10月10日放送「岩手県 釜石市」
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今回は、岩手県釜石(かまいし)市です。人口は約32000で、震災では1000人あまりが犠牲になりました。4700棟以上の住宅が被災し、漁船の被災率も97%に上ります。2年前、災害公営住宅が全て完成し、宅地整備も完了しました。去年はラグビーワールドカップの試合が開催され、海外からも多くのファンが訪れて大いに盛り上がりました。今年は10年越しの『復興まちづくり基本計画』の最終年度で、プレハブの仮設住宅の入居者も20人程度にまで減っています。
はじめに、東部地区に行きました。多くの店が立ち並ぶ市の中心部ですが、津波は建物の2階にまで達しました。現在、震災の痕跡は津波到達点を示す看板ぐらいで、2014年には大手資本のイオンが進出し、飲食店や小売店など9店舗が入る商業施設や情報交流センター、市民ホールも整備されました。
創業70年の食堂を訪ねると、60代の男性が1人で切り盛りしていました。店は津波で全壊し、仮設店舗を経て、7年前に自宅兼店舗を再建したそうです。
地区のあまりの変貌ぶりに、以前その場所に誰が住んでいたか、すぐ思い出せなくなったと言います。再建のための借金が残る中、新型コロナウイルスで客足は減少し、少しでも売り上げを伸ばそうと割引販売のテイクアウトを始めました。
「去年はワールドカップがあって結構にぎわったけど、それが終わったら今度はコロナがあって、すぐ収まるだろうと思っていたら、収束どころか拡大するような状態になったからね。今後一体どうなるのかなって思います。コロナがなかったら、もっと穏やかだったと思うけどね。これからはお互いに助け合っていけばいいんじゃないかと思います。そうすれば嫌なこともなくなるんじゃないかと…。必死でやっている状態だから、今後こうなればいいとか、聞かれてもピンとこないですね」
男性の言葉は、多くの自営業者の本音でしょう。誰もが今、ギリギリの努力を続けています。
そして、津波被害の大きかった鵜住居(うのすまい)地区を訪ねました。去年3月、観光交流施設“鵜の郷(うのさと)交流館”が三陸鉄道・鵜住居駅前に整備され、中で食堂や商店が営業を始めています。
近くには震災伝承施設もつくられたほか、地区内にはスーパーを核とした商業施設や市民体育館もオープンしました(体育館の完成により市内の公共施設の復旧は全て完了)。“鵜の郷交流館”で土産物店を営む60代の男性は、津波で店を流され、仮設店舗を経て施設内に店を再建しました。
自前の店舗再建は、かさ上げ工事などが長引いて諦めたそうです。現在の売り上げは例年の4分の1ですが、地域を盛り上げようと商店街の盆踊りを復活させたり、地名入りマグカップなどの新商品もつくりました。
「ワールドカップが終わった後、台風19号で津波の被災時に戻った感じになって、それでもなんとか盛り上げていこうと思っていたのにコロナが来て…。ここでこけちゃったら、何のために頑張ってきたのか分からないですよ。はっきり言って、今が踏ん張りどころです。とにかく鵜住居地区にみんなが帰ってきて、帰って来られなくてもどこかでこっちを向いていて、鵜住居は頑張っているんだよという姿を見ていただきたいです。市長でも町内会長でもないですけど、できることはやっていきたいです」
去年は釜石港の近くにも飲食店が並ぶ施設がオープンし、釜石全体に“やっとここまできた”という空気があるのは事実です。もうこれ以上、つまずきたくないという思いはよく分かります。
さらに鵜住居地区にある根浜(ねばま)集落に行きました。震災前に住んでいた67世帯のうち、約半数が高台移転しています。
移転を機に、2年前から民泊を始めたという60代の男性は、元は製鉄所勤務のサラリーマンで、民宿を経営していた両親を津波で亡くしました。宿泊者には震災のことも伝えるそうですが、コロナ禍のため高齢者の多い集落に遠方からの客は受け入れづらく、今年度の来客はほぼゼロです。
週に1度は“お茶会”を開き、近隣住民との絆も大切にしています。
「高台に移転して、家を建てて生活が安定してくれば、復興としてゴール地点になろうかと思います。それでお世話になった皆さんとの縁が切れるのも申し訳ない話なので、私の家を安く泊まれる宿にすれば、来やすいかなと思って…。東日本大震災を絶対忘れない、全国の皆様からご支援いただいた感謝の気持ちを忘れない、そして地域とともに未来に進んでいきたいです。過去の苦しかったこと、悲しかったことはどんどん忘れていきますよね。もちろん忘れた方がいい部分もありますけど、やっぱり大事なことは絶対忘れないという強い気持ちを持たないと…。みんな、死にたくて死んでいる訳ではないんですよ。そのことは絶対忘れちゃいけない。生きている人間が元気でなければ、死んだ人も浮かばれません。我々が元気で楽しく生きていることが、仏さんにとって最大の供養だと思っています」
その後、中心部から車で20分の甲子(かっし)地区に行きました。震災翌年、この地区の中に、70代夫婦の発案で“こすもす公園”がつくられました。
夫婦が所有する敷地で、以前はコスモス畑だったそうです。今も公園のあちこちにコスモスが咲き誇り、木製の滑り台など、手作りの遊具もあります。夫婦は震災直後、ボランティアに食事と泊まる場所を提供しつづけ、ボランティアたちは恩返しに公園の整備を引き受けました。公園ではこれまで、餅つきやピザ焼き体験などの催しも行われました。
「震災後、公園が仮設住宅の用地として潰されて、遊び場がないっていうことで、“じゃあ、子どもたちのために公園つくろうか”って思い立ったんです。被災した子どもを元気にしたい…楽しみながら、つくりながら無我夢中できた感じですかね。人との交流ができて、普通は会えないような人とも会えたし、私たちからすると一番の財産、宝物ですよね。元気な声や笑い声を聞いて、子どもたちから逆に癒されています。お互いに与えあっている公園です」
また、市の南部にある唐丹(とうに)地区にも行きました。
本郷(ほんごう)集落では、震災の2年後に取材した70代の女性を再び訪ねました。当時は津波で浸水した家を直して住んでいて、集落一帯のかさ上げ工事のため仮設住宅への転居が決まっており、家は取り壊すことになりました。
「複雑だね…何て言うのかな、言葉にならないような感じ。一生懸命に働いてつくった家を、よけなきゃいけないって、寂しいね。復興のためというか…」
あれから7年…。集落の土地は3mほどかさ上げされ、12戸の住宅が新しく建てられました。女性は集落に戻って2世帯住宅を建て、息子家族と7人で暮らしています。ご主人と2人でこう言いました。
「やっぱり家があるというのはいいことだね。12軒建っている新しい家の人たちも、一緒に仮設から来て、同じ集落で昔からの付き合いがあるじゃないですか。それで、スムーズにいっているのがよかったです。災害が起きて、2、3回避難したことありますけど、隣り同士で“どうする?避難しますか?”という感じでやっているから、普段の声の掛け合いが大事だなと思います」
取材中も、ご近所の方がとれたてのキノコを持ってきました。地域の絆に支えられて暮らしています。
最後に、市の東部にある平田(へいた)地区に行き、4年前に取材した70代の女性を訪ねました。営んでいた薬店が津波で全壊し、仮設商店街での営業を強いられていました。
当時はこう言いました。
「1年ぐらい前から“ああ、町並みが変わってきたな”と思うようになって、新しく変わった町を見たいという思いが強くなってきましたね。それまでは頑張ろうという思いです。この年齢でローンを抱えることはできませんので、極力お金をかけないで、何とかやっていけるようにと思っています」
あれから4年…。女性はおととし、同じ地区内で店舗兼自宅を再建しました。
「もっと家が建って、前の賑わいが戻るかなっていう期待感があったんですけど、戻ってくる方も少ないので、想像していた町並みとはちょっと違うかなって…。でも、今コロナで田舎が見直されているので、都会から若い人たちが移住できる場所ではあると思うんです。新しい事業なり会社ができる、そういう拠点になれるかなって…。これからじゃないかって思うんです。前のようにはいかないでしょうけど、ここがちょっと一息つける場所、愚痴でも話せる場所になればいいかなって思いますね」
平田地区だけでなく、例えば鵜住居地区では、約50haをかさ上げする土地区画整理事業を展開したものの、工事に時間がかかったため土地の所有者が災害公営住宅に入居したり、地元を離れてしまい、多くの空き地が生じています。コロナ禍だからこそ可能性もあるという指摘は一理あって、市も、釜石の魅力を発信して移住促進を図る“移住コーディネーター”を配置するなど、新たな施策を始めています。