農家で組織する農業法人の代表で、地区の30haの田んぼでコメを栽培しています。

20201017_6.jpg

この地区は川沿いに農地が広がっていて大きな被害が出ましたが、田んぼは見事に黄金色でした。

 「今年のコメ作りなんて、どのくらいできるか心配したんですけどね。組合員みんなで力を合わせると、相当なことができるんだと思いました。みんなで田んぼを早く直して使おうと、一緒になってやったからこそ、短時間で直すこともできたのかなと思います。本当に皆さん、負けないでやってきた感じはします。台風の被害を受けて、みんなで力をあわせて前向きに進んでいこう、みんなの元気でこの地域をもっと良くしたいという思いがあります」

 

 その後、江戸時代から400年続くとされる‟丸森和紙”の工房を訪ねました。

20201017_7.jpg

職人歴60年という80代の男性と70代の妻が、支え合って工房を守っています。和紙は地元商店などで販売し、全国の書道家からの注文も受けています。自宅は床下浸水で和紙製作の道具も無事でしたが、例年なら空っぽになる和紙の棚に在庫が山積みになっており、こんなことは初めてだと言いました。コメや野菜を育てていた田畑は台風で浸水し、復旧には数年かかります。

 「店をやっているおじいちゃん、おばあちゃんが年をとったから、小さい商店は台風の後は解体して、もう若い人は店をやらない。食べるコメは買わなくてはならないし、お金をとれないから外で働きに行こうも思っても、80歳になってから雇ってくれるところはどこもないもの。少しばかりの野菜を目の前の畑につくると、イノシシが食べていくし…。紙がなんぼかでも売れればいいんだけどね。電気ストーブの電気代払えるくらいは入ってくるといいんだけど」

 工房には、子どもたちからの感謝のメッセージがたくさん貼られていました。

20201017_8.jpg

聞けば、地元の小学校では毎年この工房で児童自ら紙をすき、卒業証書にするそうです。夫婦は最後にこう言いました。

 「丸森で育って、“丸森でこういう紙をすいたなあ”っていう思い出を残すために、うちでやってあげようと言ったんだ。12月には(材料の)コウゾを切ってふかして、子どもたちに皮をむかせて、何とかすかせてやりたいなと思って…それだけはね」

 和紙工房は2軒だけで、もう1軒は浸水しました。台風は伝統産業にも爪あとを残しています。

 最後に、この夫婦が作る和紙や地元の工芸品を販売している人を訪ねました。町出身のデザイナーの女性と、元ゲーム会社勤務で広島出身の男性です。ともに20代の2人は災害ボランティアとして活動し、今年4月に共同でデザイン会社を設立しました。植物のつるで編んだバッグや、ワラ細工の鍋敷きなど、地元のお年寄りが作る工芸品のネット販売を始めました。

20201017_9.jpg

役場からの発注で、出前やテイクアウトができる飲食店のパンフレット、町のポスターなども制作し、好評だそうです。女性はこう言いました。

 「商品を見て、若い方々は“可愛い”“すてき”って言うし、お年を召した方だと“懐かしい”って言うし、すごくそこは面白いです。町の物産館とか、県南部の道の駅だけでしか売っていなかったので、もうちょっと外に出回ってもいいんじゃないかなって…。前は自分の知り合いくらいしか見えてなくて、そんなに地域のことを考える時間もなかったんですけど、ボランティアをやって、“地域の解像度が上がった”という感じはありました。こんなにおじいちゃん、おばあちゃんの知り合いができることもなかったし、工芸品の仕事をやることもなかったし…。この町で楽しくやっていきたいです」

 身近なものに全国で通用する価値を見出し、ネットという手段で一気に広めて販売するのは、高齢者だけではほぼ不可能です。震災、台風、感染症と降りかかる困難の中、若者は町の希望です。