9月12日放送「岩手県 岩泉町」

 東日本大震災から9年半が経ちました。あと半年で10年かと思うと、何だか信じられない気持ちです。岩手・宮城・福島の3県で5万3千戸近く建てられたプレハブの仮設住宅も、9年半が経った今、入居者は岩手120人、福島5人、宮城では今年4月に全員が退去しました。本当に時の流れを感じます。 


 今回は、岩手県岩泉町(いわいずみちょう)です。人口が約9千の町で、震災では小本(おもと)地区が津波を受け、13人が犠牲になり、住宅の全半壊は200棟近くに及びました。

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その後、2016年8月末には台風10号の直撃を受け、グループホームの高齢者9人を含む25人が犠牲になり、住宅以外も含めた建物被害は1900棟を超えました。さらに、去年の台風19号でも被害が出ました。


 はじめに、津波被害を受けた小本地区で、震災から間もない頃に取材した方々を再び訪ねました。

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震災前、地区には158世帯が暮らしていましたが、現在は56世帯です。震災から8か月後に出会った夫婦は、流失を免れた家で暮らしていました。このまま住み続けてよいか、2人は迷っていました。

 「一応、ここは津波浸水区域になっていますからね。今のところはまだ決まりません。何しろ、みんな無くなって寂しいから、やっぱり一人でも二人でも帰ってくるように願っています」

あれから9年…。70代と60代の夫婦は今も同じ場所で暮らしていました。ご主人はこう言いました。

 「震災後にまた洪水が起きて、台風10号の時もギリギリ、19号でちょっと床上浸水で…。でも、しょうがないなと思ってね。2年に1度の大掃除だと思ったりして、1階のものを整理したりしています。災害がなければ、安心して住める小本です。生まれた時からここにいるから、何も考えないで自然にそのままいる感じなのかな。おそらくまた何かで家が無くなっても、やっぱりここがいいなと思えば、またさらに家を建ててまた住むんじゃないですかね」


 次に、3年前にオープンした“浜の駅おもと 愛土館(あいどかん)”に行きました。

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集団移転の跡地に町が整備した施設で、漁師から仕入れた魚を格安で販売しています。

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支配人の60代の男性は、震災から8か月後にも取材した方でした。当時は被災した場所に住み続けるか迷いながら、自宅を応急修理して、夫婦で暮らしていました。

 「最初の2か月3か月は何も考えられないというか、自分も気持ちが暗かったんだけど…。でも休みのたびに少しずつ、壁にいろんな貼り紙をくっつけたり、それが楽しみって言えば楽しみでね」

 あれから9年…。男性は自宅を解体し、内陸部に集団移転しました。仕事場である浜の駅からは、自宅の跡地が見えます。

 「元の場所が見えるのはうれしかったり、苦しかったりだけども、やっぱりどっかで心を切り替えないと、いつまでもその苦しみを引きずるような気がして…。それで移転・新築して、今それを喜びに変えています。年とった人たちには、やっぱり心の中に震災が残っていると思うんです。私にも小本は、どっかそういう苦しみの場所だったけど、それを変えるための移転・新築、また頑張んなきゃいけない」


 さらに、沿岸部から2㎞ほど内陸にある集団移転先の住宅地に行き、6年前に取材した80代の女性を訪ねました。

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夫とともに50年近く新聞販売店を営んでいましたが、自宅兼店舗の1階が津波の被害を受け、2階で生活しながら修理しました。ここまで夫に支えられて暮らしてきたと言いました。

 「父ちゃんと皆さんに感謝です。私がちょっと具合が悪いと、父ちゃんがご飯の支度をしてくれるしね。消防の方もボランティアの方も、ここを覚えていてくれて、いまだに来てくれるのはありがたいね」

 取材の翌年、女性は集団移転先の現在の家に引っ越し、しばらく夫婦で店も続けていました。今年5月、高齢を理由に店を閉め、今は好きな花を育てて暮らしているそうです。

 「年だから、とにかく迷惑かけないように店はやめました。配達の人達もみんなよくやってくれたし、私らのことも考えてくれるのか、新聞もとってくれて、皆様のおかげだよね。新しい家はゆっくりできますよ。トイレとお風呂が近いのが一番いいね。今の暮らしは本当に自由というかね」

 岩泉町の津波被害は限定的だったため(海に面しているのは小本地区だけ)、すでに震災復興計画の達成率はほぼ100%です。震災関連の大型の公共工事は2015年度末で大体終わり、住宅再建や集団移転、災害公営住宅への入居もすっかり終わりました。皆さんの表情は、以前より穏やかになっていました。


 その後、小本地区を離れて中心部へ向かいました。江戸時代から続く商店は、酒や食料品を扱うほか、地元食材を使った加工品も製造しています。

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おすすめは地元農家が栽培する‟フルーツほおずき”のジャムですが、販売開始の直後に震災が起きたそうです。

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7代目の40代の女性によれば、建物や工場に震災や台風の被害はほとんどありませんでしたが、原料が入ってこないため商売が止まったそうです。

 「いやあ、怒涛の9年半でしたよね。いろんなことが毎日毎日押し寄せてきたので、たぶんこの先何があっても驚かない覚悟というか、この後もまた何かあるのかもしれないけど、“今まで乗り越えてこられたから、次もきっと乗り越えられるだろう”と前を向いて歩いていけるようなものを得たんじゃないかなと思いますね。常に商品を介して、全国の方々に認めていただいたり、助けていただいたり、人とのご縁も頂戴してきましたので、それが広がっていくように努力していきたいと思っています」

 この商店の近くには、創業45年の家具メーカーの工場がありました。岩泉の木材にこだわり、椅子をはじめ様々な注文家具を作っています。

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ここは台風10号で大きな被害を受けました。2016年8月末の台風10号は、震災よりも圧倒的に大きな被害をもたらし、被害総額は震災が44億円、台風10号は約10倍の420億円余です。犠牲者や被災家屋の数も多く、町内の至る所で道路の寸断・崩壊が発生し、畜産や酪農の施設、サケのふ化場など、基幹産業の施設も著しい被害を受けました。私も直後に取材しましたが、津波の後の光景とほぼ同じでした。家具メーカーの専務、30代の男性によれば、工場の1階はひざ下くらいまで泥がたまり、十数棟あった木材置き場の倉庫も、半分が流されたり解体を余儀なくされたそうです。被害額は約4000万円で、職人さん達が作業場の泥をかき出し、修理できる機材は自ら修理したほか、川沿いを歩いて流された木材を回収したそうです。 

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 「職人さんもみんな、先行きが分からない中で残ってくれたので、それが私にとっては一番の原動力でしたね。岩泉に生まれ育った者として、地元の恵みをしっかり生かした家具作りをずっと続けていきたいと思います。地域が好きなんでしょね…地域が好きだから、作業効率を優先させて盛岡の近くに移るとか、コスト優先で外国の材木を使うという気は起きないし、こういう地域だからこそ、自然の恵みをいただきながら、自然も大切にして生きていけるのかなと思いますね」


 最後に、中心部から車で40分の牧場に行きました。ここでは台風10号で近くの川が氾濫し、幸い牛舎は浸水を免れたものの、集落が完全に孤立しました。

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牛も元気で搾乳も可能でしたが、出荷ができなくなりました。牧場は20代の男性とその母親で経営していて、以前は祖父母も一緒に働いていましたが、祖父は台風10号の直前に入院し、今は介護施設で暮らしています。祖母も牧場の仕事は引退しました。台風10号から数か月後には、母親も背骨を骨折して1か月ほど入院し、退院してもしばらく働けませんでした。そんな中、心の支えとなったのは大好きなプロレス観戦だったそうです。

 「この状況がいつまで続くんだろうっていう不安が目の前に来て、顔にべったり貼りついているんじゃないかって感じでしたね。真っ暗で…。嫌なこともありますけど、それでも牧場をやるって自分で決めたんで、引かずに前に進もうと思います。『諦めなければ、光は見える』らしいです。“らしい”をつけたのは、自分の言葉ではなくて、尊敬するプロレスラーで“制御不能のカリスマ”と呼ばれる内藤哲也選手の言葉だからです。内藤選手は何度でも諦めず立ち上がって、相手に向かっていく、その姿が本当に格好よくて…。本当につらくて心も体もボロボロになった時もあったんですけど、本当に小さな光がどうにか自分にも見えて、この言葉を自分のものにできたらいいなと思っています」

 台風10号の復旧事業は昨年度がピークで、災害公営住宅の入居や移転先の宅地分譲は去年完了しました。農業の復旧事業や、町特産のヨーグルトで知られる乳業メーカーなど、商工業者の復旧も大体終わっています。日本一の生産量を誇る畑ワサビの加工施設も復旧し、特に被害が大きい安家(あっか)地区でも、町の支所や診療所などが入る複合施設ができました。ただ、氾濫した小本川の改修工事は完成が2年遅れる見通しで、もう一押し、復旧が続きます。